青春は、数学に染まる。
翌日、2限目の数学が急遽自習に代わった。
代わりに伊東が来ることも無く、全然関係のない先生が来た。
何だろう。なんだか…とても胸騒ぎがする。
休憩に入ったと同時に、有紗の元へ駆け寄った。
「真帆。早川先生どうしたの?」
「いや…分かんない。けど私、嫌な予感がする」
「どういうこと?」
「早川先生と伊東…何かあった気がする…」
「何かって何よ」
廊下の角に行って小声で昨日の放課後の話をした。焦って私を帰した早川先生と、眉間に皺を寄せて怒りの感情を抑えていたかのような伊東…。その後のことは知らないが、そこで何かあったに違いない…。
しかし有紗は、私の話を聞きながら首を傾げていた。
「真帆、さすがに考えすぎじゃない?そんな…子供じゃあるまいし…」
私だってそう思いたい。だけど、何となく直感でそう感じる。
そして何より、伊東には早川先生を殴った前科があるから有り得ないことではない。
どうしよう…気になって仕方ない。
「今日放課後…行くしかないよね」
「多分、普通に何か用事があったとか…そんなことだと思うけど…」
放課後まで時間がある。
気になりすぎて、その後の授業にはあまり集中できなかった。
放課後の数学科準備室。
扉に耳を当てるが物音1つ聞こえない。部屋は静まり返っていた。
私はノックもせずに扉を開ける。
鍵がかかっていると思っていたが、予想に反してすんなり開いた。
「…誰かいますか」
ゆっくり室内に入っていくと、部屋の左手奥のデスクに座っている人影が見えた。左奥は…早川先生だ。
「早川先生!」
「…あ」
私が名前を呼ぶと振り返った早川先生。顔には元々貼っていたガーゼにプラスして湿布が貼ってあった。眼鏡をかけておらず、いつもの白衣も着ていない。
眼鏡が無いと私がどこにいるのか分からないのかな。先生と目は全く合わない。
「ふふ、藤原さん。いらっしゃいませ」
一瞬悲しそうな顔をしていた早川先生は無理して笑顔を作っていつも通りの声を出した。
「…え、ちょっと。先生…」
早川先生は足にギブスが巻かれていた。横には松葉杖が置いてある。
「その足…!!! 何があったんですか!」
「ふふ、ちょっと骨にヒビが入りました」
ニコニコしながら言うけど…笑いごとじゃない。
「笑っている場合ですか…。もしかして、伊東先生ですか?」
そう言うと私から目線を外して斜めを向いた。
「そうですけど…僕が悪いのです。先に手を出したのは僕なので」
「え」
まさかの。早川先生から手を出したとは想像もしていなかった。
私は早川先生にゆっくり近づき、湿布が貼ってある頬に軽く触れた。
先生は痛そうに体を震わせる。
「先生が伊東先生に勝てるはずないじゃないですか」
「いや…もちろん。勝てるとは1ミリも思っていませんよ。ただ、ここまで怪我をするとも思っておりませんでしたが」
良く見ると、机の上に壊れた眼鏡が置いてあった。
レンズは割れ、ツルの部分は折れている。
眼鏡が壊れるほど顔を殴られ、足にヒビが入るほど蹴られたのかな。
想像するだけで胸が痛くなる。
「そんなの自殺行為です」
「そんなことないですよ。伊東先生に分からせないといけませんでしたので。とても効果的でした」
「でも! 当たり所が悪かったら死んでしまいます…」
自分でも驚くほど悲しい声が出る。
「伊東先生に、僕と藤原さんのことを口出しする権利は無いということ。それを伝えるには体を張るのが一番だったのです。伊東先生は藤原さんのこと何も知らないのに要らないことばかり言うでしょう。それがずっと目障りだったので、一言言いたかったのです」
その結果、こんな大怪我をしたのでは意味が無い。
「ごめんなさい、ごめんなさい…。また私が原因で、早川先生が傷付いてしまいました」
「藤原さんのせいでは無いです。全て僕の意思ですから」
先生はそう言いながら、机の方を向いた。
そして、口元を抑えながら呟くように言葉を継いだ。
「…藤原さん。前にも言いましたが、僕は貴女のことが好きです。ですが、僕のこの思いは世間一般的にはダメなことです。だから…藤原さんが僕のことを迷惑だと思い、僕がここからいなくなることを望むなら…今すぐ学校でも教育委員会でも報告してもらって、僕を解雇させて下さい。でもそうでは無いなら…僕はただ一つの可能性を信じたいと思います」
また解雇とか言う。
私に責任転嫁しないでと前も言ったのに。
だけどそれ以上に、小声ながらも力強い早川先生の言葉に心が奪われ、思わず体が固まってしまった。
いや…分かる。先生の言いたいことは痛いほど分かる。
私の思いも決まっている。
私も、早川先生のことが好き。
だけど、言ってはいけない気がする。
これ以上は…踏み込んではいけない世界。
…どうしよう。
何て返答するのが正解か分からなくて言葉が出てこない。
「ふふ」
早川先生は笑いながら手を1回叩いた。
「すみません、困らせました」
先生はこちらを向くことなく、今度は両手で顔を覆った。
