クールな海上自衛官は想い続けた政略妻へ激愛を放つ
 自覚はあるのに、どうにも制御できない。

 自分が自分じゃないみたいだ。
 理性的に、論理的に思考すべきなのに、そうできない。海雪に恋する前は、当たり前にできていたことなのに。

 彼女に会う前、自分に感情なんかなかったかのような気分になってくる。

 一階まで降りて、救急救命のある別館に向けて歩き出す。があっ、と別館の自動ドアをくぐった瞬間、背後の廊下、本館のエレベーターホールの方から声がした。抑えた声が、廊下の壁に反響して聞こえる。

「いつでもお前のこと、迎えにいく」

 大井の、はっきりとした声だった。それに続く聞きなれた、愛おしい声に思わず立ち止まる。

「……いいの?」

 海雪の、逡巡を含んだ声だった。呼吸が勝手に浅くなり、振り向いて自動ドアの先を見つめる。あるのは廊下だけで、エレベーターホールで立ち止まっているらしいふたりの姿は見当たらない。ふら、と足が動いた。指先が冷たい。

「当たり前だろ?」

 俺と接しているときとは全く違う、大井の優しさをにじませる声が続く。

「おれとお前の仲なんだから」
「……ん」

 声だけで、海雪が笑ったのがわかる。微笑んだのが、あの優しい笑顔を浮かべたのがやすやすと想像できる。

「……海雪」

 呟く声は、掠れていた。走り出そうとしたその瞬間、首から下げていた院内携帯が鳴り響く。同時にあわただしい足音がして「あ、ちょうどよかった」と看護師に名前を呼ばれる。

「天城先生、いま救急受け入れ決定しました。胸部の激痛で、意識レベル低いです」
「っ、わかった」

 俺は震えそうな膝を叱咤して、必死で意識を切り替える。
 近づいてくる救急車のサイレンに、頭の芯を必死で冷ましていく。





 結局手術は深夜にまで及び、帰宅できたのは朝方になってからだった。
 しんとした六月の早朝。まだ日は昇っていない。しかし街並みの先のそらは夜明けを内包した色だった。暗い藍と、紫と、ぼんやりとした白が入り混じる。遠くで新聞配達のバイクが走る音がする。

 自宅の前で、電気の灯っていない窓に腹の底が冷える。
 もし、海雪がいなかったら?
 そんな想像ばかりがぐるぐると頭をめぐって止まってくれない。

 そっと玄関に入る。焦燥にかられて寝室を覗けば、大きなお腹に薄手の布団をかけた海雪がすやすやと横向きに眠っていた。
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