消えてしまった私の恋。
2020年5月7日
 

 
 
 
 もう五月。
 あのウイルスが世間を轟かせてから、二ヶ月が経った。
 〝機械仕掛けの太陽〟は収まるどころか、増え続け五月三日にはとうとう国内の感染者がクルーズ船を除いて一万五千人を超えた。そのせいか、五月六日となっていた緊急事態宣言が五月三十一日までに延長された。
 そんな中、隣国韓国ではナイトクラブで集団感染が発生するなど、今や人類はウイルスとの全面戦争に陥っていた。
 
 ――はぁ……。GWなのに、なんでこんなに気持ちが沈んでいるんだろ。
 本来のGWは楽しく友人と旅行に行けたのに、コロナ禍の今はどこにも行けず、ただベッドで寝転んでいた。
 しかも、あの出来事以来、私は一歩も外出していない。
 それは良いことのように思えるでしょ? だって、外出しちゃいけないんだもん。親からもそうだし、学校からもそうだし、政府からもそうだし。
 この一年、一体どうなるんだろう。このまま人類が絶滅しちゃうのかな。ウイルスによって。
 将来に絶望する私に、ある通知音が頭の中を覚まさせる。
 「誰だろ……」
 そう思って、机に置いていた携帯を手に取って通知を確認する。少し薄暗かったので、数日ぶりにカーテンを開けて日の光を部屋の中に入れる。
 「あんたかよ……」
 通知の正体は彼氏からだった。『ごめん』と一言だけ綴られたメッセージが送られていた。
 私は大きく舌打ちをしてその通知を見ずに消し、携帯を机に伏せる。
 あの出来事から彼氏から毎日のように『ごめん』と送られてくる。決まった時間に。その度に私は無視をしているが、彼氏も諦めずに送り続けている。
 ――早く送るのを止めれば良いのに。自暴自棄野郎。
 心の中で彼氏に対する悪態をつくと、ある考えが思い浮かぶ。
 
 ――別れるか。
 
 私はベッドから起き上がり、机から携帯を取ってまたベッドに寝転ぶ。そして、メッセージアプリを開いて、彼氏とのやりとりをタップする。
 「懐かし」
 独り言が静かで闇に沈んだ部屋の中に溶け込むと、ピロンと音が鳴る。
 彼氏からだった。
 『ごめん』
 私が既読をつけたからだろう。今までとは異なり、その後の文章も加わっていた。
 『ごめん。あの時は本当にごめん。僕がどうにかしてた。家族のことも、自分のことも、ウイルスのことも、全部巴にぶつけるの良くなかったよな。悪い。全部、僕のせい』
 不思議なことに、その文章には一度もときめかず、ただボーッと羅列した文章を見るだけに留まっていた。
 ――もう、あの頃の気持ちは私に無いんだ。きっと。
 『別れよう。こんなので、関係が長く続くとは思えない』
 文を読み返さず、送信する。すると、彼氏から数秒経って返信が来た。
 『そうだね。僕もそう思ってたし、こんなので関係が長く続くとは思えない』
 そして、次に送られてきた文章もこう綴られていた。
 『それに……、僕、やっぱり感染してたんだ』
 ――自暴自棄になった挙げ句、コロナに感染、ねぇ。哀れなものだ。
 なぜか鼻で笑ってしまうと、続けて送られてきた文章を読む。
 『もう、僕、長くはもたないと思うんだ。喘息の持病もあるし、今は軽症で済んでるけどそのうち重症化して病院に運ばれて、そのうち死ぬ。どうせ僕なんか、こういう人生なんだ』
 人生を棒に振った台詞を彼氏が展開させると、私はこう文章を綴った。
 『あっそう』
 自分でも驚く程の軽さだった。もう、彼氏に興味なんて無いんだなって。
 返信を送った後、暫くしてから彼氏から返信が来たけど、私のこの心情を察したのかスタンプだけだった。少し寂しい気持ちもあったが、自分のこの気持ちを考えればあまり気にすることも無かった。
 携帯を枕元に伏せ、そのまま枕に顔を沈める。
 
