青春は、数学に染まる。
終業式が終わり、夏休みに入った。
夏休みは家でゴロゴロしながら動画を見たり、漫画を読んだりする予定だったのに。夏休み初日からも平日は学校に来ていた。
早川先生との補習が始まって2時間が経つ頃、必ず頭を使い過ぎてショートし始める。
「藤原さん、お疲れ様です。今日は終わりましょうか」
「…はい。ありがとうございました」
もう勉強嫌だ…。
ヘロヘロになっている私の様子を見て、早川先生はクスッと笑った。
「今日も頑張りました。気を付けて帰ってください。また明日、お待ちしております」
「はい。ありがとうございました」
先生に向かって一礼をしてから数学科準備室を出る。
頭の中は公式や計算式がぐるぐると回っている。
もう、嫌だ。本当に数学が嫌い。
「…っと、あ。ごめんなさい」
ボーっと歩いていると反対側から来た人にぶつかってしまった。
「あ…藤原」
伊東先生だった。
3年生の先輩に囲まれているところを見た時以来だ。
「………」
無言で黙っていると、伊東先生はわざとらしく声を上げた。
「あぁ! そう言えば、早川先生が張り切っていたな。夏休みも藤原に数学を教えるんだって」
「……それが先程終わったところです。沢山勉強をしました」
伊東先生は少し考えたあと、わざとらしく手をポンッと叩いた。
「どうせあれだろ、どれだけ教えて貰っても、すぐに右から左に抜けていくんだろ? 今もう頭の中には何も残って無いんじゃないか? 既に空っぽだったりして~。ハハハハ」
………何。何なの本当に。
拳が怒りで震えて止まらない。
思わず私は、手に持っていた教科書を床に投げつけてしまった。
「あっ…」
「伊東先生。そんなに馬鹿にして楽しいですか? 楽しいからこうやって私に嫌な事を言うのでしょうね」
「違う…」
悔し過ぎて涙が溢れてきた。何が違うのさ。
むしろそれ以外無いでしょう。
「伊東先生、大嫌い。さようなら。もう姿を見たくないです」
教科書を拾って足早に歩き始めた。
「………」
伊東先生は悲しそうな表情をしたまま突っ立っている。
何であんたが悲しそうな顔をするのか全然分からない。
私が数歩歩いたところで、後ろから別の人の声がした。
「伊東先生」
その声の主は見なくても分かる。早川先生だ。
数学科準備室から出てきていた早川先生は、一部始終を見ていたらしい。
「本当に、いい加減にしてください。藤原さんと接点がない貴方が、何故そこまで関わるのですか」
「…」
「藤原さんは文句も言わず頑張っているんです。頭の中が空っぽ? それは貴方のことでしょうが。藤原さんは賢いです。どこかの誰かとは比べ物にならないくらいです」
早川先生の声、しっかり聞こえていた。
しかし私は何も聞こえていないフリをして、振り向かず階段を降りた。
伊東先生…いや、伊東は絶対、私を馬鹿にしている。
もう “先生” を付ける価値もない。
真面目そうな見た目して、数学だけ異常にできない私をからかって楽しんでいるだけ。そうに違いない。
噂で聞いて、外見がかっこいいと気になっていた時を凄く前に感じる。
そう思っていた自分が馬鹿みたい。
人は見た目だけじゃない。
かっこよくても性格が最悪なことだってある。伊東はまさにそれだ。
伊東の授業の様子などを見ることはないけれど、普段どんな様子なのだろう。誰に対してもあんな感じ?
私に対する対応と他の人に対する対応は同じなのか気になる。
「でも、悪い噂は全然聞かないよね…」
悔しい。私にだけそういう態度なら、無茶苦茶悔しい。
「藤原!」
「!」
伊東が走って昇降口にまで来た。
私は急いで靴箱を開けて、ローファーを取り出す。
「藤原、待って」
「…待ちません。伊東先生と話すことはありません」
「俺はあるの。聞いてよ、その…さっきはごめん」
真っ直ぐ私の目を見ながら謝り、深く頭を下げた。
この前だって謝ってきたが、結局またこれ。
伊東にとって『謝る』という行為はその場しのぎだけなのだろう。
「何度謝ってきても同じです。前回の補習の時もそうでした。もう謝らなくていいので、関わらないで下さい」
「藤原…」
「生徒みんなにこんな感じなのですか? それとも私だけですか? デリカシーが無さすぎて、軽蔑します」
「ちがっ…」
謝る伊東を無視して学校を後にした。
…言っちゃった。
…強く言っちゃった。
でも、伊東に言ったことは本当の気持ち。
補習が無ければ関わることの無かった伊東。
何なら今でも別に関わる必要のない人。
わざわざ馬鹿にする為だけに来ているだけだろう。
絶対楽しんでいる。
「補習が無ければ、今もまだ伊東のことをかっこいいと思っていたのかな」
わからない。
有紗に話を聞いてもらいたいな…。
夏休み、早く終わればいいのに。