青春は、数学に染まる。
同僚の嘘
(side 早川)
このコマは空き時間。僕は職員室で仕事をしていた。
藤原さんに別れを告げて2週間以上が経過していた。
自分から告げたにも関わらず、ずっと後悔でいっぱいだった。
あの日から藤原さんは数学科準備室に来ない。
補習も昨日の再試にも来なかった。
…どうしよう。
教師としての僕と、男としての僕が衝突し合う。
「早川先生」
「…睦月…先生」
睦月先生は周りを見回す。今は授業中で、ここにいる教師も少ない。
「先生、藤原さんとお別れしたのね」
「…え?」
「保健室、来てよ」
小声で呟くようにそう言った睦月先生。
保健室に向かってゆっくりと歩き始めた。
何故。
何故知っているのか、この人は…。
少し警戒しながら保健室へ入り、椅子に腰をかける。
微笑んでいる睦月先生の表情が何だか怖い。
「私の言ったこと、理解してくれたのね」
「…睦月先生の言葉は、きっかけに過ぎません。それより、何故知っているのですか」
「藤原さんがここへ来たからよ」
「え?」
睦月先生は腕を組み、思い出すように話す。
「私がここで先生にお話した翌日、的場さんと一緒に1限を受けずにここへ来ていたの。藤原さんの話を聞くんだと言ってね。まぁそこで知った感じ。藤原さん、泣き腫らしていたね」
「……」
僕が休んだ日か。
僕もあの日は泣きすぎたせいか目が腫れており、とても教壇に立てる顔では無かった。
「藤原さん、私に早川先生と付き合っていたことを知られては困ると思ったのでしょうね。最初こそ口を開かなかったわ。けれど、私が知っていると言ったら信用して話してくれたの。可愛いね」
そう言いながら微笑む睦月先生に対して嫌悪感を覚えた。
僕に別れを促したのは睦月先生だ。
もしかして、悲しんでいる藤原さんを見て微笑んでいたのか?
「私ね、嬉しいの。早川先生が私の話を聞いてすぐに行動に移してくれたこと。これは藤原さんの為だし、先生にとっても、私にとっても良いことなのだから…」
睦月先生は白衣を脱いで僕に近付いてきた。
白いブラウスから下着が透けていて、目のやり場に困る。
「…睦月先生、やめてください」
「…この前、疑いの目を持って要らぬ噂を立てようとする教師も生徒もいると言ったけど、本当はそんな人…聞いたことないの。私が2人を別れさせるための、口実よ」
「つまり、嘘ついていたってことですか…」
「嘘だなんて…。人聞きの悪い事を言わないで」
睦月先生はどんどん近付いてくる。
「近いです。離れて下さい」
「…離れないわ」
静止を聞かず近付いてきて、僕の前髪に触れた。
七三に分けた前髪は、あっという間に崩れる。
「可愛い」
「本当にやめてください」
頬を赤らめうっとりとしたその表情。僕の直感が『ダメだ』と警告する。
「ねぇ…私じゃダメかしら? 出会った時から、ずっと好きだったの…」
「だから…だから!! やめてくださいって言っているでしょう!!!!」
僕は軽く睦月先生を押しのけて立ち上がった。
睦月先生は唇を噛んで、不満そうにこちらを見ている。
「何ですか急に。今までそんな素振りも無かったではありませんか」
「私、藤原さんが現れて…焦ったの…」
机の上に置いてある睦月先生の白衣を手に取って肩に掛けながら、溜息をついた。
「…僕はやっぱり藤原さんが好きです。睦月先生に言われた日、教師と生徒に戻る選択をしました。でもダメです。やっぱりこういうのは衝動的に結論を出すものではありませんね。もっとじっくり考え、藤原さんの意見も聞いて判断するべきでした。僕は、リスクがあっても藤原さんがいいです。藤原さんを守るのが、僕の役目。……泣き晴らしていたと聞いて、特にそう実感しました」
「そんな、どうして…」
「睦月先生こそ、どうしてですか。僕は貴女に何かした覚えもありません」
「だから私、ずっと早川先生のことが好きだったの!! 出会った時から…新人の時からずっと!! 気持ちを抑えていたけれど、藤原さんが倒れた日…あの時、藤原さんに対する早川先生の姿が素敵で…その場所が私なら、そう思ったの!」
睦月先生が僕のことを好きだった?
