青春は、数学に染まる。

「………ん?」 

私、寝ていた? ここは?
辺りを見回すと、見慣れない部屋にベッドが視界に入ってきた。

「藤原さん」
「………ん? 早川先生、何で?」

そこまで言って思い出した。私、数学の授業中に意識を失って倒れたんだ。ということは、ここは保健室か。




私はゆっくりと体を起こしながら謝る。

「思い出しました。…早川先生、すみません。ご迷惑をお掛けしました」
「謝らなくて良いです」

早川先生は椅子から立ち上がり、優しく私を抱き締めてくれた。

「頭打ってないですか? 大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「それなら良かったです。テストの点数を見て意識を飛ばす人、初めて見ました」

抱き締めたまま優しく笑い、頭をポンポンする。
先生の手付きがあまりにも優しくて、ふいに涙が出てきた。


「先生…あんなに時間を割いて数学を教えてくれたのに、結局また赤点。私、先生に申し訳ないよ。赤点回避していたと思っていたのに。ごめんなさい」
「謝らなくて良いですって」

早川先生は腕に力を入れる。
力強い抱擁(ほうよう)に心が落ち着く気がした。

「ところで…今は授業中ですか?」
「6限の授業中です。この時間の僕は空きだったのでここで様子を見ていました。タイミングが良かったです」

そう言ってポンポン、と今度は背中を叩いてくれる。
そのリズムが心地良(ここちよ)い。

別に先生の事を好きだと思っていないけど、(いや)とも思わない自分が不思議だ。

どうかしているよ。


「数学が終わった後、お友達も来たのですよ。授業休む! と言っていましたけど教室に帰しました」

有紗の事かな。そう言えば倒れた時も最後に有紗の声を聞いた。

会ったら謝らなきゃ。



早川先生は私から手を離して椅子に腰を掛けた。
ゆっくりと私と目を合わせる。

「因みに。僕は藤原さんの赤点、想定内ですけど」
「……え?」
「毎日補習していたら分かります」
「想定内? 何故ですか?」
「僕は教師ですからね」

早川先生はいつも着ている白衣を脱いで、ワイシャツ姿になっていた。
保健室の窓が開いているのか、カーテンの隙間(すきま)から風が入ってくる。


先生のネクタイが風に(なび)くのと同時に、服から石鹸(せっけん)の香りが(ただよ)ってきて気持ちが落ち着かない。

「先生。私、今回は赤点回避できると思っていました」
「無理ですね。残念ながら、藤原さんには100年早いです」
「そんなの、一生数学理解できないじゃないですか」
「僕が100年後も教えますので、大丈夫です」
「…え、何それ。告白みたいですよ」
「ふふ、どうでしょうね」

早川先生が私の頭の上に手を置いた。

優しい手付きに安心感を覚えていると、カーテンに人影が映った。


「ンンッ、ウンンー」
「…あ」

カーテンの外から不自然な咳払いが聞こえて来た。
その声を聞いて早川先生はカーテンを少しだけ開ける。そこには白衣を着た女性が立っていた。


「…睦月(むつき)先生」
「ねぇ、早川先生。私はどうすれば良い?」

睦月(むつき)真利子(まりこ)先生。保健室の(ぬし)
茶髪のロングヘアで白衣を身に(まと)っている。パッと見、20代後半から30代前半くらい。

そんな睦月先生はニコニコしながら腕を組んで立っていた。




もしかして、最初から全部聞いていたのでは…。


「何も聞かなかったことにしてください」
「聞かなかったどころか、藤原さんに抱きついていたのも見ていたけど、どうする?」
「えぇ…」


睦月先生は早川先生の肩に触れながら、私が使っているベッドに腰を掛ける。


「このカーテン薄いから、シルエットが良く見えるの」

ふふふとお(しと)やかに笑う。
睦月先生とは初めて顔を合わせたけど、優しそうな先生。

「けどまぁ、早川先生は “触れただけ” だから。今回は多目(おおめ)に見ようかね」
「どういうことですか…」

意味のありそうな言葉に引っ掛かった早川先生。
睦月先生が言葉を継ごうとしたとき、保健室のドアが勢いよく開いた。


「失礼します!! 藤原さん起きていますか!」
「あ、有紗!」
「真帆! 起きていたのねー!!」

有紗は勢いよくドアを閉めてベッドに()け寄ってくる。
早川先生は急いで立ち上がり、私と少し距離を取った。

「真帆! 良かったぁ、心配したよ。点数見て気を失うとか! 私、一生忘れないかも!」
「有紗、ありがとう。まさかすぎて自分でもびっくりだよ」

私の前でぴょんぴょんと飛び跳ねる有紗。

「本当に良かったぁ! ……ところで、何で早川先生がここにいるの?」

有紗はニヤニヤしながら早川先生へ意味ありげな視線を向ける。


これは…楽しんでいるな。


「藤原さんは僕の授業の時に倒れたのですから。様子を見に来るのが普通でしょう。教師なので」

冷静そうに言うが、睦月先生が横槍(よこやり)を入れる。

「心配すぎて授業終わったら飛んできたものね」
「……飛んでいません。歩いています」
「三角定規も持ったままだったものね」
「持っていたままだった訳ではありません。あれは僕の一部です」

