青春は、数学に染まる。
伊東の本音
授業開始の本鈴が鳴った。
空き教室棟はやはり人気が無く静かだ。
夏休みの補習が途中からここになった。別に思い出というわけではないけど、何となく馴染みのある落ち着く場所となっていた。
当然空き教室の鍵は開いていないため入れない。私は廊下の角に座って教室を眺めた。
「授業を休むの、初めてだな…」
一人になると色々考えてしまう。引っ込んだはずの涙がまたこみ上げてくる。
伊東のこと、最初はカッコいいと思った。というか、実際今もそう思う。
…でも、私だけに対するデリカシーのない言葉。
数学ができないことを馬鹿にされたこと、私自身を否定されたようで悔しかった。
その点、早川先生は私のことを凄く尊重してくれる。
数学が出来ないことを馬鹿にするのではなく、親身になって教えてくれる。
はぁ…分からない。
有紗の考えを聞いてから、益々分からなくなっていた。
…コツ、コツ…
渡り廊下の方からこちらに向かってくる足音が聞こえる。
この場所誰も近寄らないはずでは……!!!!!
私が座っているのは角だから逃げ場がない。
どこへ逃げるにも、絶対に渡り廊下の前を通過しなければならない。
うーん、やばい。
授業をこんなところでサボっていることがバレて怒られちゃうよね。
必死に言い訳を考えていると、渡り廊下から校舎内に入ってきた人は私の姿を見つけて立ち止まった。
「…………え? …………藤原?」
「…あ…」
まさかの、伊東だった。
伊東は本当に、タイミング悪く私の前に現れる。
「…お前さぁ、授業中だろ。今。何していんの」
「…今体育なんですけど、体調良くなくて。休むこと担当の先生には伝えてあります。保健室に行くことを躊躇っちゃって。すみません、今から行きます」
そう言って立ち上がった。急いで伊東から逃げようとして足が少し絡まる。
「ちょっと待って」
「……」
「…お前がここでサボっていたこと、黙っておく。その代わり、俺の話を聞いて」
想定外の事態…。すぐに頭をフル回転させて色々考えたが、ここで無理矢理逃げてもメリットは何もない。
大人しく従うのが吉か…。
「…はぁ」
私は無言で溜息だけついて、元々座っていた場所に再び腰を下ろした。
座る様子を見た伊東は少しホッとしたような表情をして、教室の鍵を開けた。
「…ぇ」
「この場所、俺の穴場スポット。授業が無くて考え事したいときは、ここに来ているんだ。誰も来ないし、いい場所だろ。…おいで」
ドアを開けて私に手招きする。ここでも素直に従うことにした。
私が部屋に入ると伊東はドアを閉め、鍵まで掛ける。
「俺が1人の時も鍵掛けているんだ。一応空き教室だからな。…だけどそれって職権乱用かも」
そう言って1人微笑んだ。
「お前が夏休みに早川先生と補習している時、ここ使っていただろう。俺の穴場だったのに、その間は使えなくてなぁ」
伊東はそう言ってはまた微笑む。
部屋に入ってから伊東は私と目を合わせようとしない。
「…話って何ですか」
本題に入らない伊東にしびれを切らせて話を振る。
「昨日のことですか」
微笑んでいた伊東の表情は真顔に戻り、ふぅ…と息を吐いて教壇に座った。
座り込んだ伊東は昨日見た悲しそうな表情になっている。
…自分から話題を振ってなんだが、重い空気に気が遠くなりそう。
「あれから考えたんだ。藤原にあそこまで言わせてしまったこと、本当に悔やんでいる。申し訳なかった。俺は別に、藤原のことからかいたかった訳ではないし、怒らせたかった訳でもない」
伊東は頭を掻きながら、呟くように言った。
「……ごめん。気になるんだ。藤原のこと。生徒ではなく、女性として。こんなの、教師としてあり得ないし気持ち悪いよな。…わかっている。それでも、藤原の事が気になって、どうしても接点を持ちたかった。早川に何を言われようが…」
「…え?」
気になる…? 気になるって、どういうこと。
恋愛対象としてっていうこと?
私はびっくりしすぎて言葉が何も出なかった。デリカシーがなくて、私をからかって楽しんでいるだけの伊東が?
