青春は、数学に染まる。
「まぁ座ってよ」
薄暗い保健室。
僕に座るよう促し、睦月先生は自分の席についた。
「私はね、早川先生の同僚として、注意喚起をしたいだけなの」
「注意喚起?」
僕も椅子に座って睦月先生の方を向いた。
不穏な空気に、嫌な汗が流れる。
「早川先生、付き合い始めたでしょう。藤原さんと」
「………何故それを」
「ふふ、早川先生を見ていると分かる。表情が全然違うの」
意味が分からない。そんなに感情が駄々洩れだったとは思えないのだが。
「私ね、早川先生のことをよく見ているから少しの変化にも気付くの。例えば、廊下ですれ違った時の一瞬に、今日は少し剃り残した髭があるなぁ…とか」
「……え?」
え、普通に怖いし気持ち悪い。同僚とはいえ、そこまで見る?
一気に嫌悪感が沸き上がる。
睦月先生の言葉に鳥肌が立った。
「……それで? 貴女は何が言いたいのですか」
「前にも言ったよね、早川先生。私は誰にも言わないけれど、十分注意してよって。それは先生のことではなく、藤原さんを心配しての話だって」
「はい」
「藤原さんはまだ1年生なのよ。高校生活も始まったばかりなのに、先生と付き合うことで人生を台無しにしてはいけないと思わない?」
「…………結局のところ、何が言いたいのですか」
「放課後、藤原さんと2人でいるところを多くの人が目にしているの。それは数学補習同好会としての活動だと分かるけど。それでも疑いの目を持って、要らぬ噂を立てようとする教師も生徒もいるものなの。見えていないようで見えている。校内は敵だらけであることを、充分認識しといた方が良いわよ」
「……」
想定外だった。周りの目は一応気にしていたけれど…そんなに見られていたとは思っていなかった。
「…そんな大事なこと、どうして早く言ってくれなかったのですか」
「普通は気付くの。藤原さんのこと考えていたら、ね」
「……」
睦月先生の言葉は鋭いナイフのように、僕の体に刺さった。
「ねぇ、早川先生。恋がしたいなら、藤原さんではなくて…私という選択肢もありますよ? 先生同士なら合法です」
「…え?」
これまた想定外な睦月先生の発言にビックリした。
「藤原さんとは別れた方が…彼女のためです」
睦月先生の目は少し潤んでいて、思わず目線を逸らす。
「な、何を言っているのですか。別に、僕は恋がしたいわけではありません」
急いで立ち上がって睦月先生に背中を向ける。
「僕は、藤原真帆さん個人が好きです。先生だから、生徒だからなんて全く関係ありません。恋がしたいわけでもなく、“藤原さんだから” 恋をしている。ただそれだけです。……ご忠告はありがとうございました。気を付けます」
そう言って睦月先生の方を見ずに保健室から出た。
いけない、藤原さんを待たせすぎた。
僕は急いで空き教室棟へ向かう。
藤原さん個人が好き。先ほど言った言葉は本心だけど、睦月先生に刺された言葉のナイフは刺さったまま僕の心を抉る。言われた言葉も頭から全然離れなくて、ひたすらに苦しかった。
僕の勝手な片思いから交際に発展させた。
付き合う前から藤原さんに触れて、何度も思いを伝えた。
それが藤原さんの負担になって、交際を受け入れてくれたのかもしれない。
限られた高校生活。
僕でいっぱいにさせるのは悪い事かもしれない。
“普通の” 恋愛は出来ずに、苦しい思いをさせるかもしれない。
そう考えると、段々と心がざわつき始めた。
睦月先生の言っていることは何も間違ってはいない。
藤原さんのことを考えて…。そうだよね。
今なら、まだ戻れる。
僕はこの短い時間の間で必死に胸の中で考え、ただ一つの結論を導き出した。
…大切な、藤原さんの意見を何も聞かずに。
「藤原さん!」
電気が点いている空き教室の扉を勢いよく開ける。
視界に入った愛おしい彼女は、机に伏せて眠っていた。
(side早川 終)