青春は、数学に染まる。

伊東の気持ち

そういえば、いつから無かったのだろう。
昨日も来たのに、気付いていなかった。

数学補習同好会が発足した時に掛けてあった看板が無くなっている。




廊下で突っ立って居ると、後ろから久しぶりに伊東が現れた。

「あ、藤原…」
「…お久しぶりです」

ネクタイをビシッと締めてジャケットを羽織っているが、その表情は少しやつれているように見える。目に生気が感じられない。

「藤原さん」

伊東の後ろから早川先生も現れた。

「早川先生!」

思わず声がワントーン上がり、私は早川先生の方に駆け寄る。

「………その態度の差、傷つくなぁ」


伊東はボソッと呟いて準備室に入っていった。

あれ、どうした?

「………?」

不思議に思い首を傾げていると、早川先生は私の肩に手を添えて部屋へ入るよう促す。

「ふふ、気にしないで下さい」

そうは言っても…。
普通じゃ無いよね、あの感じ。




部屋に入ると、伊東は自分の机に座って普通に仕事をしていた。
山積みになっていたから、やることが溜まっているのだろう。

「……」

早川先生は黙って私の補習の準備をしている。


2人とも何も言わない。
空気が重すぎて息が詰まりそうだ。


「藤原さん、お待たせしました。今日から別室でやりましょうね」

優しく微笑む早川先生。その笑顔の後ろで、不満げな伊東の顔が見える。


早川先生が扉を開けて私を廊下に誘導しようとした時、突然伊東が立ちあがってこちらを向いた。


「…藤原。俺、謹慎中に色々考えていたんだけど。やっぱり、藤原のことが好きだ。気になるとか、そういうことじゃなくて、一人の女性として好き。そう自覚したんだ」


「え?」


伊東の突然の告白に、体が硬直する。


「藤原の事、好きだ。付き合ってくれないか…」


「…あっ」

動揺しすぎて持っていた鞄を落としてしまった。




何これ、どういう状況?




隣にいた早川先生は拳を握りしめ、震えていた。
その表情は怒りに満ちている。



「………っ」


早川先生は口を開いて何か言いかけたが、その言葉は飲み込んだ。

そして小さく溜息をついて、真っ直ぐ伊東の方を向いた。

「何ですか、急に。藤原さんはもう、僕のですから」

冷静に、だけど吐き捨てるような言葉。



行きましょう、とだけ言って数学科準備室から出て行った。
私も早川先生に着いて部屋から出る。

「……」

出る時にふと視界に入った伊東は、突っ立ったまま顔を下に向けていた。








早川先生は足早に廊下を歩く。
何も言わずにひたすら歩く。

向かっている先は空き教室棟だろう。私も何も言わずついて行った。




空き教室棟に着くと、慣れた手付きで鍵を開ける。

「どうぞ」

部屋に入ると早川先生は鍵を閉めた後、無言で私を抱き締めた。


「…先生」
「……」


2人が立った状態で抱きしめ合うのは初めてかもしれない。
私の目線に見えるのは早川先生のネクタイ。

先生ってこんなにも背が高かったんだ、と頭の片隅で思う。



「はぁ……僕は大人気(おとなげ)ないです。伊東先生も、言わなくても良いのに」

早川先生は震えた声で呟くように言った。


「でも先生、本当は言いたかった言葉を飲み込んだように見えました」

抱き締める腕の力が強くなった。

「…藤原さん。伊東先生のこと、好きですか?」

出た。またそれ。

「怒りますよ」
「………」

少し悲しそうな瞳。早川先生は本当に子供みたいだ。



正直、伊東のことはもう何も思っていない。

それでも、さっきみたいに告白されるとどうしても少し気になって考えてしまう。“早川先生のことが好きなので”と伊東に一言だけ言えばいいのに。すぐにそう言えなかった私は最低なのかもしれない。けれど…。