…その時、ふと先程の有紗の言葉が蘇る。
『伊東先生は好きな子をイジメたくなるタイプ』
いやいや、そんなことあるわけがない。
入学してカッコいいという噂を聞いて気になっていた数学の先生。
外見がカッコいいが接点がなく遠くから見るだけだった伊東先生。
早川先生との補習をきっかけに絡んでくるようになった伊東。
早川先生に問い詰められて逃げて行った大きな背中…。
今、私の目の前で小さく丸まっている人は…誰。
「…先生はファンクラブがあるほど、生徒から人気じゃないですか。接点のない私なんて気に掛けるほどじゃないです」
「接点があるとかないとか、そうじゃないんだよ。…ファンクラブだって知らねぇよ。勝手に生徒が作りやがって」
伊東はここでやっと私と目線を合わせた。
「補習なんて…俺が受け持ってきた奴ら、呼んでも誰も来ないよ。早川先生が受け持っている人の中で、補習となった人は藤原が初めてだったんだけど1学期も、夏休みも、そして2学期に入った今も。ちゃんと補習に来る藤原を見て、真面目な生徒だなって思っていたんだ」
一度も目を離さずに真剣な表情で話す伊東。その目にドキッとする。
「真面目な生徒。そう思っていたのがいつの間にか、俺の中で気になる存在になっていてしまったんだ」
「そんなの嘘です。そんな生徒、きっとこれまでもいるはずです。別に私じゃなくても、先生の周りには沢山居たでしょう…」
そこまで言って、言葉を継ぐのをやめた。
「…嘘ではないんだけど。でも、そうだな。こんなの迷惑だよな。…ごめん、このこと忘れて。もう関わらないから」
「………」
悲しそうな伊東の表情に胸が苦しくなる。
私もなかなかの馬鹿だ。
伊東の言葉に傷ついて、嫌いだと自覚して本当の思いを伝えたのに。
「私、入学してすぐに噂を聞いたんです。かっこいい先生がいるって。遠目に見て実際かっこいいなって思っていました。でも、度重なる傷付けられる言葉に、正直…その気持ちも冷めていきました」
伊東は目を逸らさず、頷きながら話を聞いてくれる。
その目が真っ直ぐ過ぎて、思わず私は目を逸らしてしまった。
「正直、伊東先生と関わりたくない…とまで、思った。…思ったけど…」
思ったけど、どうしても…心の底で伊東のことが気になる。
「いや…ううん、何でもないです」
「………本当にごめん」
深く、深くと頭を下げた。
そして伊東はズボンのポケットに手を入れて、そこから飴を取り出した。
「これ…食べる?」
「先生のことだから毒入りでしょう」
「まさか。藤原に毒入りの物を渡そうとしないよ」
「この前、先生が毒入りって言ったくせに」
「…ごめん」
そう言いながら伊東は私の右手を握って、手のひらに飴を乗せた。
いちご味の飴。
「俺、飴好きなの」
「…前くれたのも飴でしたね。棒付きキャンディー」
渡された飴は少しグニャグニャしていた。
「…この飴、少し溶けています」
「あぁ、ポケット入れていたから、体温で溶けちゃったかも」
伊東はポケットからもう1つ飴を取り出した。レモン味。
それを開けて口へ放り込む。
「うん。溶けているけど大丈夫。食べられる」
「…いただきます」
私も同じように開けて口へ放り込む。いちごの味が口いっぱいに広がった。
「…美味しい」
「へへっ」
飴を舐めていると、止まっていたはずの涙がまたこみあげて来た。
「…っ」
伊東に見られたくないのに。涙が止まらない。
「…さっき俺がここに来た時も、泣き腫らしていた。ここにいたのは体調が悪いんじゃなくて、泣いていたからだよな。…そりゃ、保健室に行けないよ」
伊東は私の腕を引っ張って教壇に座るよう促した。
「悩ませてごめん。昨日の藤原の言葉に返事できず、その場から逃げてごめん。…早川先生に謝れって言われた時、色々思うことがあって言葉が出なかった。大人気なかったよな。…そして、ここまで藤原を悩ませたこと、本当にごめん」
伊東は頭を下げながら苦しそうに声を絞り出していた。
正直なところ、信用はもう無い。謝っては傷付けて…それを何度繰り返したことか。
だからと言って、ずっと怒っていても仕方がない。
「…もういいです」
「………また、話しかけても良い?」
悲しそうな目でこちらを見てくる伊東。
本当に、調子狂う。
「……お好きにどうぞ。ただ、ファンクラブの人から目を付けられると困るので。程々に」
分かりやすいくらい、伊東は嬉しそうな顔をした。
その表情にまた胸がチクっと痛んで苦しい。
「ありがとう。ファンクラブの人たちに何かされたら言ってよ。すぐ懲らしめるから」
「いや、生徒に対して懲らしめるとか言っちゃダメですよ」
そう言って、やっと私も笑えた。
「数学さ、分からないところがあったら俺にも聞いてよ」
「早川先生がいらっしゃるのに。聞けません」
「俺も数学教師だから」
「知っています」
俺の方が教える方が上手いかもよ? と言いながらニヤッと笑った。
そうは思えないけど…授業を受けたことが無いから何とも言えない。
「俺はそろそろ数学科準備室戻るよ。5限終わるまでもう少しあるから、藤原はここにいなよ」
「鍵どうすれば…」
「教室戻る途中に数学科準備室寄って。俺に返してくれればいいから」
伊東は私に鍵を渡してきて、ドアを開けた。
「じゃあ、またあとで」
そう言い残して、颯爽と教室から出て行った。
残された私は思わず溜息が漏れた。
「………」
疲れた。凄く疲れた。また想定外の出来事。
伊東が気になっているって。そんなことある?
