目と目を合わせてからはじめましょう
 最後のお客様が帰り、片付けをする頃には、クタクタになっていた。全く、次の日の仕事の事も考えてほしい。それに比べて雨宮は、いつも通り、いやいつもより爽やかなくらいで、颯爽と仕事に向かって行った。あれは、猛獣かもしれない。


 「咲夜ちゃん、お疲れ様」

 「先輩。お疲れ様です」

 「咲夜ちゃん、ちょっといいかな?」

 「はい」

 私のお客様が、遅い時間の予約であったこともあり、他のスタッフはもう帰ってしまっていた。

 休憩室兼ミーティングルームに入り、二人分のコーヒーを淹れた。

 「急にごめんね。僕、今年の春で、店を辞めようと思う」

 「えっ?」

 まさか先輩が辞めるなんて考えもしなかった。正直ショックだ。

 「驚く事でもないよ。以前から考えていたんだ。自分の店を始めようと思う。もう、社長にも話は済んでいるんだ」

 けして、独立するのは珍しい事ではない。自分の店を持ちたいという気持ちもわかる。


 「そうだったんですね」

 「それでね、咲夜ちゃん、僕と一緒に店をやらないか?」

 池山先輩の目が、優しく私を見つめた。

 「一緒に? 引き抜きですか?」

 「まあ、そうでもあるけど、私生活も一緒にっていう意味だけどね」

 「えっ?」

 「勿論、咲夜ちゃんには大事な彼がいる事も承知だ。この前も怪我したと聞いたかけど、不安じゃないのかな? 俺と一緒に店をやる、穏やかな生活も想像してみてくれないか?」

 先輩との生活?

 「焦るつもりもない。一度ゆっくり考えててはもらえないだろうか?」

 「……」

 「返事は、またでいいから」

 先輩は、コーヒーを飲み干すと、席を立った。


 「待ってください」

 先輩が立ち止まる。

 「ごめんなさい。いくら時間をもらっても、先輩との生活を想像する事が出来ないと思います。だから、ごめんなさい」

 頭を下げるように下を向いた。


 「頭なんて下げないで。もう少し、夢を見させてもらいたかったのに、すぐに返事を返されるとはね。いいんだ分かっていたから」

 「先輩……」

 「だって、よく考えてみて。咲夜ちゃんは、美和社長の孫娘。僕が引き抜けるわけないしょ?」

 そう言って、先輩は優しく笑った。社長の孫娘なんて関係なく接してくれていた先輩だ。最後まで、私が傷つかないように言葉をくれたんだ。


 「こんな事を言うのは勝手だと分かっているけど、先輩にはたくさん助てもらいました。先輩がいなかったら、美容師を諦めていたかもしれません。一緒に仕事が出来なくなるなんて、考えてもいなかった」

 自分でも勝手だと思うけど、美容師としての先輩は私の憧れであり、信頼できる仲間でもあった。一緒に仕事が出来ないと思うと、目の周りが熱くなってくる。

 「ありがとう。また、咲夜ちゃんの髪、カットしていい?」

 「勿論です。ありがとうございます」

 私の髪は、いつも池山先輩がやってくれていた。でも、私の髪をカットすること無く、先輩は去ってしまった。
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