青春は、数学に染まる。 - Second -
日常
「真帆。早川先生が泣いていた件だけど、結局何があったの?」
「あれね、泣いていたんじゃなくて、本当に目から汗が流れたみたい」
「涙じゃなくて?」
「汗なんだって。多分人間じゃないんだよ」
「うーん?」
早川先生の転任を知った翌日の朝。
私はいつも通り、有紗と学校へ向かっていた。
何だか、昨日の話が嘘だったかのように感じる。
あんなに泣いたのに。
現実味が無い。
今日も立哨当番として昇降口に立っている早川先生。
この姿も、あと何回見られるのだろうか。
それとも今日が最後なのだろうか。
そんな思いに、抑え込んだ涙が込み上げてくる。
「先生、おはよー!」
「おはようございます。藤原さん、的場さん」
顔を隠すように有紗の影に隠れて校内に入る。
込み上げてきた涙で潤んでいるこの目は見せられない。
…いつも通り。
数学の授業も。
廊下ですれ違う時も。
放課後の数学補習同好会も。
いつも通り。
それから毎日、毎日。
あくまでも、いつも通り過ごした。
そう、いつも通り。
………。
だけど最近、分からなくなってきた。
………いつも通りって、なんだったっけ。
「あれ、藤原さん。貴女の得意な情報分野の数学ですよ。全問間違いではありませんか」
「……情報ならできるけれど、数学ではできません」
「そんな悲しいことを言わないで下さい」
有紗と浅野先生が帰った後の、ある日の数学補習同好会。
早川先生と2人で数学の問題に向き合っていた。
…しかし、集中できない。
何となく外の景色を見ていた。
「……………はぁ」
見かねた先生は、小さく溜息をついて本を閉じる。
「………藤原さん。少し、息抜きをしに行きましょう」
「…息抜き?」
「ほら、立って下さい。いちごミルクが待っています」
「え?」
背中を押されながら数学科準備室を出る。
先生は体育館の方に向かって歩き始めた。
白衣を着た早川先生の後ろ姿。
学校であと何回、見ることができるのだろうか。
そんなことを無意識のうちに考えるようになっていた。
「先生、いちごミルクがどこで待っているのですか」
「自動販売機です。冷やされて待っています」
ちょっと変わった返答に笑いが零れる。
なるほど、冷やされて待っているのね。
そういう考え方もあるのか…。
「…そう言えば先生って…味覚がおかしいのに、いちごミルクは好んで飲みますよね」
ピタッと歩くのを止め、私の方を向いた。
何やら不満そうな表情をしている。
「味覚がおかしいは余計な一言ですね」
「でも事実です」
無言でニヤッとして、先生はまた歩き始める。
体育館前の自動販売機に着き、先生は迷いなくいちごミルクを購入した。
「藤原さんも、お好きなのをどうぞ」
「…ありがとうございます」
そう言って、私もいちごミルクのボタンを押す。
2人共が紙パックにストローを挿すと、辺りはいちごミルクの良い香りが漂い始めた。
「藤原さん、覚えていますか」
「…あの時のことでしょう。もちろんです」
何が、とは言わずとも伝わる早川先生の今の思い。
高校に入学して初めてのテストで赤点を取った。
そこから補習が始まり…再試で合格したあの時のこと。
有紗が合格祝いでジュースを奢ってくれると言ってくれて、自動販売機に向かった。
そこには既に先客が居て、早川先生がいちごミルクを買っていたんだよね。
「……先生って、いちごミルク好きなのですか……ふふ」
「こう見えて、甘い物が大好きです」
「…知っています」
「あの頃は…こんな未来を全く想像しておりませんでした」
「そうですね…」
そんなに時が経っていないのに、何だか凄く懐かしい感じがして胸がキューっとする。
淡く懐かしい感情に倒れてしまいそう。
「…藤原さん、黙って下さってありがとうございました」
「え、何を?」
「…異動のことです。明日の修了式後に公表できるようになるので、浅野先生と的場さんには伝えようと思います」
「………」
その一言に、また涙が込み上げてくる。
早川先生の転任を知ってから涙腺が弱っている気がする。
ちょっとした心の動きで涙が大量生産されて、本当にどうしようもない…。
「…泣かないで下さい。ほら、いちごミルクを飲んで下さい」
「はい…」
促され吸い込んだいちごミルクは甘く優しい味。
私の中でいちごミルクと言えば早川先生というイメージが出来上がっており、色々な記憶がフラッシュバックする。
「……はい、藤原さん。数学科準備室に戻りながら公式の復習をしますよ」
「え、何ですか突然…」
「はい、正弦定理の公式を言って下さい」
「え、え………え…?」
「ついでに、余弦定理もいきましょう」
「え…?」
急な問い掛けに戸惑い、答えが出ない私。
先生は口元にほんのり笑みを浮かべながら、目には涙を浮かべていた。