雪崩のように色々なことが起こりすぎて、頭が追い付かない。
それなのに伊東に触れられた右手は、今も熱を持って脈打っている。
悔しいけど。ドキドキする気持ちが止まらなかった。
本当、我ながら単純な人間。
私は5限終了のチャイムが鳴る前に空き教室を出た。
数学科準備室へ向かう途中にチャイムが鳴り響く。タイミングが良すぎて心の中でガッツポーズをする。
「…失礼します」
伊東がいると思いノックして扉を開けると、返って来た声は違う人だった。
「あら、藤原さん。どうしました?」
「早川先生…。こんにちは」
優しく微笑んでくれた早川先生は手前のソファに座って本を読んでいた。
私も軽く微笑み返すと、奥から声が聞こえてくる。
「おーい、藤原。こっち」
「あ、はい」
私は早川先生に一礼して伊東の元へ向かい、鍵を手渡した。
「ありがとうございました」
「おう、6限頑張れよ」
「はい。失礼します」
「……」
部屋から出る途中に見えた早川先生の顔が、見たことないくらい険しくて…少し怖かった。
空き教室棟はやはり人気が無く静かだ。
夏休みの補習が途中からここになった。別に思い出というわけではないけど、何となく馴染みのある落ち着く場所となっていた。
当然空き教室の鍵は開いていないため入れない。私は廊下の角に座って教室を眺めた。
「授業を休むの、初めてだな…」
一人になると色々考えてしまう。引っ込んだはずの涙がまたこみ上げてくる。
伊東のこと、最初はカッコいいと思った。というか、実際今もそう思う。
…でも、私だけに対するデリカシーのない言葉。
数学ができないことを馬鹿にされたこと、私自身を否定されたようで悔しかった。
その点、早川先生は私のことを凄く尊重してくれる。
数学が出来ないことを馬鹿にするのではなく、親身になって教えてくれる。
はぁ…分からない。
有紗の考えを聞いてから、益々分からなくなっていた。
…コツ、コツ…
渡り廊下の方からこちらに向かってくる足音が聞こえる。
この場所誰も近寄らないはずでは……!!!!!
