青春は、数学に染まる。
過去
無言の車内。
しばらくして信号で止まると、早川先生は大きく息を吐いて頭を掻いた。
「先生…どうして」
「演技、上手くいっていましたか?」
先生はいつもの笑顔は浮かべず、真顔のままそう問う。
目には少し怒りの感情が混じっているようだ。
「上手かったです。…それより先生、何であんなところに…」
「泣いている彼女を放って帰せません。ただ、あの場で追いかけることもできなかったので、急いで裏口から車であの場所に向かいました。神崎くんがいたのは想定外でしたが」
先生は走りながら黒いマフラーを解く。私は先生からそのマフラーを受け取った。
初デートした時に借りたマフラー…。
先生の香りがして落ち着く。気付かれないようにそっと胸に抱いた。
「藤原さん。伊東先生の件、代わりに僕から謝ります。申し訳ございませんでした。実は何度もあれに遭遇しています。初手で釘を刺しておくべきでした。そうしたら藤原さんが傷付かなくて済んだのに…」
「早川先生のせいではありません。大丈夫です。私はもう…伊東先生とは関わりたくありませんが…」
「心配しないで下さい。僕が伊東先生と藤原さんを二度と関わらせません」
先生は駅を通り過ぎて、隣の市の方向へと車を走らせる。
「ところで先生…どこへ…」
「家まで送ります」
「え、でも。先生…あの短い時間では片付けとか何も出来ていないでしょう」
「僕は大丈夫です。学年末のテストも作成しないといけませんし、また学校に戻ります」
「え、それ全然大丈夫じゃない!」
「大丈夫です。さっきも言いましたが、泣いている彼女を放って帰らせる方が大丈夫じゃないです」
信号で停まり、早川先生は横目で私の方を見る。悲しそうな、辛そうな…何とも言えない表情をしている。
「…ところで、藤原さん。僕を彼氏と言わなかった理由は何ですか? あと、何故手を繋いでいたのでしょうか?」
絞り出すような声でそう問う早川先生。
表情は変わらないままだ。
「……え?」
「先程の神崎くんの件です」
「…あぁ、兄というやつですか。…すみません、その方が…変に勘繰られずに済むと思いまして。手については…無理矢理ですかね」
あの場で彼氏と言うと良くないよ。疑い掛けられても困るし…。
早川先生は小さく溜息をついて、目を細める。
「まぁ、そうですよね。どんなに変装しても、僕はここの数学教師。下手に生徒に知られるリスクは負わない方が良いです。藤原さんの選択は間違いありません」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。
教師としての先生と、一人の人間としての先生が葛藤しているのだろう。
「僕が教師ですから。そして、藤原さんは生徒ですから。周りに知られてはいけないこと分かっています。ですが、兄は微妙です」
そう言いながら左手を伸ばしてきて、私の右手を握った。
「あと、手を繋ぐのは許せません。上書きをします」
指の形をなぞるかのように私の手を触る先生は、唇を尖らせながら口を継ぐ。
「しかし、伊東先生に神崎くん…。本当、僕と藤原さんを困らせる天才ですね」
先生は少しずつ繋いでいる手に力を加えた。
温かくて力強いその手に安心感を覚える。
「…先生、1つ言っておきますが。私、ちゃんと神崎くんのこと突き放しました。それでもついてきただけですから。手も勝手に握られて、離してくれなかったのです」
「……勿論、そこは疑っておりません」
先生は道路沿いにある海浜公園に入って行く。
そして、奥の方の誰もいない駐車場に車を停車させた。
「藤原さん、少し歩きませんか」
「…はい」
平日の夕方。
浜辺には犬の散歩やランニングをしている人がちらほらといるだけで、夕日が輝く海は静まり返っていた。
早川先生はそっと手を繋いでくれる。
「そう言えば、またコンタクト入れたのですか?」
「はい。何かあった時、コンタクトがあれば便利だと思い常に持ち歩いていたのです。…今日役に立ちました」
顔を見上げて早川先生の顔をじっと見る。
やっぱり、眼鏡が無くて前髪も崩していると少し幼く見える。
「どうしましたか?」
「いえ…やっぱり、違う人のようになるので…」
「神崎くんにもバレていませんかね」
「多分、大丈夫だと思います」
先生から歩こうと提案してきたのに、これと言って何か話があるわけでもないようだ。
静かな時間が流れる。
「…先生、聞きたいことがあったんです」
「何でしょうか?」
小さく唾を飲み込む。
先生は優しそうな瞳でこちらを見ていた。
「先生は、私のことが心配ですか?」
「…ん? と言いますと?」
「いや…深い意味は無いのですが、神崎くんのライブの件にしろ、何だか束縛に似た…そんな雰囲気を感じまして」
「………」
そう言うと、早川先生は立ち止まって考え込んでしまった。
「…あ、いや…。それが悪いとかじゃないんですけど。えっと…」
「そこ、座りましょうか」
「…あ、はい…」
早川先生はベンチを指さした。
「先、座っておいてください。飲み物、買ってきます」
