消えてしまった私の恋。
2020年6月13日
 

 
 
 
 「じゃあ、行ってくる」
 制服を着込んだ私は玄関ドアを開ける。
 「気をつけて行ってくるのよ」
 昨日退院したお母さんが言う。緊急搬送された数日、色々と検査されたが、特に異常は見受けられなかったものの、およそ一ヶ月の間入院をしていた。そして、一昨日特に異常は認められなかった為、退院することになった。
 私はそんなお母さんを笑顔で応え、ドアを閉める。
 日の光が温かい……。
 いつ振りだろう。こんな気持ちになれるの。
 GWを明けてから二日後のことだった。
 その日のホームルームで担任の口から明かされた話として、六月中に学校が再開されるという話だった。まだその時は詳細が明かされなかったものの、やっと学校に行けるんだ、という期待が胸いっぱいに広がった。
 だけど、その一方でも不安の気持ちはある。
 そう。あのウイルスがまた拡大しないか心配だから。
 学校が再開されるという話を聞いてから時間が経ち、緊急事態宣言が解除され、平凡な世の中へ戻ろうとした時に感染者が微増してきた、という情報がメディアで報じられてきたから。
 「学校、再開されるかな」
 その時はこう思ったが、今こうして、マスク姿だけど、外に出て温かい日光を身体に浴びているとウイルスのことなんて忘れたい、そんな清々しい気持ちになれた。
 二ヶ月ぶりに歩く高校までの道のりはあまり変わっていなかった。というか、二ヶ月も歩いていない時点で変わっているところなんて気づけない。高一というまだ初々しい時に歩いたものだから、あれ? ここってなんだっけ? と思えるような疑問に思う場所もあった。コロナで閉業します。というような張り紙をしたお店もあったり、暫くの間お休みします、というような張り紙をしてあるお店もあったりした。そして、新ニュルンベルク裁判だとか、コロナは茶番だとか、そんな張り紙をしていた住居、ノーマスク姿の人が道端に存在していた。
 馬鹿らしいなぁって思いながら私は学校へ向かったけど。
 今日のこの日、分散登校ではあるものの、クラスの半数が教室に来るという。私のクラスは三十人弱なので、その半数の十五六人が午前と午後に来る予定になっている。
 久しぶりの登校。
 クラスの半分ではあるものの、久しぶりに会えるのが楽しみ。
 私は午後の部で参加することになったんだけど、それでも楽しみ。また新たな友達が出来るのか、そう思うとワクワクする。高一のあれ以来、かな。
 期待で胸を膨らませ、アスファルトを蹴りながら学校へ歩いた。
 
 
 
 相変わらず壮大な校舎を見上げた後、中へと入って上履きへと履き替える。階段を使って自分の教室がある四階に上がる。
 マスクをしているから、体力が落ちたからか、その理由で階段を上がっただけで息が続かなくなる。
 「――はぁ、はぁ、はぁ、いつもだったらこんなんで息が上がらないのに」
 膝をついて息を整えていると、後ろから声が掛けられる。
 「なーにやってんだ」
 聞き覚えのある声。私は後ろに振り返って見ると、そこには雅がいた。
 「雅―‼」
 私は彼に抱きつき、今がコロナ禍ということを忘れベタベタと触っていた。
 「どうしたどうした?」
 雅が困惑そうな声、というよりは喜ぶ声を出して私の背中を摩る。
 「ううん。治ったんだね」
 涙ぐみながら言うと、彼は「うん」と頷く。
 「なかなか大変だったよ。一度重症化して、その後三途の川が見えたんだもん」
 少し身体を離してから彼がそう言うと、目には涙が一筋光っていた。
 「……少し成長した?」
 雅が私の身体を見て言う。
 「そうかな。私、オンライン授業の時はあんまり外に出てなかったから、横にも成長しているかも」
 「確かに。言われてみれば、あそこがでかくなってるかも」
 雅が笑いながら、私のある部分をジェスチャーで表す。
 「イラッ」
 「いった」
 私は雅の胸を軽く叩く。本当は頭を叩きたかったものの、雅の方が断然私より身長が高いのでできなかった。
 その後、私たちは笑い合った。
 「ふふ」
 「ん?」
 「なんだか、こんなことをするなんて久しぶりだなって」
 「そうだな。早くあのウイルスが収まると良いけど」
 「うん」
 「……そうだ」
 「うん?」
 雅があることを思いついたのか、私に向かってマスクで隠されているあそこを指差す。
 「キス?」
 「うん、まあ」
 「マスク越しに?」
 「そう」
 なるほどね、と想いながら、私は雅の手を握って先手必勝でマスク越しに唇を合わす。
 「仕返し、だからね?」
 そして、私と雅は無言のまま唇をマスク越しに交わした。
 
 こんな人生、ずっと続けば良いなって心の底から思った。
 
 

 
 