そんなはずあるわけない…。
出会った時から現在まで、複数の男性教師とお付き合いをしていたという話を聞いたことがある。
嘘も程々にして欲しい。
「なるほど、そうですか。ならば尚更ですね。尚更…貴女は藤原さんの代わりには、なりません。お話は以上ですか? そしたら僕は失礼します」
僕はそう言い残して足早に保健室から出る。
睦月先生の行動は想定外で本当にびっくりした。
季節外れの汗が止まらない。
「…睦月先生が僕のこと好きだなんて、有り得ません」
藤原さんが倒れた日、あの時の様子を見て憧れを抱いただけだろう。
同期の中でも美人な部類の睦月先生。
絶対違う。
…今はそう思いたい。
しかし、睦月先生に踊らされていたとは。短絡的な自分に嫌気が差した。
見抜けていれば。自分の感情に一本筋を通していれば。
僕は藤原さんを泣かせずに済んだのに。
保健室から飛び出した僕は、急いで数学科準備室へ戻った。
数学科準備室の扉を勢いよく開ける。
部屋の中には、伊東先生がいた。
「え、誰?」
「僕ですけど」
そう答えて気付いた。そういえば、前髪崩されていたのだった…。
「前髪下ろすと童顔だな。生徒かと思った」
「思うのは勝手です」
僕はソファに座って『鳥でも分かる!高校数学』を手に取った。
藤原さん…。
僕は、藤原さんのことが恋しい。
自分勝手だと罵られても良い。それでも、藤原さんと会って…できれば関係を戻したい。
「…伊東先生。実は僕、藤原さんに別れを告げました」
「…………はぁ? え、この前藤原もお前も泣いていたの…そういうこと?」
「恥ずかしながら」
バッカじゃねーの…。と呟いた伊東先生。
そうだ。睦月先生の言葉に踊らされた僕は、大馬鹿者だ。
「僕は、睦月先生に教師と生徒の恋愛はリスクしかないから。藤原さんのために別れた方がいいと。そう言われ、僕は従いました」
「…けどやっぱり、僕は藤原さんが好きです。もう一度、お話をしたいのです。けれど、藤原さんは補習すら来てくれません」
「そりゃ、そうだろ。来ないだろうよ」
「そこでお願いがあります。伊東先生が、藤原さんを呼び出してくれませんか?」
伊東先生に頼むのは癪だったがもう手段は選んでいられない。藤原さんを傷付けた僕が何を言っても、来てはくれないだろうから。
「お前さ、そんなの自業自得じゃん。自分から別れを告げたんだろ? しかも睦月の言葉一つで。何言ってんの?」
「分かっています」
「それに、俺も藤原のこと好きなことに変わりないんだけど。俺今、チャンス到来だと思っているんだけど?」
「それはダメです」
「お前にそういう権利は無いだろ」
思わず下を向いた。…そんなこと、分かっている。
分かっているけど、藤原さんを取られたくない。
自分から手放したのに、自分勝手だ。
「………」
難しいよね。そもそも、頼む相手が伊東先生なのが難しい。
けれども、頼める人は伊東先生以外にいない。
伊東先生は盛大に頭を掻いた。そして大声を上げる。
「あーあーあー、分かったよ!!!!! 分かった!!! 俺が呼べば良いんだろ!!!!!」
椅子から立ち上がって僕の目の前に来た。
「良いか早川、テメェ今回は目を瞑るけど…次また同じ事をしたら、今度は俺が奪うからな」
睨むようにこちらを見ている。威圧感が凄い。
「…テメェとか言わないでください」
「テメェはテメェだよ。馬鹿」
舐められたものだ。僕より年下のくせに。
しかし、今回ばかりは仕方ないか…。
伊東先生の暴言には目を瞑ることにする。
「今日の放課後、呼び出すからな」
「分かりました。ありがとうございます」
僕は大きく息を吐き出し、崩れていた前髪を直した。
(side 早川 終)
このコマは空き時間。僕は職員室で仕事をしていた。
藤原さんに別れを告げて2週間以上が経過していた。
自分から告げたにも関わらず、ずっと後悔でいっぱいだった。
