隣国の王族公爵と政略結婚したのですが、子持ちとは聞いてません!?
3、「ひめは やさしい」「ありがとう」
雨が降っている。昨日も、今日も。
レイラはあれから何度もあの子供と会っていた。
夫であるイーステンには、会えないまま。
「アート。あなたの名前はアートと仰るのね。左利きですの? でも、食事の仕方を見ていると右利きのようですわよね」
いかにも書き慣れない、といった手付きで、左手に握ったペンを懸命に動かして文字を書く子供は、微笑ましい。
おずおずと自分を見て、控えめに微笑む様子は、とても可愛い。
「かくしご では ありません ……まあ、そうですの。隠し子ではありません、と教えてくれているのね。隠し子って言葉を知っているのが、まず驚きですわ。次は……あいじんは、いません? こんな言葉、誰が教えたのです? こんな小さな子に……」
レイラは隣に座った『アート』を優しく撫でた。
黒髪はしっとり、さらさらしていて、触り心地が良い。
なでなでと優しく撫でていると、アートはふわふわと頬を薔薇色に染めて視線を紙に落としている。
――誰かに優しくされることに、慣れていないのかもしれない。
そう感じたレイラは胸が締め付けられるような思いがして、アートをぎゅっと抱きしめた。
「……!!」
アートはとても驚いた様子で、オロオロしている。どう反応したらよいのかわからない、という気配だ。
「どのような身の上なのか、これまでどんなに辛い思いをしてきたのか知りませんが、これからはわたくしがついていますわ。わたくしはアートの味方ですから、安心してくださいな。こんな可愛い子、誰にも傷つけさせはしませんとも」
レイラの腕の中にいるアートは、小さく、いたいけで、弱々しくて、可愛い。
身を縮こませるようにしていて困惑しているような、恥ずかしがっているような気配は、大人に撫でられたり抱きしめられた経験がないみたいな初々しさがある。
「わたくし、あなたを全力で甘やかして、幸せにしてあげますわ。……文字のお勉強もとっても大切ですけど、休憩も大事ですわね。紅茶とスコーンをいただきましょう」
レイラが体を放すと、アートは真っ赤になってコクコクと頷いた。
メイドが二人分のティーカップに紅茶を注いでくれる。かぐわしい紅茶の香りがほわりと鼻をくすぐる。
二人をフワフワと暖かに包んでくれる紅茶の香りは柔らかで、上品で、気持ちを落ち着かせてくれる。
明るい焼き色のスコーンはサクサクで、真っ白のクリームを乗せていただくと、口の中で蕩けるような美味しさを広げてくれる。
レイラが甘味に目を細めながらアートを見れば、アートも美味しそうな顔でスコーンを頬張っていた。
――食事の様子を見ると、やはり利き手は右なのでは?
と、レイラが視線を注いでいると、アートはハッと視線の意味に気づいたように左利きのフリを始めた。
――何故? そんなこと、しなくてもいいのに。
疑問に思いつつ、レイラはハンカチをアートの口元に寄せ、優しく口の端を拭ってあげた。
「アート、頬にクリームがついていますわ」
「……」
アートは林檎のように赤くなり、ペコリと頭を下げて感謝の気持ちを表した。
そして、食事が済むと紙に左手で一生懸命に歪んだ文字を書き「ひめは やさしい」「ありがとう」と書いたのだった。
――イーステンったら、こんなに可愛い子を放置するなんて。
ずっと不在らしきイーステンのことを思い、レイラは心を痛めた。
――わたくしのことも、放置して。
しとしとと降る外の雨を見て思い出すのは、初夜のことだった。
あの日も雨が降っていた。
あの夜、初めての行為に思いを巡らせ、緊張しながら夫を待っていたレイラのもとに、やがて「急に用事ができて、行けなくなった」という手紙が届けられたのだ。
そして、手紙を読んだレイラは、安心したような残念なような気分になったのだった。
――わたくし、まだあなたのことをよく知りませんのに。あなただって、わたくしのことをあまりご存じないでしょうに。しょせん、形ばかりの婚姻なのですね。
珍しいことではない。
貴族階級が家同士のつながりを求めて親同士が取り決めて子供同士を結婚させるのはよくあることだし、王族ともなれば国同士の外交のカードとして最大限の効果を発揮するのが、婚姻なのだ。
良待遇をしてくれるのは、当然だ。下手な扱いをしてレイラが不満を持てば、外交問題にも発展しかねないのだから。
『子供も、兄が作ってから時期を慎重に慎重に選んで、間違っても野心を抱いた輩に目をつけられないようにしてあげたい気持ちがありましてね』
……イーステンの言葉が脳裏に蘇る。
――以前お話したときの口ぶりでは、「しばらくは作らないけれど、いずれは子供も作る」というお気持ちがあるようでしたけれど。
――がつがつと距離を詰めてこないだけで、それなりに好意はあって、良い夫婦になろうとしてくださると思っていましたけれど。
