佐伯達男のテレビのハナシ
もう一度おらんでほしいよ(T_T)
この話は、週刊現代の2021年6月12・19日号の巻末特集『いま、生きていたらあの人はこう言った』からバッスイして進めて行きます。

記事の文中によい言葉がたくさん書かれていた…

記事を読んだぼくも今まで生きてきた人生を振り返って見たが『成功した。』とは思っていない…

あの時ぼくは、昭和のエンタをクリエイトした著名人たちの言葉の重みをあらためて痛感しながら記事を読みました。

そんな中で、とくに印象に残った記事を紹介していきます。

『時間ですよ』シリーズ、『寺内貫太郎一家』シリーズ、『ムー』、『ムー一族』…のドラマ…

『8時だヨ!全員集合』などのバラエティ…

…など、TBS制作の番組をプロデュースした久世光彦《くぜてるひこ》さん(2006年に天に召された・享年70歳)の話である。

久世《くぜ》さんは、当時16か17歳だった女優・浅田美代子さんをおらびまくった。

浅田さんは、1972年に『赤い風船』の歌でブレイクした。

『時間ですよ』シリーズ、『寺内貫太郎一家』シリーズのお手伝いさん『ミヨちゃん』…の役が印象に残っている。

久世《くぜ》さんは、演技がうまくできずにいた浅田さんに対して『美代子!!違うぞ!!』とおらんだ。

30回ぐらいNGを出された浅田さんは、完ぺきにできるまで歯を食いしばってがんばった。

その結果、浅田さんはうまく演技ができるようになった。

久世《くぜ》さんはがご健在であれば『美代子、よぉなっとるのぉ~』とおほめの言葉をかけてくださった…

久世《くぜ》さんのおかげで、今の浅田さんがある…

…と言うエピソードでした。

おつぎの話は、昭和のお笑いグループでサ・ドリフターズの先輩にあたるハナ肇とクレイジーキャッツのリーダー・ハナ肇さんの付き人をしていたなべおさみがやらかした大失態である。

なべさんは、1962年春に大学卒業したあとハナさん(1993年に天に召された・63歳)の付き人になった。

なべさんがとんでもない失敗をやらかしたのは、その翌年であった。

それは、1963年ごろだったと思う。

この年は、孤高の歌姫・梓みちよさんが『こんにちは赤ちゃん』の歌で大ブレイクした時であった。

なべさんは、梓みちよさんの歌謡ショーでなんらかの役目を任されていた。

エンタの殿堂・日劇東宝でひらかれたテレビの公開録画番組である。

この時、なべさんはテレビで目立つチャンスだと思い込んだ。

これが大失態のもとであった。

なべさんは、幕が降りるまで終始目立ちまくった…

その後、なべさんは背伸びした状態でハナさんのもとへ行った。

この時、ハナさんがものすごい血相でおらんだ。

『コラ!!お前はなんでしまいのしまいまで目立ちまくったのだ!?』

ハナさんは、なべさんに対して『常に人より目立とうとすることは、卑《いや》しいことだ!!』と訓《おし》えた。

さらに細かく言えば『引くべきときは一歩引き、どなたかにしっかりと華をたむけること!!』と言うことである。

それは、一般社会の常識でもあることや。

ぼくも、なべさんと似たような大失態をやらかしたことがありました。

カラオケの集まりであったことだけど、数え切れないほどやらかしたと思う…

くわしいことはお話しできないけど、周りからそうとう怒られたよ…

それ以上は言えないけど…

つづいては、愛媛県にゆかりがある映画監督兼マルチタレントの伊丹十三さん(1997年に天に召された)のハナシである。

一六タルトのCMでおだやかな伊予弁で語っていた伊丹さんが印象に残っている。

話は、伊丹さんが最後にメガホンを取った映画『マルタイの女』のロケの現場でのことであった。

伊丹さんは、映画出演者の西村まさ彦さんと顔合わせをしていた。

伊丹さんは、西村さんに対して『これまでの君はもういらない。』と言うた。

西村さんの側から見ると『もしかしたら、ぼくは必要ないのでは…』と感じる。

だけど、それは全く違うことである。

テレビ愛媛で放送していたドラマで、田村正和さんが主演の『古畑任三郎』シリーズで、西村さんは古畑さんの付き人の刑事・今泉くんを演じていた。

西村さんが演じた今泉くんと言うと、古畑さんからデコをはたかれるなど…いじられキャラであった。

それを聞いた伊丹さんは『同じ刑事役でも『古畑任三郎』シリーズとは違う!!』と西村さんに訓《おし》えた。

その後、西村さんは『サラリーマン刑事』シリーズなどの2時間サスペンスドラマに多数出演した。

伊丹さんとの出会いを機に、西村さんのキャラクターが大きく変わった。

そして最後に、歌手で俳優の渡哲也さんのエピソードである。

渡さんは、1960年代後半に上映された日活映画『東京流れ者』でヤクザの役を演じた。

他にも、『無頼』シリーズ・『ヤクザの墓場』シリーズでもヤクザの役を演じた。

1976年~78年まで南海放送で火曜日21時(世界仰天ニュースをしよる時間帯)から放送されていた『大都会』シリーズの黒岩刑事、そして1979年~1984年まで瀬戸内海放送で日曜日20時(日本こんなところにぽつんと一軒家をしよる時間帯)から放送されていた『西部警察』シリーズの大門刑事…で、警察組織の人間の役に変わった。

その際に、もめ事が生じた。

もめた原因は、台本の内容であった。

台本に(犯人に共感してかんきわまる)と言う項目が書かれていたことが発端であった。

台本を見た渡さんは『オレは泣かんぞ!!』とおらんだあと台本をたたきつけた。

渡さんがチンピラの男と正義感の強い男の両方を演じたから言える言葉である。

それでも渡さんは日々応援して下さっているみなさまに感謝の気持ちを伝えると同時に、みなさまの思いにひとつずつ応《こた》えて行こうと言う強い精神で黒岩刑事と大門刑事を演じた。

ぼくは『西部警察』のパートⅠでもくもくと演技をこなしていた渡さんをずっとみていたので、渡さんの役者魂の強さを感じた。

1982年1月17日放送の『狙撃手大門』の最後のシーンを見た時、ぼくは泣きそうになった。

事件が解決したあと、ボロボロに傷ついた大門さんが救急車に載せられた。

一緒に救急車に乗った谷さんが大門刑事に呼びかけた。

大門刑事は何も言わなかったが、谷さんに対して『思い通りに行かない時こそ懸命に生きろ…』と伝えた。

そのメッセージは、重みが強い言葉である…

…なので、ぼくの県民手帳とスタバの手帳にしっかりと書き留めた。
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