青春は、数学に染まる。
許されない行為
あの日から2週間が経った。
早川先生が数学科準備室を区切ってから伊東と会うことも無くなり、平和な日々を過ごしていた。
数学補習同好会の活動は今も継続している。
最近は学年末テストに向けて、早川先生は一生懸命に数学を教えてくれていた。
「来週は考査期間ですね。1年間の総まとめです」
「嫌ですね…」
早川先生の手には『鳥でも分かる!高校数学』がある。
付箋だらけで本来より厚みが増しており、本自体もかなりボロボロになっていた。
「きっと大丈夫です。これまで積み重ねてきた補習がありますから。29点はいけると思いますよ」
「結局赤点じゃないですか!!」
ふふふ、と早川先生は笑う。
「だから、藤原さんが赤点回避しようなど100年早いです」
「失礼過ぎませんか!?」
「本当のことですから」
そう言いながら笑顔を向けてくれた。
教師と生徒として、彼氏と彼女として。早川先生とは良い関係が築けている。
「では、気を付けて帰ってくださいね」
「はい。ありがとうございました」
部屋を出る時に先生は抱き締めてくれた。
大きな胸に包まれ安心感を覚える。
「先生、帰りたくないです」
「僕だって帰したくありません。けれど、毎日遅くまで残すわけにもいきませんからね」
そう言いながら軽くキスをした。
数学科準備室を出て、昇降口へ向かう。
今日も頑張ったし、ジュースでも買って帰ろうかな〜なんて考えていると、靴箱の前に人が座っていた。
見慣れたその後ろ姿……有紗だ。
「え、有紗?」
小走りで駆け寄ると、有紗は顔をこちらへ向けた。
その顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「え、え…どうしたの」
「…真帆…真帆〜!!」
より一層泣き崩れた有紗。
この時間、空手部は部活中なはず。それなのに制服姿の有紗がここで泣いているとなると…ただ事では無い気がする。
「有紗。どうしたの、大丈夫? 何があったか、話せる?」
有紗は首を振りながら泣き続けていた。
…どうしよう。
このままここに居ても色々な人が通るし…。
「有紗、取り敢えず中庭行く? そこなら誰もいないから落ち着けるんじゃないかな」
有紗は小さく頷いて立ち上がった。
「良かった、行こう」
私は有紗の鞄を持って、中庭の方へ誘導した。
中庭のいつものベンチ。放課後に来るのは初めてだ。
泣き止まない有紗はベンチに座って思い切り脱力した。
「ごめんね…真帆。真帆が来てくれて良かった」
「謝らないでよ! 本当にどうしたの? 話せる?」
有紗は涙を流しながら頷いた。少し震えている。
「青見先輩に呼ばれて、部活前に空手部の倉庫に行ったの。そしたらそこに、伊東先生が居て…。襲われたの。性的な意味で」
「はぁ!? 伊東!?」
青見先輩は有紗と付き合っているのに伊東に襲われた?
どういうこと?
「会話を聞くに…恐らく、青見先輩が私を伊東先生に売ったのだと思う。私、青見先輩ともそんなことしたこと無いのに…よりによって伊東先生が…!」
ポロポロと大粒の涙が零れる。
「私だって空手家だから。力には自信あったんだけど…伊東先生の力には敵わなかった…」
震えながら嗚咽を漏らす有紗を見ながら、私は肩を抱くことしか出来なかった。
青見先輩が有紗を伊東に売った。
理由は分からないけど、こうすることで青見先輩は伊東から “何らかの恩恵” を受けているはず。
最低…本当、どこまでも最低な人間だな…伊東…。
許せない。有紗まで傷つけるなんて…本当に許せないよ。
衝動的に伊東の元へ文句を言いに行きたい気分。だけど、私的にも伊東とは二度と会いたくないし、早川先生も会わずに済むよう工夫してくれている。
ここは…勝手なことをせずに早川先生に相談するのが良いかも。
「ねぇ、有紗。早川先生に話してもいい? 知られたくなければ当然言わないけど、どうかな」
有紗は小さく頷く。
「早川先生なら、大丈夫…」
「分かった。ありがとう。ちょっと、電話してみるね」
私はスマホを取り出して早川先生の番号に初めて電話をかけてみる。
数学科準備室に行っても良いけど、隣に伊東が居ると困るし…ここは呼び出す方が最適だ。
『もしもし? どうされましたか』
「先生。ごめんなさい突然。あの、緊急事態です。今は中庭にいるんですけど、数学科準備室以外の場所で今から会えませんか?」
早川先生は少し考えた後、わかりました。と声を上げた。
『空き教室棟まで、来られますか?』
「はい、行けます。ありがとうございます、先生」
そう言って電話を切った。
「有紗、お待たせ。空き教室棟まで移動しないといけないのだけど、大丈夫かな」
「大丈夫…。ごめんね」
「謝らないで。有紗に話せていなかったけど、私も伊東には嫌な思いさせられているの。許せない。本当に、許せない…」
私は自分と有紗の鞄を持って立ち上がる。
辛そうな有紗の体を支えながら、人と遭遇しないルートで空き教室棟を目指した。
「真帆、ありがとう。今だから言えるけど。私ね、電車に飛び込もうかなって思っていた」
「えっ………」
衝撃的な有紗の一言に、言葉が出なかった。
けれどそうだよね。彼氏に売られ、伊東に襲われ…話を聞くだけでも壮絶だ。
そう思うほどの苦しみを有紗が感じたと思うと、涙が出そうになる。
「けど、大丈夫。真帆と会えたから…飛び込みはしないよ。冷静に考えると、やっぱ怖いし」
そう言ってぎこちなく笑った。
「有紗、大丈夫。私が支えるから」
「ありがとう。本当に真帆は私の救世主だよ。真帆が彼氏になって欲しいくらい」
「ふふ、私じゃ彼氏は務まらないよ」
そんな会話をしていると、いつもの空き教室に辿り着いた。
鍵がかかっていないことを確認して扉を開ける。