青春は、数学に染まる。 - Second -
放課後、今日から数学補習同好会が再開となるため、私は数学科準備室へと向かう。
久しぶりの補習、実は凄く楽しみだった。
「真帆、今日からまた補習だね!」
「うん。また一緒に帰れなくなるけど、テスト週間とか帰れるときは一緒に帰ろうね」
「勿論よ! じゃあね!!」
有紗は私にブンブンと手を振って教室から出て行く。
…元気になって、良かったなぁ。
有紗は空手の有段者。高校の空手部に所属していたが、1年の終わり頃に退部した。
その後、昔通っていた空手道場に入り活動をしている。
「えー? 先生って彼女とかいるのですか~?」
「はーい! 私、希望! 立候補するー!」
「抜け駆けはダメよ~!」
キャッキャッと騒ぐクラスの女子たち。
囲まれているのは、浅野先生。
「へへっ! 彼女はいないけど、生徒じゃダメかな!」
……。
思わず冷めた目で見てしまう。
校則違反のラクダ色カーディガンを羽織った人たち。
勉強はできない癖にクラスでは目立つ方のグループ集団。
とはいえ、数学に関してはその集団の方が上なんだけどね。私よりも。
それが少し複雑。
しかし、浅野先生もそんな態度ではダメでしょう。
勘違いした女子が増えそうな予感…。
「先生、どこ住んでいるの?」
「秘密だよ~」
…阿呆らしい。
盛り上がっている集団を横目に見ながら私は教室から出た。
数学科準備室までの道のりが懐かしく感じる。
段々と部屋が近付くにつれて、生徒の声が聞こえなくなっていくのが好きだ。
「…あ、藤原さん!」
「…ん?」
廊下の途中で呼ばれて振り返る。そこには、早川先生が立っていた。
「…先生!」
「ふふふ、こんにちは」
「こんにちは」
その場で立ち止まっていると、早川先生が隣に来てくれた。
先生は癖なのか、つい手を伸ばして来たがすぐに引っ込める。
「藤原さんに会うと、安心します」
「私も」
お互い微笑みながら数学科準備室へ向かう。
ドアのところには変わらず『数学補習同好会』の看板は掲げられていた。
部屋の中は早川先生が設置したパーティションがそのままついている。
「先生、これ外さなかったんですね」
「はい。次の人の様子を見てからどうするか考えようと思って残していました。まぁ…パーティション、継続確定ですけどね。浅野先生、かなり脅威です」
「…ふふ」
思わず笑ってしまった。早川先生はそんな私を見て唇を尖らせる。
「笑わないで下さい。僕は本気です」
「いや、すみません」
そこ座ってください、と言われソファに座る。
ソファの前の机の上にはポップでカラフルな本『鳥でも分かる!高校数学②』が置いてあった。早川先生が私の補習用に用意してくれた本。
「今日、浅野先生はここに来ません。明日この場所を紹介するので、少しお話しましょう」
そう言って早川先生も隣に座った。久しぶりに感じる先生の香りに心臓がドキドキする。
「藤原さん。僕、ご年配の女性数学教師が来ることを祈っていたのですけど、全く真逆の人が来てしまいました。しかもまた僕より年下です」
“また” というのは前任の伊東のことを指している。
伊東も早川先生より年下だった。
早川先生は『私が惚れたら困るから』とか訳の分からないことを言いながら祈っていた。
別に、若い数学教師が好きなわけじゃないのに。
「その上、藤原さんの担任とまで来ました」
「そうですね」
「…僕の嫉妬心、どうやったら消えますか?」
「えぇ…知りませんよ…」
嫉妬をしている自覚はあるんだ。
腕を組んで悲しそうな顔をしている先生に、思わず手を伸ばしてしまう。
「早川先生は、まず私を信用するところからじゃないですか? 信用していないから不安なのですよ」
「…うーん」
そうですね…と先生は呟いた。そうなのかい!!!!