ぶふっと有紗が笑う。早川先生の苦しそうな言い訳に私も笑いが込み上げてきた。
 
早川先生は目を閉じながら腕を組んでいる。



カーテンの隙間から保健室の机に目を向けると、早川先生の白衣と黒板用の大きな三角定規が雑然(ざつぜん)と置かれているのが見えた。



「先生面白すぎる! 本当に真帆の事が好きなんだね!!」
「え」
「え?」
「顔に書いてあるよ」

早川先生はついに顔が真っ赤になった。

「的場さん知ってそうなら言っても良いかしら。実は早川先生ね、藤原さんのこと抱き締めていたのよ。どう思う?」
「えぇ!? うそぉ!!」
「睦月先生。生徒に言わないでください」
「他には言わないよ。ここは的場さんだけだから良いじゃない」
「………」
「早川先生、本当に…!?」

えぇぇぇヤバすぎる!! と有紗はその場でぴょんぴょんし始めた。

「……早く部活に行かれてはどうですか」

顔を真っ赤にしたままの早川先生が小さく言う。
私は何を言ったら良いのか分からなくて無言を貫いた。

「別に先生に言われなくたって部活行くし!!!! 取り敢えず、真帆は良くなったようで安心したぁ!!」

有紗は思う存分飛び跳ねたあと、じゃあ私は部活行くね! と保健室から出て行った。


我が親友ながら…嵐のようだ。
有紗がいなくなった保健室には静寂(せいじゃく)が訪れた。


「……」
「…まぁ。早川先生、私は誰にも言わないけど。十分注意しなさいよ。それは先生の事ではなく、藤原さんを心配しての話だから」
「………もちろん。心得ています」

早川先生は恥ずかしそうに顔を掻いた。睦月先生は心配そうな目で、早川先生を静かに見ていた。



しかし、全く否定をしない早川先生。
否定をしないということは、本当に私のことが好きなのだと実感する。


「…ところで睦月先生、さっきの “触れただけだから多目に見る” って何ですか」

途中まで言いかけていた言葉を掘り起こした。
そういえばそれ、気になっていた。

「あぁ、いや。その…過去にはここのベッドで生徒と体の関係になった教師がいたんだけど、流石に容認(ようにん)できなくてね。それに比べたらマシってこと」

か、体の関係!?

自分の体温が急上昇していく感覚がわかる。

「学校で体の関係ですか。羨ましいですね」

そう言ったのは早川先生。羨ましいか!?

「うわ、変態! 藤原さんの前で変な性癖(せいへき)(さら)さないでよ!! 気持ち悪いわよ!!」
「ふふふ、藤原さん。冗談ですからね」



睦月先生は早川先生の肩を激しく叩いた。



何か…仲良いなぁ。
テンポの良い2人の会話にちょっとだけ(うらや)ましさを覚える。




「さて、藤原さん。お体も良くなったようでしたら、数学科準備室に行きましょうか。活動をしましょう」
「え、活動するのですか!?」
「少しだけで終わりますから」

倒れても容赦(ようしゃ)ない早川先生。睦月先生は少し首を傾げながら口を開いた。

「活動? 早川先生って部活の顧問をしてなくない?」
「数学補習同好会の顧問やっています。会員は藤原さんだけですけど」

それを聞いて睦月先生の目が見開いた。

「え? ご両親の件は落ち着いたの?」
「…まぁ、そうですね。それなりです」


睦月先生の問い掛けに対して適当に返事をする早川先生。



そう言えばこの前、伊東と話していた時も出てきたご両親の話。

ご両親の介護があるから顧問から外れていたとかって、伊東が言っていた。




(ちな)みに、この同好会を考えたのは伊東先生ですけどね」
「出た伊東先生! 伊東先生と早川先生が顧問だなんて。はぁ…藤原さん、同情するよ。伊東先生も変な人だけど、早川先生もかなり変な人だから」

意味ありげに私の肩をポンッと叩いて小声で(ささや)いた。

「数学教師、変な人が多いの」
「聞こえていますよ」

私は何か答えることもできず、愛想(あいそ)笑いを浮かべたまま立っていた。

「藤原さん、教室に荷物があるでしょう。それを取りに行ってから数学科準備室に来てください」
「はい、分かりました」

保健室から出ていく早川先生について私も出る。

「睦月先生、ありがとうございました」
「いいえ、またいつでも来てね」




最後は微笑みながら手を振ってくれた。





睦月先生と早川先生が凄く親しそうで、何故か少しだけ複雑な気持ちがした。 










 
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