私が座っているのは角だから逃げ場がない。
どこへ逃げるにも、絶対に渡り廊下の前を通過しなければならない。
うーん、やばい。
授業をこんなところでサボっていることがバレて怒られちゃうよね。
必死に言い訳を考えていると、渡り廊下から校舎内に入ってきた人は私の姿を見つけて立ち止まった。
「…………え? …………藤原?」
「…あ…」
まさかの、伊東だった。
伊東は本当に、タイミング悪く私の前に現れる。
「…お前さぁ、授業中だろ。今。何していんの」
「…今体育なんですけど、体調良くなくて。休むこと担当の先生には伝えてあります。保健室に行くことを躊躇っちゃって。すみません、今から行きます」
そう言って立ち上がった。急いで伊東から逃げようとして足が少し絡まる。
「ちょっと待って」
「……」
「…お前がここでサボっていたこと、黙っておく。その代わり、俺の話を聞いて」
想定外の事態…。すぐに頭をフル回転させて色々考えたが、ここで無理矢理逃げてもメリットは何もない。
大人しく従うのが吉か…。
「…はぁ」
私は無言で溜息だけついて、元々座っていた場所に再び腰を下ろした。
座る様子を見た伊東は少しホッとしたような表情をして、教室の鍵を開けた。
「…ぇ」
「この場所、俺の穴場スポット。授業が無くて考え事したいときは、ここに来ているんだ。誰も来ないし、いい場所だろ。…おいで」
ドアを開けて私に手招きする。ここでも素直に従うことにした。
私が部屋に入ると伊東はドアを閉め、鍵まで掛ける。
「俺が1人の時も鍵掛けているんだ。一応空き教室だからな。…だけどそれって職権乱用かも」
そう言って1人微笑んだ。
「お前が夏休みに早川先生と補習している時、ここ使っていただろう。俺の穴場だったのに、その間は使えなくてなぁ」
伊東はそう言ってはまた微笑む。
部屋に入ってから伊東は私と目を合わせようとしない。
「…話って何ですか」
本題に入らない伊東にしびれを切らせて話を振る。
「昨日のことですか」
微笑んでいた伊東の表情は真顔に戻り、ふぅ…と息を吐いて教壇に座った。
座り込んだ伊東は昨日見た悲しそうな表情になっている。
…自分から話題を振ってなんだが、重い空気に気が遠くなりそう。
「あれから考えたんだ。藤原にあそこまで言わせてしまったこと、本当に悔やんでいる。申し訳なかった。俺は別に、藤原のことからかいたかった訳ではないし、怒らせたかった訳でもない」
伊東は頭を掻きながら、呟くように言った。
「……ごめん。気になるんだ。藤原のこと。生徒ではなく、女性として。こんなの、教師としてあり得ないし気持ち悪いよな。…わかっている。それでも、藤原の事が気になって、どうしても接点を持ちたかった。早川に何を言われようが…」
「…え?」
気になる…? 気になるって、どういうこと。
恋愛対象としてっていうこと?
私はびっくりしすぎて言葉が何も出なかった。デリカシーがなくて、私をからかって楽しんでいるだけの伊東が?
…その時、ふと先程の有紗の言葉が蘇る。
『伊東先生は好きな子をイジメたくなるタイプ』
いやいや、そんなことあるわけがない。
入学してカッコいいという噂を聞いて気になっていた数学の先生。
外見がカッコいいが接点がなく遠くから見るだけだった伊東先生。
早川先生との補習をきっかけに絡んでくるようになった伊東。
早川先生に問い詰められて逃げて行った大きな背中…。
今、私の目の前で小さく丸まっている人は…誰。
「…先生はファンクラブがあるほど、生徒から人気じゃないですか。接点のない私なんて気に掛けるほどじゃないです」
「接点があるとかないとか、そうじゃないんだよ。…ファンクラブだって知らねぇよ。勝手に生徒が作りやがって」
伊東はここでやっと私と目線を合わせた。
「補習なんて…俺が受け持ってきた奴ら、呼んでも誰も来ないよ。早川先生が受け持っている人の中で、補習となった人は藤原が初めてだったんだけど1学期も、夏休みも、そして2学期に入った今も。ちゃんと補習に来る藤原を見て、真面目な生徒だなって思っていたんだ」
一度も目を離さずに真剣な表情で話す伊東。その目にドキッとする。
「真面目な生徒。そう思っていたのがいつの間にか、俺の中で気になる存在になっていてしまったんだ」
「そんなの嘘です。そんな生徒、きっとこれまでもいるはずです。別に私じゃなくても、先生の周りには沢山居たでしょう…」
そこまで言って、言葉を継ぐのをやめた。
「…嘘ではないんだけど。でも、そうだな。こんなの迷惑だよな。…ごめん、このこと忘れて。もう関わらないから」
「………」
悲しそうな伊東の表情に胸が苦しくなる。
私もなかなかの馬鹿だ。
伊東の言葉に傷ついて、嫌いだと自覚して本当の思いを伝えたのに。