 ――はぁ……。私の恋愛ってどうなっちゃったんだろ……。
 あのウイルスのせいで、こうなった。
 あのウイルスが無ければ、こんなことにはならなかった。
 あのウイルスが無ければ、すべて上手くいくはずだった。
 それなのに。
 それなのに。
 それなのに。
 どうして。
 こんなことに。
 「クッソ‼」
 ベッドに叩き付けながら、枕に向かって叫ぶ。自分の叫び声が虚しく部屋に沈んだ。
 もう、こんな人生嫌だ。
 嫌すぎる。
 こんな嫌な恋愛を経験し、
 こんな嫌な人生を全うするなら。
 死んじゃった方が良い。
 あの彼氏と同じような思考になるけど、それでも良い。
 もう、あいつは関係ない。
 私は鉛のように重くなった身体を細い腕で持ち上げ、机にフラフラと向かう。そして、引き出しから小さなハサミを取り出す。
 ゴクン。
 唾を飲み込む音がやけに自分の鼓膜に大きく響いた。
 ――ふぅ……。
 深呼吸をして、震え出す自分の腕を何とかして鎮めさせ、ハサミを持つ。
 ――すぅ。
 ゴクリ。
 「もう、終わりにしよう」
 ハサミを自分の手首に向けた瞬間、下から騒がしい音が聞こえる。
 「……誰」
 私はドアに身体をすり寄せ、聞こえる足音に耳を澄ます。
 すると、ドスンと大きな音が私の部屋にまで響く。
 「……何が、あったの?」
 私は恐る恐るドアを開くと、そこにいたのはお母さんだった。
 「お母さん‼」
 私はハサミをその場に放り投げ、倒れたお母さんに屈み込んで背中を摩る。だけど、「うぅ……」と言うだけであまり反応が良くなかった。
 「どどどど、どうしよ……。……あ、そうだ! 救急車!」
 私は自室に入って枕元に置いてあった携帯を取り、一一九番をする。何度かコール音が鳴ると、『はいこちら通信指令室です。何がありましたか?』という女性の声が聞こえた。
 「お母さんが、お母さんが倒れました!」
 『落ち着いて下さい。何があったか、教えてくれますでしょうか』
 冷静な女性の声に、私は少し気持ちが冷静になる。
 「部屋にいたんですけど、私の部屋の前でドシンという大きい音が鳴って。それでドアを開けてみたらお母さんが倒れていて」
 『分かりました。では、あなたのお名前と住所を教えて下さい』
 そう言われ、私は自分の名前と自宅の住所を告げた。
 『分かりました。それでは、母親に何かあったらそちらに到着した救急隊員に報告をお願いします』
 冷静な女性の声に私は「はい」と答えて電話を切った。
 暫くしてお母さんの状況を見ていると、咳き込む姿が目に写る。
 ――……咳。
 咳き込む母の姿を見て、私は咄嗟に一階のリビングに入り箱に入っていたマスクから一枚取り出し、再びお母さんの元に駆け寄る。その時の私の様子を見たのか、お父さんがマスクをして私の隣に来る。
 「母さん、大丈夫なのか?」とお父さん。
 私は首を横に振って、「分かんない。咳き込んでいるし、いきなり倒れたから救急車呼んだ」
 「そうか……。コロナじゃなければ良いけどな……」
 心配そうにお母さんを見つめるお父さんは、「ちょっと、一階に戻って準備してくる」と言い残し階段を下りる。
 ――今も咳が……。
 苦しそうに咳をするお母さんを目に、私はあることを脳裏に浮かばせていた。
 
 ――あの人、大丈夫なのかな。
 先程別れたあの彼氏の存在を脳裏に浮かべる。喘息の持病を持っていたって言っていたけど、重症化しないんだろうか……。
 そんなことを余所に思っていたら、再びお母さんが咳き込む。苦しそうにしている姿を見て、思わず胸が痛む。すると、口元から離した手には血が付着していた。
 「ひっ」
 喉から小さな悲鳴が出る。
 ――これ、コロナじゃない……? お母さんは別の疾患に罹ってる……?
 一瞬そう思いかけた瞬間、外からサイレンの音が聞こえた。
 ――来た‼
 心の中で喜びつつも、冷静になって救急隊員が来るのを待つ。階段を駆け上る音を耳にすると、「通報者ですか」と水色のガーゼを着たヘルメットの男性が言う。
 「はい」
 私はその男の目をしっかりと見て言う。
 「お母さんの状況はどうですか」
 「変わらず、咳き込みが辛そうです。それに」一度喉が閉じかけたが、唾液を飲んでもう一度言葉に出す。
 「それに、咳をするときに血が出てました」
 そう言った瞬間、男性の目が大きく見開く。
 「……喀血」
 「え?」
 私は喀血という聞き慣れない言葉を聞くが、「説明は後です。今はお母さんを病院に運ぶことを最優先にします」と男性は言って、二人がかりで狭い廊下、狭い階段を苦しそうなお母さんを運ぶ。
 玄関に辿り着き、お母さんがストレッチャーに乗せられる。
 「救急車にどなたか、お乗りになって欲しいのですが」
 さっきとは別の救急隊員が私とお父さんに話しかける。お父さんは外に出る準備がされてあったのか、軽く身支度が済まされていた。
 「それでは、私が」とお父さん。
 「えなんで」
 そう言うと、お父さんが私の目に語りかける。
 「巴。気持ちなら十分に分かる。血まで吐いて苦しんでいるお母さんの姿を見て、ずっと隣で見守っていたいのは分かる。けど、ここはお父さんに任せろ。絶対、お母さんと一緒に戻ってみせるから」
 そう言い、お父さんは救急隊員と共に家から出る。
 ――……あぁ。
 玄関のドアが閉まる音が、私の鼓膜を虚しく響かせた。
 