しばらくして信号で止まると、早川先生は大きく息を吐いて頭を掻いた。
「先生…どうして」
「演技、上手くいっていましたか?」
先生はいつもの笑顔は浮かべず、真顔のままそう問う。
目には少し怒りの感情が混じっているようだ。
「上手かったです。…それより先生、何であんなところに…」
「泣いている彼女を放って帰せません。ただ、あの場で追いかけることもできなかったので、急いで裏口から車であの場所に向かいました。神崎くんがいたのは想定外でしたが」
先生は走りながら黒いマフラーを解く。私は先生からそのマフラーを受け取った。
初デートした時に借りたマフラー…。
先生の香りがして落ち着く。気付かれないようにそっと胸に抱いた。
「藤原さん。伊東先生の件、代わりに僕から謝ります。申し訳ございませんでした。実は何度もあれに遭遇しています。初手で釘を刺しておくべきでした。そうしたら藤原さんが傷付かなくて済んだのに…」
「早川先生のせいではありません。大丈夫です。私はもう…伊東先生とは関わりたくありませんが…」
「心配しないで下さい。僕が伊東先生と藤原さんを二度と関わらせません」
先生は駅を通り過ぎて、隣の市の方向へと車を走らせる。
「ところで先生…どこへ…」
「家まで送ります」
「え、でも。先生…あの短い時間では片付けとか何も出来ていないでしょう」
「僕は大丈夫です。学年末のテストも作成しないといけませんし、また学校に戻ります」
「え、それ全然大丈夫じゃない!」
「大丈夫です。さっきも言いましたが、泣いている彼女を放って帰らせる方が大丈夫じゃないです」
信号で停まり、早川先生は横目で私の方を見る。悲しそうな、辛そうな…何とも言えない表情をしている。
「…ところで、藤原さん。僕を彼氏と言わなかった理由は何ですか? あと、何故手を繋いでいたのでしょうか?」
絞り出すような声でそう問う早川先生。
表情は変わらないままだ。
「……え?」
「先程の神崎くんの件です」
「…あぁ、兄というやつですか。…すみません、その方が…変に勘繰られずに済むと思いまして。手については…無理矢理ですかね」
あの場で彼氏と言うと良くないよ。疑い掛けられても困るし…。
早川先生は小さく溜息をついて、目を細める。
「まぁ、そうですよね。どんなに変装しても、僕はここの数学教師。下手に生徒に知られるリスクは負わない方が良いです。藤原さんの選択は間違いありません」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言った。
教師としての先生と、一人の人間としての先生が葛藤しているのだろう。
「僕が教師ですから。そして、藤原さんは生徒ですから。周りに知られてはいけないこと分かっています。ですが、兄は微妙です」
そう言いながら左手を伸ばしてきて、私の右手を握った。
「あと、手を繋ぐのは許せません。上書きをします」
指の形をなぞるかのように私の手を触る先生は、唇を尖らせながら口を継ぐ。
「しかし、伊東先生に神崎くん…。本当、僕と藤原さんを困らせる天才ですね」
先生は少しずつ繋いでいる手に力を加えた。
温かくて力強いその手に安心感を覚える。
「…先生、1つ言っておきますが。私、ちゃんと神崎くんのこと突き放しました。それでもついてきただけですから。手も勝手に握られて、離してくれなかったのです」
「……勿論、そこは疑っておりません」
先生は道路沿いにある海浜公園に入って行く。
そして、奥の方の誰もいない駐車場に車を停車させた。
「藤原さん、少し歩きませんか」
「…はい」
平日の夕方。
浜辺には犬の散歩やランニングをしている人がちらほらといるだけで、夕日が輝く海は静まり返っていた。
早川先生はそっと手を繋いでくれる。
「そう言えば、またコンタクト入れたのですか?」
「はい。何かあった時、コンタクトがあれば便利だと思い常に持ち歩いていたのです。…今日役に立ちました」
顔を見上げて早川先生の顔をじっと見る。
やっぱり、眼鏡が無くて前髪も崩していると少し幼く見える。
「どうしましたか?」
「いえ…やっぱり、違う人のようになるので…」
「神崎くんにもバレていませんかね」
「多分、大丈夫だと思います」
先生から歩こうと提案してきたのに、これと言って何か話があるわけでもないようだ。
静かな時間が流れる。
「…先生、聞きたいことがあったんです」
「何でしょうか?」
小さく唾を飲み込む。
先生は優しそうな瞳でこちらを見ていた。
「先生は、私のことが心配ですか?」
「…ん? と言いますと?」
「いや…深い意味は無いのですが、神崎くんのライブの件にしろ、何だか束縛に似た…そんな雰囲気を感じまして」
「………」
そう言うと、早川先生は立ち止まって考え込んでしまった。
「…あ、いや…。それが悪いとかじゃないんですけど。えっと…」
「そこ、座りましょうか」
「…あ、はい…」
早川先生はベンチを指さした。
「先、座っておいてください。飲み物、買ってきます」