青春は、数学に染まる。
準備室の電気を消すと視界は真っ暗になった。
見えなくても場所を覚えているみたいで、先生は手馴れた手付きで鍵を掛けた。そしてゆっくりと昇降口へ向かう。
私は早川先生の腰に手を回して支えることにした。
「介助ありがとうございます」
「転ばれると困りますので」
我ながら可愛くない返答…。そう言いながら窓の外へ目をやる。
この前も先生と夜景を見た。こんな短期間で進展するなんて、あの時は思ってもみなかったなぁ…何てしみじみ思う。
「夜景、見ていきますか」
そう言って早川先生は立ち止まった。
鮮明に見えていないはずなのに、何故分かるのだろうか。
前は職員室の明かりが差し込む中の夜景だったが、今回は違う。
数学科準備室があるこの階はどこも電気が付いておらず、より一層夜景が綺麗に見えた。
「先生、見えていますか?」
「えぇ。光が霞んで少しぼやけていますが、見えていますよ」
「良かったです」
この綺麗な夜景、先生にも見えていて良かったと心の底から思う。
しっかり胸に刻もう…そう思いながら、夜景と早川先生の顔を交互に見ていると…階段の方から足音が聞こえて来た。
このパターン。
現れるのは大抵が伊東だったなぁ…なんてふと思う。
謹慎になった伊東が来るはずないけど。
そう思っていたのに。
私たちの視界に現れた人は、本当に伊東だった。
「…あ」
「……」
伊東はジャージ姿だった。
軽く頭を掻いた後、小さく溜息をついた。
「人影が見えるのは分かりますが、どなたですか」
早川先生は誰か特定できていないようだ。
「ふぅん…」
伊東は小声でそう呟いた。
そして早川先生に近付いて、拳を高く振り上げる。
「は!? ちょっと待って!!!」
反射的に体が動いた私は、伊東に全身でアタックした。
ただ、伊東はビクともしない。
「何ですか! その手!!」
早川先生を守るように立ってみる。状況が読めない早川先生は戸惑っていた。
「え? 藤原さん?」
睨むような目付きで伊東の顔を見る。
しばらく私と目を合わせたまま固まっていた伊東は、笑いながら拳を下げた。
「…ははっ。藤原、俺が何かすると思った?」
「思いました。というか、そうとしか思えません」
「そうか。何とまぁ、信用の無いこと」
状況を読み込んだ早川先生は、小さく呟くように口を開いた。
「………伊東先生。何故いるのですか」
伊東がまた早川先生に近付く。私は壁になるように、早川先生の前で両手を広げた。
「藤原。何もしないよ」
「……」
「俺はただ、数学科準備室に置いてあるものを取りに来ただけだよ。今日から2週間、来られないから。…君らがここにいたのは想定外だったが」
伊東に対して、今まで感じたことのない恐怖心を感じる。
そもそも、この人には擦り傷の一つも無い。早川先生がこんなにも怪我をしているのに。空手有段者、怖すぎる。
「早川。どうして今回の事、学校内だけで済ませたんだ? 警察に突き出しても良かったのに」
「…別に。僕から振った喧嘩ですから。そもそも、たかが喧嘩で警察に言うなんて馬鹿馬鹿しいでしょう。病院では階段から落ちたことにしていますし」
「前に顔を酷く叩いた時、警察に通報するって言っていたじゃないか」
「あの時、衝動的に出た言葉です。最初から言うつもりなどありませんでした」
伊東は溜息をついて黙り込んだ。
早川先生は伊東を庇っていたのだ。
そしてそれに、伊東も気付いている。
「…藤原さん。行きましょう。話は終わりです」
「…はい」
私はまた早川先生の腰に手を回して支え、ゆっくり歩き出す。
伊東はそんな私たちの様子をずっと見ていたが、何か言うことは無かった。
昇降口までお互い無言だった。
職員用靴箱の前で早川先生から手を離し、距離を取る。
さっきの、怖かったな…。
咄嗟に早川先生を庇ったけれど、本当に殴られていたらどうなっていたかな。そう思いながら少し離れた位置から先生の顔を見ると、思わず涙が溢れて来た。
伊東のことが怖かった。かっこいいと感じていた伊東のことが、凄く怖く感じた。早川先生に拳を上げた時も、本当は凄く怖かった。
抑えていた感情が溢れて涙が止まらない。涙を止めようとしても止まらず、余計に嗚咽が漏れる。
「藤原さん、泣いているのですか…」
私の方に腕を伸ばす。しかし鮮明に見えず距離感は分からないみたい。
「…泣いていませんよ」
早川先生はしばらく考え込んだ後、眉間に皺を寄せて震え始めた。
「僕が不自由なせいで。藤原さん、ごめんなさい。泣かないでください」
声を震わせていた早川先生まで一筋の涙を零した。
こんな様子、他の人に見られたらどうするのよ…。
私は再度先生に近付き、の背中をトントンと2回叩いた。
「先生、私は大丈夫です。…もう帰りましょう」
私は涙を拭い、職員用靴箱を見回して“早川”と書いてある靴箱を開けた。中に入っている大きな革靴を取り出し、先生に履き替えるよう促す。
「ありがとうございます…。本当に、藤原さんは大人です」
先生も涙を拭って靴を履き替え始めた。
「先生は子供です」
「えぇ…、間違いありません」
何回目かのやり取りをする。
外に出ると既にタクシーが待っていた。
誰にも見つからないように乗り込み、隣の市に向かって走り出す。
タクシーの中での会話はあまり無かったが、早川先生はずっと私の手を握ってくれていた。