「いや、冗談です。信用していますよ。ただ、前科があるので」
あ、また言った。
伊東。
大嫌いだったけど。一時的にでも私が好きだった先生。
そして。最後の最後まで、私を悩ませた人。
早川先生は事あるごとに “前科” と言って、このことを切り出す。
「そんなに私のこと信用できないのでしたら、数学補習同好会辞めます」
「何故ですか」
「そのくらいの覚悟という意味です」
「…」
何も言えず下を向いた先生に、私は抱きついた。
「…藤原さん。ダメです」
「嫌です。先生が悪いのですから」
「………」
大体、私は浅野先生のことを何も知らないのに心外すぎる。
不安なのは分かるけど、私は良い気持ちはしない。
「少なくとも、私の中で浅野先生は低評価ですけど。さっきもクラスの女子に囲まれて鼻の下を伸ばしていましたよ。…有り得ません。気持ち悪い」
辛辣ですね、と控えめに先生は笑った。
「しかし…そうですか。もう生徒に囲まれているのですね。僕には、誰1人寄り付かないのに」
「誰も寄り付かなくて良いです」
シュンとしている早川先生に悪いけど、変な虫が付かないことは良い事だ。先生ったら、七三分けを崩して眼鏡を外すとカッコイイからなぁ…。私だって、そんな心配をしている。
「先生。何回も言わせないで下さいよ。私が好きなのは、先生だけです。…どうして付き合っているのに、先生はそんなに不安なのですか」
「…禁断の恋だからですかね。あと、僕ばかりが嫉妬して、藤原さんは平然としているからです」
悲しそうな先生の瞳に吸い込まれそうになる。
禁断の恋、か。…………いや、告白して来たのは貴方からですけどね。今更過ぎる。
それに、嫉妬?
先生と違って表に出さないだけで、私だって嫉妬でいっぱいだけど。
「それは私も同じです。けど、不安な感情ばかりを表に出しても、何もメリットは無いと思いませんか?…私は、“先生と生徒”で居られる間を満喫したいと思っているのですけど。先生とこういう関係になった以上、禁断の恋すら楽しむ所存ですよ。あと、…私だって、妬くこともあります」
早川先生は下唇を少し噛んで頷いて、抱きついている私に腕を回した。
「妬くのですか?」
「妬きますよ。睦月先生を始めとする女性の先生。テストの返却で先生の手に触れていた女子生徒、先生が担任をするクラスの生徒…」
「…すみません」
真顔で言葉をボロボロ零すと、先生は目を伏せて俯いた。
「……藤原さんは大人ですね」
「先生が子供すぎるのですよ」
「本当、すみません」
唇が触れる手前まで顔を近付けたが、重ねることなく離れた。
お互い微笑んで抱き締める腕に力を加える。
「触れたら、止まらなくなります」
「…そうですね」
先生は私の肩の上に頭を乗せて小さく溜息をついた。
伊東の一件があって以来、早川先生の自制心が良く働いている。
あんなに普通に触れてきていたのに。
しかも、付き合う前から。
「今日の活動、やめましょうか」
「え、それ先生の言うセリフですか?」
「今日はもう、やる気が出ません。明日からは真面目にやりますから…」
そう言ったのを最後に、早川先生は黙り込んだ。
そして私の肩に乗っている頭と、背中に回された腕から力が抜ける。
「…え、先生?」
「……」
珍しいこともあるものだ。
先生は、眠ってしまった。
「嘘でしょ…」
力の抜けた先生の体が私にのしかかる。
「お、重たい…」
先生を起こさないように自分の体を抜いて、座っていたソファに寝転がす。
少し手荒になってしまったが、起きる気配は無かった。
「………」
先生の前に座って、顔を覗き込む。
良く考えたら、伊東の一件の時から早川先生は大変だったと思う。
1人の数学教師を転任させ、そのフォローを行い、次は転任してきた数学教師に引き継ぎをする。高校生の私にはこのくらいしか想像できないけど、きっと私が想像する以上の負担があったと思う。
そして今日の始業式を迎え、浅野先生がこの学校に来た今。
“教師としての早川先生” の気持ちにひと段落が付いた、そんなところだろう。
よく見ると睫毛が長く、整った顔立ちをしている。
先生だって。七三分けを止めて前髪を切って、フレンドリーな雰囲気を出せば生徒に囲まれるんじゃないかな。
…その必要は無いと思うけど。
私は先生の頭を撫でて、軽く唇を重ねた。
「裕哉さん、こんなにも大好きなのに…。どうやったら伝わりますか」
触れても先生は起きる気配が無い。爆睡している先生、触り放題。
「…帰ろうかな」
ずっとここに居たいが活動をしない以上、長居は無用。誰か先生や生徒が来たら弁解できないし。
私は持って来ていたダッフルコートを先生の体に掛けて、付箋にメモを書いた。
『毎日お疲れ様です。今日は帰ります。また明日来ますね。 藤原』
「先生、お疲れ様です」
後ろ髪を引かれる思いをしながら、私は数学科準備室を後にした。