レイラはそっと溜息をついた。
* * *
そんな日がしばらく続いた後、突然イーステンは姿を見せた。
それも、イーステンの側から、レイラの部屋の訪ねてきたのである。
「あ、あら。久しぶりですわね」
「レイラ姫。今日はいい天気ですね。少し外の薔薇園を散策しながらお話しませんか」
イーステンはそう言って、何やら初々しい気配をのぼらせながら手を差し出すのだ。
表情は――、
「何かありましたの?」
思わずレイラが驚いて問いかけてしまうほど、緊張感に溢れている。つられてレイラまで落ち着かない気分になってしまったほど、熱のこもった眼差しである。
まるで、初めて異性をエスコートする少年のよう。
レイラは久しぶりに会う夫にどんな表情をすればよいのか戸惑いながら、その手を取った。手は大きくて、指先が冷えている。
この手が華麗に剣を扱ったのを、レイラは覚えている。あっという間に負かされた瞬間、レイラは「技量が違いすぎる」と思ったのだった。
悔しいと思う気持ちが湧かないくらい、圧倒的な差があった。レイラはその時、彼の剣の腕に憧れを抱いたのを思い出した。格好良い、と思ったのだ。
「雨が続いていたので傷んでいないか心配していましたが、綺麗ですわね」
「庭師が日々愛情たっぷりに管理していますからね」
イーステンは誇るような声で言った。
――こうして接していると優しい人に思えるのだけど。何故、アートのことを隠したり、アートに教育を受けさせずに放置したりしているのかしら。
レイラは疑問に思いつつ、薔薇を鑑賞した。
薔薇は満開で、花弁にしっとりと水滴をつけている。日差しにその水滴が煌めいていて、周囲はきらきらとしていた。
美しい。
花の香りに包まれながら、レイラが景観に見惚れていると、イーステンは真剣な声を響かせた。
「レイラ姫。しばらくお会いできなくて、すみませんでした」
イーステンが申し訳なさそうに言う声には、本気の温度感が感じられた。
「ご多忙でしたのね?」
「ええ。あなたと文字を学ぶのに忙しくて」
「……」
「……? 今、なんて?」
レイラはイーステンを見上げた。
よく晴れた青空を背負うようにしてレイラを見つめ返す夫は、「ティータイムも共にしましたね」と言った。
雨が降っている。昨日も、今日も。
レイラはあれから何度もあの子供と会っていた。
夫であるイーステンには、会えないまま。
「アート。あなたの名前はアートと仰るのね。左利きですの? でも、食事の仕方を見ていると右利きのようですわよね」
いかにも書き慣れない、といった手付きで、左手に握ったペンを懸命に動かして文字を書く子供は、微笑ましい。
おずおずと自分を見て、控えめに微笑む様子は、とても可愛い。
「かくしご では ありません ……まあ、そうですの。隠し子ではありません、と教えてくれているのね。隠し子って言葉を知っているのが、まず驚きですわ。次は……あいじんは、いません? こんな言葉、誰が教えたのです? こんな小さな子に……」
レイラは隣に座った『アート』を優しく撫でた。
黒髪はしっとり、さらさらしていて、触り心地が良い。
なでなでと優しく撫でていると、アートはふわふわと頬を薔薇色に染めて視線を紙に落としている。
――誰かに優しくされることに、慣れていないのかもしれない。
そう感じたレイラは胸が締め付けられるような思いがして、アートをぎゅっと抱きしめた。
「……!!」
アートはとても驚いた様子で、オロオロしている。どう反応したらよいのかわからない、という気配だ。
「どのような身の上なのか、これまでどんなに辛い思いをしてきたのか知りませんが、これからはわたくしがついていますわ。わたくしはアートの味方ですから、安心してくださいな。こんな可愛い子、誰にも傷つけさせはしませんとも」
レイラの腕の中にいるアートは、小さく、いたいけで、弱々しくて、可愛い。
身を縮こませるようにしていて困惑しているような、恥ずかしがっているような気配は、大人に撫でられたり抱きしめられた経験がないみたいな初々しさがある。
「わたくし、あなたを全力で甘やかして、幸せにしてあげますわ。……文字のお勉強もとっても大切ですけど、休憩も大事ですわね。紅茶とスコーンをいただきましょう」
レイラが体を放すと、アートは真っ赤になってコクコクと頷いた。
メイドが二人分のティーカップに紅茶を注いでくれる。かぐわしい紅茶の香りがほわりと鼻をくすぐる。
二人をフワフワと暖かに包んでくれる紅茶の香りは柔らかで、上品で、気持ちを落ち着かせてくれる。
明るい焼き色のスコーンはサクサクで、真っ白のクリームを乗せていただくと、口の中で蕩けるような美味しさを広げてくれる。
レイラが甘味に目を細めながらアートを見れば、アートも美味しそうな顔でスコーンを頬張っていた。
――食事の様子を見ると、やはり利き手は右なのでは?