 
 
 夕方になると、玄関のドアが開く音がした。
 私は階段を下りると、そこにはお父さん一人だけ帰っているのが見えた。
 恐る恐る玄関に向かう。
 「……お母さんは?」
 「入院だそうだ。数ヶ月間入院しないとダメらしい」
 お父さんが力なくそう言うと、「……なんで」と私が呟いていた。必死に喉から出る言葉を出ようとしても、それを出さずにはいられなかった。
 「なんで、なんで、私がこんな悲しい人生を送らないといけないのよ‼ なんで、なんで私ばっかり……。私、何も悪いことしてないのに……」
 いつの間にか顔を俯かせていた。
 「……ごめんな。何も力になってなれなくて」
 「……え?」
 涙で掠れた声が出る。
 「俺だって、麻由美の力になりたかったよ。今まで散々な迷惑を掛けた。そのことは勿論、巴だって分かっていると思う。だけど、それでも麻由美は俺をケアし続けた。あいつは俺のことを信頼してくれたんだ」
 「そうなんだ……」
 確かに言われてみれば、お母さんがお父さんを励ましているところを影から見たことがある気がする……。夜中にトイレに行っている時、リビングでよくお母さんがお父さんを励ましていたような……。その時はただ疲れてお母さんが励ましている感じだったかなって思っていたけど、まさか落ち込んでいたなんて……。
 あるときにふと見た光景が脳裏に浮かぶ。
 「だから、何があっても、俺は麻由美がいるから立ち上がることが出来たんだ。そして、巴もいるから、俺がいる」
 そう言い、私の肩を叩いて「それじゃ、着替えてくるから」と言い残して家の奥へ消えた。
 そっか。
 お父さんはお母さんがいるから、ここにいるんだ。
 そして、私がいる。
 お父さんとお母さんがいなければ、私はいない。
 唇を噛み締めていると、ある人がふと脳裏に浮かぶ。
 「――あの人」
 今頃、大丈夫なのかな。
 症状、悪化してないかな。
 ドクン。
 ドクン。
 あの人への不安の気持ちが駆られ、心臓が波打つ。
 ――すぅ。
 動かないと。謝らないと。
 自分に言い聞かせるように心の内で言い、階段を上がって自室に入る。
 そして、床に無造作に置かれていた携帯を拾い上げ、そこから元彼氏である雅へメッセージを送る。
 『ごめん。私の方こそ、謝らないといけなかった。ごめんね、あんな酷い対応をして』
 少し時間を置き、机の前に座る。
 鼓膜に時計の針の音が響く。
 重く沈んだ部屋の中に、月光が優しく差し込む。
 だけど、あの人から返信が来なかった。
 いくら経っても。
 どんなに遅れて返信をするようじゃない人なのに。
 どうして?
 どうして?
 沢山の疑問が洪水となって襲いかかる。
 どうして?
 なんで?
 そう頭の中を掻き乱していたら、ある通知音が耳の奥にまで届く。
 「雅⁉」
 一人で声を上げたが、来たのは雅ではなく、舞子からだった。
 舞子はコロナに感染して家から出られないはず。
 胸がドクンと脈打つ。
 まさか。
 恐る恐るメッセージを見る。
 そこに書かれていたのは、舞子自身のことではなく。
 雅に関してだった。
 『雅、聞いているかも知れないけど、重症化して今ICUに入っているみたい』
 
 携帯が私の手からスルリと抜け落ちた。
 
 
 
 「――すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……」
 月光がすっかり暗くなってしまった街中を照らす中、私はマスク姿で走っていた。コロナ禍が始まる前は当然マスクなんてしてないから、マスクを付けて走るなんてしたことがない。だからか、息がすぐに絶えてバテてしまう。
 「――はぁ、はぁ、はぁ……」
 雅が入院していると舞子から言われた病院まで、走ってあと三分ほどなのに道に転がってしまう。
 「――こんなので……、はぁ、はぁ、私、良いのかな……」
息の辛さが顔で感じる。
 辛い。
 辛い。
 マスクしながら走るなんて、辛い。
 でも。
 こんな現実、嫌だ。
 嫌だ。
 謝りたいんだ。私は。
 あんな惨めな対応をしてしまったお詫びを、私はしたいんだ。
 アスファルトに手を付きながら、立つ。
 「――すぅ、はぁ、すぅ、はぁ……。よし、行ける」
 少し赤く染まった頬を軽く叩き、再び走る。
 目の前に、目的の病院がある。
 大きく、『聖隷病院』と書かれた文字。
 もう少しだ。
 もう少し。
 もう少しで辿り着く。
 夜道は誰も走らない。当然だ、もう遅いんだから。
 だけど、私は走る。あの人の為に。
 冷たい風が私の頬を切った。
 
