青春は、数学に染まる。 - Second -
夜の学校。
廊下も電気が付いておらず真っ暗だ。
「…うわっ!!」
静かな廊下にドーンっと大きな音が響く。
何もないところで転んでしまった。
膝を擦ってしまったようで、血が少し滲んでいた。
…またこのパターン。
「もう…いやだ…いやだ…」
痛みと苦しみと行き場のない思いが全部混ざって、場所を考えず大きな声で泣き喚いた。
もう限界だよ。
私は早川先生と有紗と…楽しく生活ができればそれで良いのに。
どうして浅野先生も神崎くんも、私のことを考えずに思いを伝えてくるのだろう。
「辛い…いやだ…」
廊下に座り込んで泣き続けていると、遠くから足音が聞こえてきた。
その足音はどんどんこっちに近付いてくる。
どこの教室か分からないけれど。
扉に背をくっつけて体育座りをして顔を隠す。
「……」
声を殺して泣き続けていると、足音は私の真横で止まった。
そして、優しく体を抱え上げられる。
「…真帆さん……。見つけました」
「え……早川先生…」
私をお姫様抱っこした早川先生は、どこかに向かって歩き始めた。
「先生…何で…」
「神崎くんと近藤さんが探していました。探し物を頼んだけど藤原さんが一向に戻ってこないと」
「…こんなに遅い時間なのに、何でまだいるのですか」
「文化祭前日は、教職員も総出で準備をしますので」
ひたすら歩き続け、先生はある部屋の前で止まった。
…数学科準備室だ。
先生は私をそっとソファに降ろし、備え付けられた電話機でどこかに電話を掛けた。
「…早川です。藤原さんを見つけました。怪我をしているようなので、手当をしてからそちらに戻って頂きます」
「…いえ、来なくて結構です。浅野先生は実行委員の生徒を監督しておいてください。あと、神崎くんと近藤さんにお伝えください。探し物は見つかってなさそうですよ、と」
そう言って電話を切った。
「……真帆さん。大丈夫ですか」
先生は私からの返答を聞かずに、力強く抱き締める。
浅野先生とは違う。
早川先生の包み込まれるような抱擁。
心の底から落ち着く感覚がする。
先生は少し力を緩め、そっと唇を重ねた。
「…浅野先生に、キスされそうになったのですね」
「え、何で知って…」
「本人から聞きました。キスしようとしたら逃げられてどこ行ったか分からないと。…馬鹿正直です」
そう言いながらもう一度唇を重ねた。
「僕という彼氏の存在を知っているのに。愚かです。多分、いつもと違う状況で…判断ができなくなっているのでしょう」
「………」
先生は私から離れて、教材が入っている棚から救急箱を取り出した。
「膝、痛いですか?」
「少し…。ていうか、ここに救急箱ありましたっけ?」
「真帆さんが何かと怪我をするので…。自前で用意しました」
「え、すみません…」
「僕の勝手ですから」
消毒液とガーゼを取り出す様子をボーっと眺める。
いつもの白衣ではなく、紺色の背広を羽織っている姿に胸がときめいた。
珍しく緩めに結ばれているネクタイ。
今日は開いているカッターシャツの第一ボタン。
少し崩れた、前髪。
「裕哉さん………エロい」
「はい?」
「色気が凄いです」
「……」
先生は無言で近寄ってきて、私の膝に消毒液を直接掛けた。
「痛い!!! え、直接!?」
「………浅野先生に抱き締められたこと、反省してください」
そう言って荒めにガーゼを貼り付けてくれた。
ずっと無表情だ。
「…裕哉さん、嫉妬ですか?」
「……いいえ。嫉妬を通り越して、浅野先生に怒りを覚えています」
救急箱を棚に戻し、私の肩を2回叩いた。
「…ほら、手当は終わりです。体育館に戻りますよ。夜も遅いですから。さっさと終わらせないといけません」
「……はい」
「僕も一緒に行きます」
差し伸べられた先生の手を握り、椅子から立ち上がる。
…待てよ。
先生も一緒に体育館に行くということは…。
津田さん…。
「先生、待って。前髪とネクタイ、いつも通りに直してください」
「え?」
「色気が凄いですから」
「………」
無言で鏡を覗き込み、前髪を手早く直す先生。
ネクタイも締め直して、目の前にはいつも通りの先生が現れる。
「それで宜しいです」
津田さんが変な気を起こしても嫌だし…。
前髪を崩しても良いのは、私の前だけ。
「……はぁ」
先生は小さく溜息をついた。
そして、強く私を抱き寄せる。
「色気ではないと思います。少しやつれていただけです。実行委員会が忙しくて遅くなるのは分かります。ですが、まさか一度も同好会に来ないとは思いませんでした。そんな状況で、今日はキスされそうになったと聞いて…とても正気ではいられません。怪我までさせられて…何ですか本当に…」
「怪我は自分で転んだだけです」
「原因が彼なことには変わりありません。浅野先生を庇おうと言うのですか?」
「何でそうなるのですか。違いますよ…」
ぎゅっと腕に力を入れて、先生は私から離れた。
「行きましょう」
数学科準備室を出て、ゆっくり歩き始める。
私は先生の一歩後ろを歩いて、背広の裾をちょっとだけ掴んだ。