あの日から藤原さんは数学科準備室に来ない。
補習も昨日の再試にも来なかった。
…どうしよう。
教師としての僕と、男としての僕が衝突し合う。
「早川先生」
「…睦月…先生」
睦月先生は周りを見回す。今は授業中で、ここにいる教師も少ない。
「先生、藤原さんとお別れしたのね」
「…え?」
「保健室、来てよ」
小声で呟くようにそう言った睦月先生。
保健室に向かってゆっくりと歩き始めた。
何故。
何故知っているのか、この人は…。
少し警戒しながら保健室へ入り、椅子に腰をかける。
微笑んでいる睦月先生の表情が何だか怖い。
「私の言ったこと、理解してくれたのね」
「…睦月先生の言葉は、きっかけに過ぎません。それより、何故知っているのですか」
「藤原さんがここへ来たからよ」
「え?」
睦月先生は腕を組み、思い出すように話す。
「私がここで先生にお話した翌日、的場さんと一緒に1限を受けずにここへ来ていたの。藤原さんの話を聞くんだと言ってね。まぁそこで知った感じ。藤原さん、泣き腫らしていたね」
「……」
僕が休んだ日か。
僕もあの日は泣きすぎたせいか目が腫れており、とても教壇に立てる顔では無かった。
「藤原さん、私に早川先生と付き合っていたことを知られては困ると思ったのでしょうね。最初こそ口を開かなかったわ。けれど、私が知っていると言ったら信用して話してくれたの。可愛いね」
そう言いながら微笑む睦月先生に対して嫌悪感を覚えた。
僕に別れを促したのは睦月先生だ。
もしかして、悲しんでいる藤原さんを見て微笑んでいたのか?
「私ね、嬉しいの。早川先生が私の話を聞いてすぐに行動に移してくれたこと。これは藤原さんの為だし、先生にとっても、私にとっても良いことなのだから…」
睦月先生は白衣を脱いで僕に近付いてきた。
白いブラウスから下着が透けていて、目のやり場に困る。
「…睦月先生、やめてください」
「…この前、疑いの目を持って要らぬ噂を立てようとする教師も生徒もいると言ったけど、本当はそんな人…聞いたことないの。私が2人を別れさせるための、口実よ」
「つまり、嘘ついていたってことですか…」
「嘘だなんて…。人聞きの悪い事を言わないで」
睦月先生はどんどん近付いてくる。
「近いです。離れて下さい」
「…離れないわ」
静止を聞かず近付いてきて、僕の前髪に触れた。
七三に分けた前髪は、あっという間に崩れる。
「可愛い」
「本当にやめてください」
頬を赤らめうっとりとしたその表情。僕の直感が『ダメだ』と警告する。
「ねぇ…私じゃダメかしら? 出会った時から、ずっと好きだったの…」
「だから…だから!! やめてくださいって言っているでしょう!!!!」
僕は軽く睦月先生を押しのけて立ち上がった。
睦月先生は唇を噛んで、不満そうにこちらを見ている。
「何ですか急に。今までそんな素振りも無かったではありませんか」
「私、藤原さんが現れて…焦ったの…」
机の上に置いてある睦月先生の白衣を手に取って肩に掛けながら、溜息をついた。
「…僕はやっぱり藤原さんが好きです。睦月先生に言われた日、教師と生徒に戻る選択をしました。でもダメです。やっぱりこういうのは衝動的に結論を出すものではありませんね。もっとじっくり考え、藤原さんの意見も聞いて判断するべきでした。僕は、リスクがあっても藤原さんがいいです。藤原さんを守るのが、僕の役目。……泣き晴らしていたと聞いて、特にそう実感しました」
「そんな、どうして…」
「睦月先生こそ、どうしてですか。僕は貴女に何かした覚えもありません」
「だから私、ずっと早川先生のことが好きだったの!! 出会った時から…新人の時からずっと!! 気持ちを抑えていたけれど、藤原さんが倒れた日…あの時、藤原さんに対する早川先生の姿が素敵で…その場所が私なら、そう思ったの!」
睦月先生が僕のことを好きだった?
