青春は、数学に染まる。

早川先生と伊東

…頑張るって、決めたのに。




緊張し過ぎて心拍数がかなり上がっている。

「帰りたい…」

逃げたい衝動に駆られながらも、私は数学科準備室の扉に手を掛ける。

「失礼します…」


そーっと扉を開ける。しかし、中から返事は返って来なかった。

誰もいない…。良かった。



誰もいないけど、ここは数学補習同好会の活動場所だし。
私はソファに座って待たせてもらうことにした。




ふわふわのソファ。机の上は相変わらず本や書類が散乱している。誰も迎え入れる気が無いな…。

「……」

ふと視界に一冊の本が入ってきた。表紙には『鳥でも分かる!高校数学』と書いてある。

難しそうな数学の本の中で一際目立つポップな本。
…鳥でも分かるは流石に失礼だろ、何て思いながら本を手に取ってみた。


カラー印刷でキャラクターが会話をしながら進行していくタイプの本だ。部分的に付箋が貼ってあり、本の表現をさらに分かりやすく噛み砕いて書いてある。この字は………早川先生だ。


これってつまり。鳥でも分かる本をさらに分かりやすくしてあるってことは…鳥以下の人間向けにしてあるってこと? そう思いながらペラペラ本をめくる。



……………うーん。鳥以下の人間って、多分私のことだな。

付箋の方を読んでも全く分かんね!
 




数学科準備室に来て20分くらい経った。
早川先生も伊東も来ないのなら帰ろうかと思った矢先、勢いよく扉が開いた。

「…あっ!」
「早川先生」
「藤原さん…!」

早川先生は私の姿を見て嬉しそうに走って駆け寄ってきた。

「来てくれたのですね。お待たせして申し訳ありません」
「いえ、別に先生に会いに来たわけじゃないので大丈夫です」
「そんなつれないこと言わないで下さい…」

つい口から思ってもいない言葉が漏れる。



…どうしよう、自分の心臓の音がうるさい。私は冷静を装うことに意識を全集中させた。




早川先生は冷蔵庫の方に向かって、中から紙パックのジュースを2本取り出す。

「少し休憩でもしますか。これをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」

渡されたのはリンゴジュースだった。
早川先生の嬉しそうな表情に、また心臓が飛び跳ねる。

私は紙パックにストローを挿しながら先生に声を掛けた。


「先生…昨日はありがとうございました。私、不思議と嬉しかったです」


一瞬目を見開いて驚いた顔をした早川先生だったが、すぐに笑顔になった。


「良かったです。僕も嬉しかったので…」

先生は私の隣に座って一緒にジュースを飲み始めた。
隣に座った先生の体温がほのかに感じて心拍数が更に上がる。



「あ…そういえば、この本って早川先生の物ですか」
「そうですよ。見ましたか?」
「はい」

早川先生は『鳥でも分かる!高校数学』を手に取った。

「これ、藤原さんの補習で活用しているのです。理解力が鳥以下の藤原さんに、どうやったら伝わるか…僕も日々勉強しているのですよ」
「と、鳥以下!!!」

やっぱり鳥以下の人間とは私の事だったか。

「鳥以下ですみません…ご迷惑をおかけします」
「いえ、全然迷惑じゃないです」

先生は本を置いて横目でこっちを見た。

「僕が好きでやっていることですから。藤原さんが気にすることは何もありません。貴女は真面目に数学のお勉強をして下さい」

優しく微笑んでいる早川先生の白衣の裾をそっと掴んだ。




そんな自分の行動に少し驚く。


「先生、ありがとうございます」
「……当然のことです」

早川先生は私の頭を撫でてくれた。優しい手付きに心が落ち着く。

「ところで、今日の補習は?」
「無いですよ。藤原さんが頑張ってここに来てくれましたから。今日はそれだけで十分です」

また優しく微笑んでくれた。



…どうしよう。先生に対するこの感情…。




私は早川先生の腕にもたれかかってみた。一瞬先生の全身がビクッとしたが、すぐに受け入れてくれた。

「…ちょっと、藤原さん。勘違いしますよ」
「……」


ノーコメント。自分だって散々撫でたりしてくるくせに。




早川先生は大きく息を吐いて、ソファの背もたれに体重を預けた。

「勘違い、しても良いのですか…」

先生は私の左手をそっと握ってくる。それでも私は無言を貫く。

「…藤原さんの手、温かいです」


全く嫌な感情は無く、むしろ胸に温かいものが流れる感覚がした。




私、先生の事が好きになっているんだ…。

 



私の手を握っている先生の手に、少しだけ力が加わる。

このまま時が止まれば良いのに…。そう思うくらい、心が満たされていた。これまでの人生で感じたことの無い感情。




しかし、そんな時間も長くは続かない。




数学科準備室の扉が開くと同時に、早川先生と2人だけの空間は破壊される。


「……………え?」


またタイミング悪く現れる伊東…だが、今回は数学科準備室でこんなことをしている我々が悪い。

「………」

伊東は無言で扉を閉めた。





「あの人のことは気にしないでください」
「……」

そうは言っても…。
無言で考えていると再び扉が開いた。


「いや。早川、何してんの?」
「同好会の活動です」
「全くそうは見えないんだけど」


伊東は部屋に入ってきて、自分の席に座った。
眉間に皺を寄せて不機嫌丸出しだ。

 
「じゃあ、藤原さん。今日の活動は終わりましょう。早いけど、帰って休んでください」
「え…はい」

早川先生は小さく溜息をついて立ち上がった。



「では、さようなら」
「さようなら…」


追い出されるような感じで数学科準備室を後にする。私の心は少しモヤモヤしていた。

…大丈夫かな。伊東怒っている感じがしたけど。




廊下を歩きながら、先程の早川先生との時間を思い出していた。

嫌どころか、むしろ落ち着くなんて。
 





私は自分の気持ちを確信した。




早川先生のことが、好きだ。
  
           






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