「困らせてすみませんでした。僕は貴女のことを考えると、教師としての自分を忘れてしまうようです。伊東先生と喧嘩をして、今度は藤原さんを困らせてしまっています。…本当、ごめんなさい。もう、今後一切言いませんから」
小刻みに体を震わせる姿に胸が痛んだ。
行き場のない感情で胸がいっぱいになって苦しい。
「……」
私の中のどうしようもない感情が言葉となって溢れ出してくる。
「本当に! 本当に馬鹿、先生の大馬鹿!」
思わず体が動き、私は早川先生の背中に抱きついた。
先生の体は一瞬ビクッと飛び跳ねたが、何も言わず受け入れてくれた。
「藤原さん…」
「先生は意地悪です。自分の思いを伝えるだけ伝えて、私を困らせるなんて。前も言いましたよね!? 『思いを伝えてごめんなさい、報告して解雇させて下さい』って都合良すぎるのですよ! なら最初から言わなきゃ良いじゃないですか! あと、責任転嫁しないで下さいって言いましたよね!? 黙っているか、自己申告すれば良いのですよ!!」
早川先生は何も言わない。静かに頷いていた。
しばらく早川先生に抱きついたまま無言の時間が流れる。
遠くから吹奏楽部が練習する音や、運動部の掛け声や雑談をする生徒の声が微かに聞こえる。
早川先生は俯いたまま何かを考えているようだった。
「………藤原さん、本当にごめんなさい」
「………」
「藤原さん…」
唾を少し飲み込む。音が少し響いて恥ずかしい。
「はぁ」
私は小さく息を吐いて…意を決する。
「…早川先生、私も好きです」
耳元で呟くように囁いてみた。
「解雇させてなんて、もう二度と言わないで下さい。100年後も、私に数学を教えてくれるのでしょう」
「藤原さん…本当ですか?」
「嘘だと思うのですか」
早川先生は小さく首を振り、抱きついている私の手に軽く触れた。
「正直な話、一目惚れしたのは伊東先生でした。数学の補習が始まった時、接点のない伊東先生と話せたことが嬉しかったのです。でも、伊東先生の行動は…早川先生もご存じの通りです。そんな傷つけられた心を守ってくれたのは早川先生でした。教師として当たり前なのかもしれませんが…嬉しかったです」
私は早川先生から離れて、近くにあった椅子に座る。
横から先生の顔を覗き見ると、涙が溢れていた。
「先生も泣くのですね」
「見ないで下さい」
先生はそう言いながら無理矢理笑って目を拭う。
「先生は子供です」
「…はい、間違いありません。藤原さんは、大人です」
先生は私に手招きをした。
素直に従って近づくと、膝の上に座らされた。
「ここに座って…足痛くないですか」
「このくらい大丈夫です」
至近距離で顔を見合わせる。この距離なら顔が見えるのか、今日やっと目が合った。
「藤原さん、好きという言葉は信じても宜しいでしょうか」
「え、まだ疑っているのですか」
「…いえ。ただ、実感が沸かないだけです」
そう言いながら早川先生は私の頬に触れて、優しく唇を重ねた。
軽く触れるか触れないか…というくらい優しいキス。
少し離れて目を合わせて、お互い微笑んだ。
「…ファーストキスです」
「すみません、僕で良かったのでしょうか…」
「先生が良い」
そう言って、今度は私から唇を重ねた。
心拍数はこれ以上上がると死ぬでは無いかというくらい高くなっている。
「…藤原さん。ありがとうございます。…では、今から補習しましょうか」
「え、補習?」
想像もしていなかった言葉に目が点になる。今から補習するの!?
「同好会の活動をする為ここに来たのでしょう?」
「…え? いや、今日の授業で早川先生も伊東先生も来なかったので…何かあったのでは無いかと思い心配して来ただけです」
私はゆっくり早川先生の膝から降りて、思い切り首を振る。
この流れで補習なんて出来ないでしょ!
「そうですか。やっぱり藤原さんは優しいです。…来て下さって本当に嬉しかったです」
涙目でそう言う先生のことが愛おしい。
そんな感情が沸き上がる。
「実は、眼鏡が無いと本当に何も見えません。藤原さんの顔すらまともに見えないのです。だから、補習はしません」
「そんなに目が悪いのですね」
「眼鏡が壊れると絶望的です」
先生を見ていると心臓のドキドキが治まらない。
「藤原さん。少し、お話しませんか」
早川先生の机の横に置かれた生徒机に座るよう促され席に着く。
先生は手探りで適当に取った本を私の前に置いた。
「この本を使って補習をしている “風” にしましょう。誰か来るまでは、僕とお話してくれますか」
「…はい。もちろんです」
誰か来るって、可能性は伊東しか無いのでは…と思いつつ、出てきそうだったその言葉は飲み込んだ。
私の前に置かれた本には『解析概論』と書かれていた。
パラパラと中身を見ると、数字とアルファベットがズラリと並んでいる。
早川先生はこんな本を読んでいるのか…。
私には一生読める気がしなくて笑いが込み上げてくる。
1つ言える事は、この本では私が補習している“風”にはならない。
ただ、それだけ。