そんなはずあるわけない…。
出会った時から現在まで、複数の男性教師とお付き合いをしていたという話を聞いたことがある。
嘘も程々にして欲しい。
「なるほど、そうですか。ならば尚更ですね。尚更…貴女は藤原さんの代わりには、なりません。お話は以上ですか? そしたら僕は失礼します」
僕はそう言い残して足早に保健室から出る。
睦月先生の行動は想定外で本当にびっくりした。
季節外れの汗が止まらない。
「…睦月先生が僕のこと好きだなんて、有り得ません」
藤原さんが倒れた日、あの時の様子を見て憧れを抱いただけだろう。
同期の中でも美人な部類の睦月先生。
絶対違う。
…今はそう思いたい。
しかし、睦月先生に踊らされていたとは。短絡的な自分に嫌気が差した。
見抜けていれば。自分の感情に一本筋を通していれば。
僕は藤原さんを泣かせずに済んだのに。
保健室から飛び出した僕は、急いで数学科準備室へ戻った。
数学科準備室の扉を勢いよく開ける。
部屋の中には、伊東先生がいた。
「え、誰?」
「僕ですけど」
そう答えて気付いた。そういえば、前髪崩されていたのだった…。
「前髪下ろすと童顔だな。生徒かと思った」
「思うのは勝手です」
僕はソファに座って『鳥でも分かる!高校数学』を手に取った。
藤原さん…。
僕は、藤原さんのことが恋しい。
自分勝手だと罵られても良い。それでも、藤原さんと会って…できれば関係を戻したい。
「…伊東先生。実は僕、藤原さんに別れを告げました」
「…………はぁ? え、この前藤原もお前も泣いていたの…そういうこと?」
「恥ずかしながら」
バッカじゃねーの…。と呟いた伊東先生。
そうだ。睦月先生の言葉に踊らされた僕は、大馬鹿者だ。
「僕は、睦月先生に教師と生徒の恋愛はリスクしかないから。藤原さんのために別れた方がいいと。そう言われ、僕は従いました」
「…けどやっぱり、僕は藤原さんが好きです。もう一度、お話をしたいのです。けれど、藤原さんは補習すら来てくれません」
「そりゃ、そうだろ。来ないだろうよ」
「そこでお願いがあります。伊東先生が、藤原さんを呼び出してくれませんか?」
伊東先生に頼むのは癪だったがもう手段は選んでいられない。藤原さんを傷付けた僕が何を言っても、来てはくれないだろうから。
「お前さ、そんなの自業自得じゃん。自分から別れを告げたんだろ? しかも睦月の言葉一つで。何言ってんの?」
「分かっています」
「それに、俺も藤原のこと好きなことに変わりないんだけど。俺今、チャンス到来だと思っているんだけど?」
「それはダメです」
「お前にそういう権利は無いだろ」
思わず下を向いた。…そんなこと、分かっている。
分かっているけど、藤原さんを取られたくない。
自分から手放したのに、自分勝手だ。
「………」
難しいよね。そもそも、頼む相手が伊東先生なのが難しい。
けれども、頼める人は伊東先生以外にいない。
伊東先生は盛大に頭を掻いた。そして大声を上げる。
「あーあーあー、分かったよ!!!!! 分かった!!! 俺が呼べば良いんだろ!!!!!」
椅子から立ち上がって僕の目の前に来た。
「良いか早川、テメェ今回は目を瞑るけど…次また同じ事をしたら、今度は俺が奪うからな」
睨むようにこちらを見ている。威圧感が凄い。
「…テメェとか言わないでください」
「テメェはテメェだよ。馬鹿」
舐められたものだ。僕より年下のくせに。
しかし、今回ばかりは仕方ないか…。
伊東先生の暴言には目を瞑ることにする。
「今日の放課後、呼び出すからな」
「分かりました。ありがとうございます」
僕は大きく息を吐き出し、崩れていた前髪を直した。
(side 早川 終)