「私、入学してすぐに噂を聞いたんです。かっこいい先生がいるって。遠目に見て実際かっこいいなって思っていました。でも、度重なる傷付けられる言葉に、正直…その気持ちも冷めていきました」
伊東は目を逸らさず、頷きながら話を聞いてくれる。
その目が真っ直ぐ過ぎて、思わず私は目を逸らしてしまった。
「正直、伊東先生と関わりたくない…とまで、思った。…思ったけど…」
思ったけど、どうしても…心の底で伊東のことが気になる。
「いや…ううん、何でもないです」
「………本当にごめん」
深く、深くと頭を下げた。
そして伊東はズボンのポケットに手を入れて、そこから飴を取り出した。
「これ…食べる?」
「先生のことだから毒入りでしょう」
「まさか。藤原に毒入りの物を渡そうとしないよ」
「この前、先生が毒入りって言ったくせに」
「…ごめん」
そう言いながら伊東は私の右手を握って、手のひらに飴を乗せた。
いちご味の飴。
「俺、飴好きなの」
「…前くれたのも飴でしたね。棒付きキャンディー」
渡された飴は少しグニャグニャしていた。
「…この飴、少し溶けています」
「あぁ、ポケット入れていたから、体温で溶けちゃったかも」
伊東はポケットからもう1つ飴を取り出した。レモン味。
それを開けて口へ放り込む。
「うん。溶けているけど大丈夫。食べられる」
「…いただきます」
私も同じように開けて口へ放り込む。いちごの味が口いっぱいに広がった。
「…美味しい」
「へへっ」
飴を舐めていると、止まっていたはずの涙がまたこみあげて来た。
「…っ」
伊東に見られたくないのに。涙が止まらない。
「…さっき俺がここに来た時も、泣き腫らしていた。ここにいたのは体調が悪いんじゃなくて、泣いていたからだよな。…そりゃ、保健室に行けないよ」
伊東は私の腕を引っ張って教壇に座るよう促した。
「悩ませてごめん。昨日の藤原の言葉に返事できず、その場から逃げてごめん。…早川先生に謝れって言われた時、色々思うことがあって言葉が出なかった。大人気なかったよな。…そして、ここまで藤原を悩ませたこと、本当にごめん」
伊東は頭を下げながら苦しそうに声を絞り出していた。
正直なところ、信用はもう無い。謝っては傷付けて…それを何度繰り返したことか。
だからと言って、ずっと怒っていても仕方がない。
「…もういいです」
「………また、話しかけても良い?」
悲しそうな目でこちらを見てくる伊東。
本当に、調子狂う。
「……お好きにどうぞ。ただ、ファンクラブの人から目を付けられると困るので。程々に」
分かりやすいくらい、伊東は嬉しそうな顔をした。
その表情にまた胸がチクっと痛んで苦しい。
「ありがとう。ファンクラブの人たちに何かされたら言ってよ。すぐ懲らしめるから」
「いや、生徒に対して懲らしめるとか言っちゃダメですよ」
そう言って、やっと私も笑えた。
「数学さ、分からないところがあったら俺にも聞いてよ」
「早川先生がいらっしゃるのに。聞けません」
「俺も数学教師だから」
「知っています」
俺の方が教える方が上手いかもよ? と言いながらニヤッと笑った。
そうは思えないけど…授業を受けたことが無いから何とも言えない。
「俺はそろそろ数学科準備室戻るよ。5限終わるまでもう少しあるから、藤原はここにいなよ」
「鍵どうすれば…」
「教室戻る途中に数学科準備室寄って。俺に返してくれればいいから」
伊東は私に鍵を渡してきて、ドアを開けた。
「じゃあ、またあとで」
そう言い残して、颯爽と教室から出て行った。
残された私は思わず溜息が漏れた。
「………」
疲れた。凄く疲れた。また想定外の出来事。
伊東が気になっているって。そんなことある?
雪崩のように色々なことが起こりすぎて、頭が追い付かない。
それなのに伊東に触れられた右手は、今も熱を持って脈打っている。
悔しいけど。ドキドキする気持ちが止まらなかった。
本当、我ながら単純な人間。
私は5限終了のチャイムが鳴る前に空き教室を出た。
数学科準備室へ向かう途中にチャイムが鳴り響く。タイミングが良すぎて心の中でガッツポーズをする。
「…失礼します」
伊東がいると思いノックして扉を開けると、返って来た声は違う人だった。
「あら、藤原さん。どうしました?」
「早川先生…。こんにちは」
優しく微笑んでくれた早川先生は手前のソファに座って本を読んでいた。
私も軽く微笑み返すと、奥から声が聞こえてくる。
「おーい、藤原。こっち」
「あ、はい」
私は早川先生に一礼して伊東の元へ向かい、鍵を手渡した。
「ありがとうございました」
「おう、6限頑張れよ」
「はい。失礼します」
「……」
部屋から出る途中に見えた早川先生の顔が、見たことないくらい険しくて…少し怖かった。