 
 そう、心の底から。
 
 でも。
 
 現実はそう上手くいかない。
 
 自分の理想通りにはいかない。
 
 そう感じたのは、六月のある日だった。
 
 その日の天気は、雨。
 
 まるで、私の気持ちを素直に表しているようだった。
 
 悲しい。
 
 ただ、それだけ。
 
 
 
 あの日以来、雅とは永遠と会えなくなってしまった。
 
 
 永遠に。
 
 
 
 
 闇に包まれる部屋の中、私は目を開ける。
 もう、今は何日だろう。
 舞子からあの連絡を受けてから、もう何日が過ぎようとしているんだろう。
 五月二十六日。
 首都圏と北海道で発令されていた緊急事態宣言が解除された翌日のこと、私は舞子から二つの連絡を受けた。
 一つは、舞子自身が回復したこと。
 もう一つは、雅が死んだこと。
 信じられなかったけど。
 勿論、分かってた。
 雅自身も分かっていたことだし、こうなることは自分でも分かってた。
 それなのに。
 それなのに。
 どうしたら、こんな鉄のように重く沈んだ気持ちになるんだろう。
 まだ、謝っていないのに。
 まだ、ちゃんとした彼とは数ヶ月しかお付き合いしたことがないのに。
 まだ、三回しかデートをしたことがないのに。
 どうして?
 どうして?
 どうして、彼は死んだの?
 ねぇ、なんで?
 なんで?
 なんで‼
 
 「なんでこうなるの‼」
 
ヒステリックに叫ぶ。その叫び声が、重く沈んだ部屋の中に溶ける。
 頭を掻き乱す。
 あのウイルスのせいで。
 あのウイルスのせいで。
 あのウイルスのせいで。
 あのウイルスのせいで。
 私の人生は、無茶苦茶。
 もう生きる資格なんて、もうない。
 お母さんも、数日前に亡くなったと病院から告げられたし。
 まだ、四十半ばなのに。
 まだ、若いのに。
 まだ、私の晴れ姿を見ていないのに。
 色んな未練があるのに。
 どうしたら、こんな地獄みたいな人生になるの?
 誰のせいなの?
 「ねぇ、誰か教えてよ‼」
 精一杯部屋の中で叫ぶ。
 「嫌だ……、もう、嫌だ……」
 すると、目の前に見知らぬ女性が現れる。
 その女性は、絶望の淵に立たされたようなそんな顔をしていた。
 顔は涙でグシャグシャとなり。
 髪は乱れ。
 そして、哀れな表情。
 「……はは。私、知らぬ間にこんな表情になってたのか」
 乾いた笑いを顔に浮かべ、自分の顔を触るように姿鏡を触る。
 「……血」
 いつの間にか掌に付いていた赤い液体を見る。
 「……怪我してたんだ、私。いつなんだろ」
 掠れた声でそう言いながら、虚ろな目で机をまさぐっていると、カッターナイフを見つける。血が付いていた。
 「……」
 何も考え無しにカッターナイフを手に取り、刃を出す。
 「……」
 「……」
 「……」
 「……すぅ」
 刃をゆっくりと、出血していた部分に近づける。
 バンッ。
 「おい何してる‼」
 部屋に入ってきたお父さんが私に声を上げて言う。表情が怒っていた。
 後ずさりをして、カッターナイフをお父さんに向ける。
 「……おい、今、自分がしていること、分かってんのか?」
 首を横に振る。分かってる。けど、こんなこと、したくない。
 「なあ、言ってみてくれよ。巴は何に不満があるんだ」
 心の内で溜まっていたものが、口からすべて出ようとする。それを必死に止めようとする。こんなの、言ったってどうにもならない。お父さんに何も言ったって何も変わらない。
 「なあ、話してくれって。そうしたら、相談に乗ってあげ……」
 「良いわよ‼」
 自分でもびっくりするような怒声だった。
 「こんなの、嫌だよ。なんで私だけがこんな辛い思いをしなくちゃいけないのよ‼」
 「なぁ、何があったか教えてく……」
 「言ってもどうせ分かんない‼」
 寄り添おうとするお父さんの手を叩く。その時だろうか、カッターナイフの刃が当たって手に傷が残る。
 「……ごめん」
 お父さんの手に残った傷跡を見ながら、謝る。
 「ちょっと……、頭、冷やしてくる」
 そう言い、お父さんの言葉を無視して私は部屋を出た。
 
 
 