 
 
 病院の入り口を通り抜け、右手にある受付に入る。
 雅が入院した聖隷病院は、私たちが住む西東京市でナンバーツーを誇る病院。病床数も勿論多く、時折この病院に来るとき、ここに住んでいる人ではなさそうだなと感じた人達を見掛けることがある。詳しいことは知らないけど、恐らくそのぐらい大きい、ということだと思う。
 マスクの中で懸命に息を吸いながら言葉を発す。
 「星野……、雅が、入院している部屋はどこですか……」
 「すみません。今感染防止対策の一環として、原則お見舞いすることは出来ないんです」
 受付の女性が慇懃に言う。
 「……なんで」
 「ですから、感染防止対策の一環として原則お見舞いすることは出来ないと……」
 「なんで出来ないのよ‼ なんで、なんで……、私、どうしても謝りたいことがあるのに……」
 その場に崩れ落ちた私は、受付の女性に「大丈夫ですか」と声を掛けられる。
 「……大丈夫です」
 涙で掠れた声を発すると、「……お気持ちは分かります」と受付の女性が言う。
 「……え?」
 涙で赤く染まった目で彼女を見る。
 「分かります。その気持ち。大切な人に会いたいって言う気持ち」
 「だったら……! 早くっ……」
 涙で頬を濡らしながら私は声を振り絞る。だけど、彼女は首を横に振る。
 「それは無理です。私だって、本当はお見舞いに来て頂いた方々を迎え入れたいです。だけど、日常をいきなり壊すウイルスが到来し、見知らぬ人が勝手に人の庭を荒らすような行為を大勢の人にその被害が及んでいる以上、食い止めないといけない。いや、食い止めなければ終わらない。これは、戦争でもあるんです。人類と、ウイルスとの」
 「……戦争。人類と、ウイルスと」
 微かにその言葉を聞き返すと、彼女が私の肩をポンと置く。体温が心地良く感じた。
 「この戦争が終われば、きっとお見舞いが出来るはずです。きっと。だから、今はその時を待って、我慢強く頑張りましょう」
 受付の女性が両手で拳をつくり、頷く。その時の表情が、輝いていた。
 それを見て、私はなぜか頷いてしまっていた。
 なんでだろ。
 なんか、泣きたい。
 泣きたい気分。
 泣いて良いのかな。ここで。
 「――うぅ……」
 ダメだ。
 止まらない。
 止めようと思っても、止まらない。
 どうすれば、止められる?
 この涙。
 止まらない。
 「うぅうぅぅっぁうぁあぁぁあうぅぁぁぁうぁぁうあぁぁあ……‼ うぅうぅぅっぁうぁあぁぁあうぅぁぁぁうぁぁうあぁぁあ……‼」
 私の涙が、月光が差し込む病院の中に溶け込んだ、そんな気がした。
 
 
 
 雅へのお見舞いを諦め、涙でグシャグシャとなった顔のまま外へ出る。
 寒かった。
 初夏なのに。
 風が頬を切った時、ある車に乗る運転手が私を見ていた。
 見覚えのある姿。
 シワが額に刻まれ、所々にシミが混在している。
 「――お父さん?」
 私は目の前に止まっているプリウスに近づき、開いていた助手席の窓から顔を出す。
 「なんでいるの?」
 「あぁ、だって、巴が急にどっか出かけるから」
 そうだった……。私、何も言わずに出かけちゃったんだった。
 「そ、それはごめんなさい」
 「良いよ。さっきの巴の姿を見て、何だかこっちまで感動しちゃったよ」
 「え?」
 恥ずかしさが一気に込み上げてくる。
 「あんな巴の姿、見たことが無かったなぁ……。まるで、大切な人を想って泣いているみたいだった」
 「ちょっと‼」
 ガハハと豪快に笑うお父さんに、私は顔を赤くする。
 「まあまあ。とりあえず、車に早く乗って」
 「あ、うん」
 言われるがままに助手席に座り、シートベルトをする。
 「……お母さん、元気でいると良いな」
 「ん?」
 いきなり運転席の窓を見て呟くお父さんに、首を傾げる。
 「なんかあったの?」
 「……いや、何でも無い」
 そう言い、お父さんはエンジンを切って、プリウスをアスファルトの上で走り始めた。
 

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