青春は、数学に染まる。 - Second -
最終話 ここで出会えたこと
現実
(side 早川)
「早川先生、ここ桜川高校での5年間の勤務、本当にお疲れだったね。君に4月1日付けで異動辞令が出たよ」
「……………え?」
ある日の放課後。
職員会議が終わって数学科準備室に戻ろうとした時に、校長先生から呼び出しを受けた。
そして…今に至る。
「次は桜川工業高校だって。良かったね、桜川市内での異動で。引っ越さないといけないくらい遠い場所だと大変だし。良い異動じゃない」
「…………」
嘘だろう。
というか、嘘と言って欲しい。
藤原さんの卒業を当たり前に見届けられると思っていた自分がいる。
その反面、いつ異動が出てもおかしくないことを分かっていた自分もいる。
複雑な感情に脳が追い付かない。
「校長先生、せめて今受け持っている学年の卒業を見届けたいのですが…」
「分かる。その気持ちは痛いほど分かる…。けど、決めたのは教育委員会だから。申し訳ないけれど、わしは早川先生の異動に関して携わっていないんだ」
「………」
当たり前だと思っていた毎日が、来年度も続くと思っていた。
言葉にできない感情が胸の中で渦を巻いている。
「早川先生はご両親のことで本当に傷心されただろうし、大変だったと思う。けれど、それを学校で出さずにしっかりと先生をしてくれたことを評価しているんだ。それに、数学補習同好会の顧問としても活躍してくれただろう? この学校に多大な結果を残してくれたと思っている」
「そんな…恐れ多いです」
「伊東先生の件の時も、早川先生が伊東先生の分もフォローしてくれたから上手く行った。君がいなくなるのは本当に惜しいよ。けれど、新天地でもどうか頑張って欲しい。応援しているから」
「……ありがとうございます」
校長室を出て数学科準備室に向かう。
異動…。
異動………。
…………。
ショックだ。
桜川高校は僕にとって2校目だ。
前任校からここへの異動辞令が出た時、ここまでのショックは受けなかったのに。
この感情の大きさは僕の想像を何倍も上回り、僕の心を支配する。
数学科準備室には藤原さんと的場さんと浅野先生がいた。
数学補習同好会の活動中だ。
「早川先生、遅かったですね」
「あぁ…すみません」
変な汗が流れる。
自分が異動になることを、今ここで言ってしまいたい衝動に駆られるが、まだ誰にも話せない。
「…先生、大丈夫ですか?」
「え、何でしょう」
「挙動不審です」
「………気のせいです。そんなことありません」
さすが藤原さん、鋭い。
鋭いけれど、今は言えない。
当たり前だと思っていた数学補習同好会の活動。
そんな『当たり前の毎日』が終わるまで、あと1ヶ月も無いなんて。
現実は、残酷だ。
「…さて、藤原さん。今日はどこをお勉強していたのですか?」
「積分法です」
「良い選択ですね」
そう言いながら『鳥でも分かる!高校数学②』を開く。
藤原さんの為に用意をした本。
付箋に書き込みをし、更に勉強中にも沢山の書き込みをした。
ピカピカだったその本も、今はその面影が無いくらいボロボロになっている。
そして。
………実は。
既に『鳥でも分かる!高校数学③』を用意していた。
異動辞令が出ることを疑いもせず。
来年度も数学補習同好会で藤原さんに勉強を教えようと思って…。
「…………」
「え、え!?」
急に藤原さんが驚きながら椅子から飛び上がった。
「藤原さん、どうしましたか?」
「どうしましたか、じゃないですよ!! 先生こそどうしたのですか!?」
「僕は何も…」
そう言いながら気付いた。
無意識のうちに涙が零れていた。
…ダメだなぁ、本当に。
理性で感情を抑えることが出来ない。
「…すみません、これは汗です」
今日は暑いですね〜…なんて不自然な言葉を残しながら、僕は数学科準備室を飛び出した。
…とはいえ、向かう場所も無い。
どこに行こう…。
そんなこと考えていると、後ろから走ってくる音が聞こえてきた。
「早川先生!!」
僕を呼ぶその声は、姿を見ずとも誰か分かる。
…藤原さん。
愛おしい彼女は全速力で廊下を走って、僕の胸に飛び込んで来た。
「藤原さん、廊下は走らないで下さい」
「走っていません」
「その嘘は無理があります」
「だって、早川先生…早川先生…」
走って息切れをしている藤原さん。
息を整えようと深呼吸をしている。
「藤原さんに早川先生って呼ばれると違和感です」
「そんなことは良いから!」
藤原さんは僕の腕を引っ張って、キリッと睨んだ。
「転任……でしょ」
「え?」
「私に隠そうとしても無駄ですよ。先生のことは手に取るように分かりますから」
「………」
恐ろしい人だ。
感情が駄々洩れの僕も悪いが、ここまで気付くのも凄い。
「どうなのですか、違うのですか」
「…さて、どうでしょう?」
「早川先生」
「………」
……藤原さんには、敵わない。
力強いその目に完敗だ。
「…………空き教室棟に行って待っていて頂けますか。鍵を取りに行ってから向かいます」
「分かりました」
素直に空き教室棟に向かい始める藤原さん。
…本当に、彼女に隠し事はできない。