青春は、数学に染まる。
少し歩いた先の有料駐車場に先生の車は停めてあった。
有紗が後部座席に座り、私は助手席に座る。
先生は運転席に座ると大きな溜息をついた。
「先生…」
「僕は、耐えた方だと思いませんか?」
「思います。とても思います。先生、頑張りました」
「ごめんね、先生…」
顔を伏せている先生の後頭部を軽く撫でる。
先生のサラサラな髪の毛。そう言えば、初めて触れたかも。
「いや、あの場を乗り切るための最適な方法でした。…僕も、彼氏だと言えたら良かったのですけど。すみません、言えませんでした…」
「そりゃそうだよ…」
「私が最初に“兄”って言ってしまったから…」
「いや、良いのです。神崎くんの前では兄でも…別に…構いません」
その言葉を最後に、早川先生は黙り込んだ。
移動中のおよそ40分。
私と有紗が2人で会話をするばかりで、先生が口を開くことは無かった。
先生は先に有紗の家に向かった。
有紗の家は私の家から車で1分の距離。ご近所さんだ。
「先生、ごめんなさい。遠いのに送って貰って…」
「真帆さんをお送りするので同じことです。的場さんは次いでなので問題ありません」
「オマケってこと!? そのセリフ複雑!!!」
先生は自分も近くに住んでいることを有紗には言わないみたい。
何だかそれが本当の秘密という感じがして嬉しかった。
「じゃあ、真帆も先生もありがとう」
「今日本当にありがとうね、有紗」
「良いのよ! また連絡するね」
「うん。またね」
「さようなら、的場さん」
有紗を降ろして、車を走らせた。
「…はぁ」
先生は左手で私の頭をわしゃわしゃと撫でる。
髪の毛がぐしゃぐしゃになった。
「先生…」
「真帆さん。モテモテですね」
「…先生の意地悪」
「本当のことじゃないですか…」
先生は私から手を離してハンドルを握り、車を発進させる。
「前も言いましたけど、ライバルが多いので心配なのですよ。…そして真帆さん優しいから、誰でも受け入れてしまいそうです」
「…そんなことありません。私が好きなのは、裕哉さんだけですから」
私の家の前まで来たが、先生は通り過ぎて近くの公園に車を停めた。
「少し、2人でいましょう」
そして私の方を向いて、優しく唇を重ねる。
「…真帆さん。早く卒業して下さい」
「あと2年あるんですけど…」
「そうですね」
おでこをコツっと優しくぶつける。
先生の瞳は不安そうに揺れていた。
「神崎くん、学校での僕に対して…当たりが強くなりそうな気がします」
「ごめんなさい…」
「真帆さんが謝ることではありません。まぁ良いのです。僕も神崎くんに対して冷たくしてしまいそうなので、お互い様ですからね」
完全に公私混同。
子供みたいな先生の表情に笑いが零れた。
「しかし…次、僕が真帆さんの担任になったらどうしましょう…」
「その可能性があるのですか?」
「勿論…ゼロではありません」
「ふふ、そうなって欲しいような…嫌なような…」
「え? 嫌ですか?」
「クラスのみんなの前で、ニヤけが止まらなくなるかもです」
「…確かに。ホームルームでの点呼で、声が裏返るかもしれません」
「緊張で、ということですか?」
「そうです。毎日ドキドキしてしまいます」
お互い見つめ合って微笑んだ。
早川先生と出会って、もうすぐ1年が経つ。
学校の先生と付き合うことになるなんて思ってもいなかった。
「先生、大好きです」
「真帆さんよりも、僕の方がもっと大好きです」
「えぇ、何それ」
どちらかともなく抱き締め合う。
大嫌いな数学の補習から始まった恋。
色々あった1年だったけど、楽しくて充実した毎日だった。
「真帆さん。僕、やっぱり今でも思います。僕よりも神崎くんのような同級生の方が…堂々と過ごせるし、コソコソと隠れたりすることも無いので、その方が良いではないか…そう思うのです。ですが、そうと分かっていても…僕は真帆さんを手放したくないです。……こうして僕とお付き合いすることによって、真帆さんには沢山の不安を与えてしまうかもしれません。それでも、僕と一緒に居てくれますか?」
先生の目は本気だったが、思わず笑ってしまった。
自分の今までの行動を思い返してから言ってほしいね。
「何を今更。当たり前です。私は、“同級生だから” とか “先生だから” とか無いと思いますよ。出会ったタイミングで “裕哉さんが先生” 、 “私が生徒” だった。…それだけじゃないですか」
「その考え、大人ですね…」
「ふふ、最初こそ “早川先生” には全く興味が無かったのに、今ではそういう思考になるほど私も裕哉さんにぞっこんということですよ」
そう言って、そっと唇を重ねた。
「…最初は、伊東先生でしたものね」
「えぇ! まだ言います!?」
「ふふふ」
先生のお陰で、もう数学の補習は嫌ではない。
『大嫌い』から『嫌い』くらいになったかな。
2年生になったら、赤点回避したいな…。
最近凄くそう思う。
赤点を回避して、先生に喜んでもらいたい。
「…ねぇ先生。私、2年生になったら赤点を取らないように頑張ります」
「突然どうしました?」
「先生の隣に居ても恥じない人になります」
「ふふ、もう充分ですけど。ですが真帆さんが数学出来るようになれば僕も嬉しいので、新年度も一緒に頑張りましょうね」
気付けば外は真っ暗になり、小さな街灯だけが私たちを照らしている。
私と先生はいつまでも抱き締めあっていた。
青春は、数学に染まる。 終