「あのタイミングでここに来た事。それが全ての答えだと思いませんか。伊東のこと好きなら、あの告白に返事していますよ。多分」


上を向いて早川先生の顔を見る。
それが今出せる、私の精一杯の答え。



早川先生は驚いたような顔をした後、優しく微笑んだ。


「やっぱり、藤原さんは大人です」
「…そうですね。先生より私の方が大人だと実感したところです」

わざとツンとした物言いをしてみる。
…ごめんなさい、と呟いた先生は目線を私に合わせて、優しく何度も唇を重ねた。

「真帆さん…」

早川先生の優しい動きに力が抜けてくる。

「先生、何それ…」
「…何でしょうね」

胸に温かい何かが溢れる感覚がする。好きな人に満たされると、こんなにも気持ち良いということを初めて知った。


伊東のこと、好きでは無いよ。


心配しなくて大丈夫。
私は、早川先生のことが好きだから。



この思い。
どうやったら先生に伝わるのかな。







どれくらい時間が経っただろう。
結局補習をせずにずっとくっついていた。気付けば外は真っ暗だ。


「藤原さん。明日からテスト週間ですよ」
「えぇ…今言います?」

期末テストかぁ、忘れていた。また数学で悪い点数取ってしまうのかな。

「ふふ、僕は藤原さんが赤点を取ることは当たり前だと思っていますから。今回は気絶しないで下さいね」
「その言葉、凄く複雑です…」
大丈夫です、と優しく頭を撫でてくれた。

「今日は一緒に帰れませんが、帰り道気を付けて下さい。襲われないで下さいよ」
「何ですかそれ。誰も私なんか襲いませんよ」

早川先生の冗談を笑い飛ばすと、笑い事じゃないです。と頬を膨らませた。何だろう、凄く可愛い。




ムスッとした早川先生は部屋の扉を開ける。
すると、廊下に座り込む人の姿が視界に入ってきた。


「え?」
「…………」
「伊東…先生」

こちらもムスッとした顔をしている。

「そんなところで何しているのですか。盗み聞きですか? 気持ち悪いですね」

し、辛辣(しんらつ)。だけど確かに、伊東はいつからここに居たのだろうか…。

「俺が1人になりたい時はここに来ること、藤原は知っているだろう」
「え、えぇ…」

それは知っているけども、逆に私と早川先生が今ここに居るっていうことも伊東は知っているはず。

…何しているの?

「1人になりたい? 数学科準備室は既に1人の空間だったでしょう。矛盾していますよ」
「仕事が目の前にあると休まらないだろ。少し休憩したい時はこっちに来るんだ」
「ふーん。しかし、そこに居ると盗み聞きしに来たと勘違いされても弁解できませんね。どこから聞いていたのですか?」
「…大体、最初から」

その言葉を聞いて一瞬で体温が上がる。最初から? ということはキスしていたところから全て聞いていたってこと?

「サボって盗み聞きしていたのですか? 謹慎が明けた初日だと言うのに、仕事して下さいよ」
「早川だけには言われたくないけどな」

お前キスし過ぎだろ。補習しろよ、馬鹿。と呟く。

やっぱり色々聞かれていた!!!



「まぁもう、分かったから。藤原、さっきは俺の思いを伝えてすまなかった。もう邪魔しないよ。早川も、補習なら数学科準備室でやれよ。数学補習同好会の部室はあの部屋だろ」

そう言って伊東は立ち上がった。



…そういえば、数学補習同好会のこと忘れていた。


「そういえば。同好会の活動は今後どうなるのですか? 準備室に掛けてあった看板も無くなっていたし…解散かと思っていたのですが…」

あぁ、と声を上げたのは早川先生だった。

「同好会は継続ですよ。ただ、看板に関しては手作り感が過ぎるので新しく取り換えるのです。そのため一時的に外しているだけです」

同好会だけど、ほんの少しだけ部費が貰えたらしい。

「俺も副顧問は継続する。早川がいないとき、俺が教えるよ」
「…副顧問継続は構いません。けれど僕がいない時の代理は結構です」

 そう言いながら私の体を片手で抱き寄せる。

「………そう」

伊東は唇を噛んで早川先生を睨みながら空き教室棟を後にした。

「また逃げましたね。…本当にここで何をしていたのか、全然分からないです」
「…しかし、声漏れているんですね」
「部屋から声が漏れることは想定内でしたが、こんなところに人は来ないと高を(くく)りすぎていました」

それは私も同じだ。
今回は伊東先生で良かったけど、今後気を付けないといけない。

「先生。学校内でこういうことするのは気を付けないといけませんね」
「……………もちろんです」


テスト明けの補習は数学科準備室でやりましょうね、そう話して解散した。







< 45 / 91 >

この作品をシェア

pagetop