と、レイラが視線を注いでいると、アートはハッと視線の意味に気づいたように左利きのフリを始めた。
――何故? そんなこと、しなくてもいいのに。
疑問に思いつつ、レイラはハンカチをアートの口元に寄せ、優しく口の端を拭ってあげた。
「アート、頬にクリームがついていますわ」
「……」
アートは林檎のように赤くなり、ペコリと頭を下げて感謝の気持ちを表した。
そして、食事が済むと紙に左手で一生懸命に歪んだ文字を書き「ひめは やさしい」「ありがとう」と書いたのだった。
――イーステンったら、こんなに可愛い子を放置するなんて。
ずっと不在らしきイーステンのことを思い、レイラは心を痛めた。
――わたくしのことも、放置して。
しとしとと降る外の雨を見て思い出すのは、初夜のことだった。
あの日も雨が降っていた。
あの夜、初めての行為に思いを巡らせ、緊張しながら夫を待っていたレイラのもとに、やがて「急に用事ができて、行けなくなった」という手紙が届けられたのだ。
そして、手紙を読んだレイラは、安心したような残念なような気分になったのだった。
――わたくし、まだあなたのことをよく知りませんのに。あなただって、わたくしのことをあまりご存じないでしょうに。しょせん、形ばかりの婚姻なのですね。
珍しいことではない。
貴族階級が家同士のつながりを求めて親同士が取り決めて子供同士を結婚させるのはよくあることだし、王族ともなれば国同士の外交のカードとして最大限の効果を発揮するのが、婚姻なのだ。
良待遇をしてくれるのは、当然だ。下手な扱いをしてレイラが不満を持てば、外交問題にも発展しかねないのだから。
『子供も、兄が作ってから時期を慎重に慎重に選んで、間違っても野心を抱いた輩に目をつけられないようにしてあげたい気持ちがありましてね』
……イーステンの言葉が脳裏に蘇る。
――以前お話したときの口ぶりでは、「しばらくは作らないけれど、いずれは子供も作る」というお気持ちがあるようでしたけれど。
――がつがつと距離を詰めてこないだけで、それなりに好意はあって、良い夫婦になろうとしてくださると思っていましたけれど。
レイラはそっと溜息をついた。
* * *
そんな日がしばらく続いた後、突然イーステンは姿を見せた。
それも、イーステンの側から、レイラの部屋の訪ねてきたのである。
「あ、あら。久しぶりですわね」
「レイラ姫。今日はいい天気ですね。少し外の薔薇園を散策しながらお話しませんか」
イーステンはそう言って、何やら初々しい気配をのぼらせながら手を差し出すのだ。
表情は――、
「何かありましたの?」
思わずレイラが驚いて問いかけてしまうほど、緊張感に溢れている。つられてレイラまで落ち着かない気分になってしまったほど、熱のこもった眼差しである。
まるで、初めて異性をエスコートする少年のよう。
レイラは久しぶりに会う夫にどんな表情をすればよいのか戸惑いながら、その手を取った。手は大きくて、指先が冷えている。
この手が華麗に剣を扱ったのを、レイラは覚えている。あっという間に負かされた瞬間、レイラは「技量が違いすぎる」と思ったのだった。
悔しいと思う気持ちが湧かないくらい、圧倒的な差があった。レイラはその時、彼の剣の腕に憧れを抱いたのを思い出した。格好良い、と思ったのだ。
「雨が続いていたので傷んでいないか心配していましたが、綺麗ですわね」
「庭師が日々愛情たっぷりに管理していますからね」
イーステンは誇るような声で言った。
――こうして接していると優しい人に思えるのだけど。何故、アートのことを隠したり、アートに教育を受けさせずに放置したりしているのかしら。
レイラは疑問に思いつつ、薔薇を鑑賞した。
薔薇は満開で、花弁にしっとりと水滴をつけている。日差しにその水滴が煌めいていて、周囲はきらきらとしていた。
美しい。
花の香りに包まれながら、レイラが景観に見惚れていると、イーステンは真剣な声を響かせた。
「レイラ姫。しばらくお会いできなくて、すみませんでした」
イーステンが申し訳なさそうに言う声には、本気の温度感が感じられた。
「ご多忙でしたのね?」
「ええ。あなたと文字を学ぶのに忙しくて」
「……」
「……? 今、なんて?」
レイラはイーステンを見上げた。
よく晴れた青空を背負うようにしてレイラを見つめ返す夫は、「ティータイムも共にしましたね」と言った。