 雨だった。
 寒い。春なのに。
 家から出て行った私は途方を暮れて近所の公園にいた。
 コロナ禍が始まる前は近所の子どもで雨でも賑わっていたのに、コロナ禍が始まった今や誰もいない。静か。
 何もかもが、変わってしまった。
 〝普通〟が〝普通じゃない〟。
 これじゃあ、うちの学校の校則にある通りに過ごせないよ……。
 雨で濡れているせいか、涙が頬を伝うのが分からない。
 まるで、今日の天気が私の気持ちを表すかのように。
 「うぅうぅぅっぁうぁあぁぁあうぅぁぁぁうぁぁうあぁぁあ……‼」
 誰もいない公園で、一人泣く。
 雨が容赦なく私の身体を叩き付ける中、どこからか声がした。
 「……この声」
 ボソリと呟き、涙を流した目で彷徨わせる。
 すると、公園の入り口に立っていたのは、傘を差していたお父さんだった。手には絆創膏がしてあった。
 「……は、は、お、お」
 涙で掠れて上手く声が出さずにしていると、お父さんがこちらに近づいて隣に座る。
 「風邪、引くぞ」
 そう言い、私に傘を渡してくる。それを受け取って、濡れた身体を容赦なく降り続ける雨から守る。
 「……今更何よ」
 不貞腐れた表情で言うと、お父さんは曇り空を見上げてこう話した。
 「ごめんな。一方的に。何も分かってくれなくて」
 何も反応を示せずに顔を俯かせていると、気にすることなくお父さんが話し続ける。
 「巴が部屋から出て行った後、携帯がまだロックされていないのを見てしまったんだ。スリープ、掛けてなかっただろ。俺は申し訳なさも含め、巴の身に何があったのか調べたんだ。そうしたら、出てきたんだ。彼氏さん、亡くなったんだってな」
 彼氏、という言葉がお父さんの口から発せられる。辛い。ただただ、辛い。
 「……巴には、というより、母さんにも話していないことなんだが、俺も巴と同じくらいの時に彼女を病気で亡くしたことがあるんだよ」
 「……え?」
 意外な事実に私は顔を上げる。
 「ああ。治せない病気だったんだ。確か、膵臓の病気だとか……、そう言ってたな。あの時が懐かしい」
 「聞いたの……? その病気のこと」
 私が言うと、お父さんは「いいや」と首を横に振った。
 「俺が風邪のときに病院に行ったとき、たまたまあるノートを拾ったんだ。見たことがないノートだからついペラッと捲って内容を見たとき、彼女にバレたんだ。その病気のこと、誰にも話してない事実で、俺しかその事実は知らなかった」
 「そうだったんだ……」
 どこかで聞いたことがある話の内容を、私はお父さんに焦点を当てながら聞く。
 「実際に亡くなった時、凄く悲しんだよ。色んなことでぶつかって、色んなことで楽しんで。それだからこそ、凄く悲しんだんだ」
 あの時のことを思い出したのか、今にも泣きそうな表情でお父さんが声を震わせて言う。
 「……」
 「だから、巴が経験したことの気持ちならすっごく分かる。大切な人を失った、そのポカンと空いた気持ちなら理解できる」
 マスク姿でどんな表情をしているか分からないが、私にくれる目線が優しかった。
 「……ありがとう」
 「良いよ。今度辛いことがあったら、言ってくれよな」
 そう言われ、なぜか私はお父さんに抱きついた。そして、そのまま涙腺が緩み、自然と涙がわいてくる。
 「……うぅうぅぅっぁうぁあぁぁあうぅぁぁぁうぁぁうあぁぁあ……」
 泣いているとき、私の背中に温かいものが伝わる。
 私の涙声が、閑静な住宅街に響いた。
 
 「よし、帰るとするか」
 お父さんが立ち上がって言う。
 「一つだけ、聞いて良い?」
 「なんだ?」
 「さっきの話、ある映画の話だよね」
 私が言うと、お父さんが「そうだ」と頷く。
 「やっぱり! なんかどっかで聞いたことがある話だと思ったんだよねぇ」
 「バレてたか」
 お父さんが頭の後ろに手をやって「テヘペロ」と舌を出す。少しだけムカッときた。
 「……信じて少しだけ損した」
 私が大股で公園を去ると、お父さんが追いついて隣どうしで歩く。
 二人で話す気持ちが、清々しかった。
 
 
 
 家に帰り、シャワーを浴びた。
 その後髪を乾かした後、自室に入ってベッドに寝転んだ。
 「……あれ? 血」
 布団に十円玉ぐらいの大きさをした血が染みこんでいた。いつのものだろうか、既に乾いていた。
 「……私、やっぱりどうかしてたんだ」
 枕元にあった携帯を手に取り、メッセージアプリを立ち上げる。そして、指が勝手に雅との会話をタップして画面に表示させていた。
 「……懐かし」
 画面をスクロールしながら会話を読んでいく。長々と会話をしているのが多く、中には夜中の三時まで会話をしているものまであった。その会話は、大体は電話であり、なかなかの長電話だったんだな、と思い出を噛み締めていた。
 「……あら」
 中には話題が飛んで次の話題に移った会話もあり、もし続いていたらどうだったんだろう、そう思ったこともあった。
 でも。
 彼はもう。
 戻ってこない。
 会えない。
 会いたくても、会えない。
 けど、もう吹っ切るしかない。
 彼はもう、此の世にはいないんだ。
 いないのに、勝手に絶望したら彼が悲しむ。
 勝手に絶望して、勝手に死のうと思うと。
 彼が悲しむ。
 私が生きていれば、彼はきっと。
 幸せになる。
 あの世でも。
 絶対。
 明るいヒーリングライトが、私の心を照らした。
 

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