三つの失恋と三つの飲み物。
3 ひとつの終わりと続いていく未来
「ただいま」
君のそのひと声で、私は君の一日がうっすらとわかる。
アパートの玄関で靴をそろえるために屈みこむ気配、鞄を置いた時の音、そういうものをつぶさに聞きとって、ああ今日も疲れてるなと思う。
君は私をみとめて優しく言う。
「遅くなってごめん。今ご飯にするからね」
いつも通り君は愚痴一つ言わずに家事に向かったけれど、私は君が見せた一瞬の表情が気にかかった。
気落ちした感じの眉、伏せた目で、少し顔色も悪かった。病気という感じではないけれど、普段とは違っているのが見て取れた。
私と二人、夕食を取り終えてから、君はコタツの上に勉強道具を取り出す。
社会人二年目の君は、資格を取るために会社から帰ると毎日勉強をしている。それは自分が優秀じゃないからと君は言うけれど、君の勤勉さは誇れるものだと思う。
だけど慣れない仕事を終えたばかりの君は、コタツに向かいながら次第にうつらうつらとし始める。
そんなところで眠ると風邪をひいてしまうよと、私は君の袖を引いて起こそうとするのだけど、君のまぶたはどうしても持ちあがってはくれないらしい。
やがて君はぺたんとコタツの上に頬をつく。
私は途方に暮れて君の様子を見ていたけど、ふいに私も眠気を感じた。
だから君の隣にうずくまって、私も短い眠りについた。
星空の見えるバーのカウンターで、私はいつものように君を待っていた。
カウンターに一つ置いたキャンドルだけが、誰もいない古びた店をひっそりと照らし出す。
キィ、と音を立てて扉が開く。そこから君はうさぎのように顔を覗かせて、柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、おじいさん。またお会いしましたね」
君は一つだけの椅子に座って私を見上げた。
「いつもの夢だとはわかってるんですけど、今日も一杯飲ませて頂いて構いませんか?」
「もちろん」
私は棚から一つ瓶を取って、シェイカーに氷と水と瓶の中身を少し入れてかき混ぜた。
「はい。今日は木イチゴのカクテル」
お酒に弱い君のために、グラスに一センチだけのカクテルを作って差し出す。
君は目を輝かせてうなずいた。
「いい匂い。いただきます」
君はカクテルを口にして、それからほっとしたように肩の力を抜いた。
甘い静寂の中、私は切り出す。
「今日は何かあったのかな」
「私……ですか?」
「そう。落ち込んでいるように見える」
カウンターの向こうから問いかけると、君は困ったように口の端を下げた。
「……私、告白されたんです」
「それは君にとって悪いことなのかな?」
「いえ……いい方ですし、うれしかった」
君はしょんぼりと気落ちした様子で顔を伏せる。
「でも、一緒に過ごしている間……私は家に帰りたくて仕方がなかったんです」
「緊張してしまったんだね?」
私がそっと問いかけると、君は頷く。
「付き合おうともいわれたのですが、今は毎日をちゃんとこなすことで精いっぱいで……お断りしました」
「そっか」
「私はまだ子どもなのかな。せっかくの幸運な出来事だったのに、うまくいかなくて」
きらきらと輝く星を憧れるように見上げて、君はため息をついた。
私は穏やかに君へ言葉をかける。
「そろそろ、そういう時だと思っていたよ」
私は微笑んで続ける。
「君は素敵な女性だから、周りが放っておかないんだろう」
「おじいさんみたいな紳士に言われると、くすぐったいです」
君は照れてむずかゆそうな顔をした。
「本当のことだよ。これは夢だけど、嘘じゃない」
日常を丁寧にこなしていく君を、私はずっと見守って来た。
「焦ることはないよ。君の速さで進めばいい」
キャンドルに照らされたあどけない面立ちを、私は見下ろす。
「仕事も恋愛も、どんなことも。大丈夫、君はいずれ大切なものをみつけるだろう」
きっと時がくれば、易しいほどに進んでいく。私は、君が君のままでいてくれればそれでいい。
「その途中で少し疲れたら、一センチのお酒で晩酌をするといい」
カクテルを飲み終えた君はふと目を閉じた。
私はその頭をぽんぽんと撫でて、月を見上げた。
居眠りから目覚めた君は、ちょっと辺りを見回して身を寄せた私に気づいた。
「温めてくれたの? ありがとう」
傍らの私の頭を撫でて、君はにこっと笑う。
「シロさんは優しいな。きっと人間だったら立派な紳士だね」
私はそっと君の腕に頬を寄せる。
君が小学生の頃から側にいる私は、もうたいそうな老犬だから君にしてあげられることは少ない。
君は思いついたように声を上げる。
「あ、そうだ」
だから私はささやかなことでも、君にしてあげたいと思う。
君は立ち上がって何かを探し始める。
「友達がくれたものがあったはず……。そう、キャンドルも」
君は棚に仕舞いこんでいたカクテルの瓶と電気キャンドルをみつけてきて、テーブルの上に置く。
「今日は月がきれいだし……うん、いいかもしれない」
君はうきうきとした様子で電気を切って、代わりに電気キャンドルをつける。
カーテンを開くと満月が見えた。部屋の中は月明かりとキャンドルの明りだけで十分に温かく満たされていた。
君は私に水とビーフジャーキーを一本用意してくれて、自分はグラスに一センチだけ赤いカクテルを注いだ。
「夢の中のおじいさん……」
君はゆっくりとカクテルを飲みながら、ふと私を見る。
「……きっとそうなんだろうね」
ふわりと笑って、君は私の頭に頬を寄せた。
君のそのひと声で、私は君の一日がうっすらとわかる。
アパートの玄関で靴をそろえるために屈みこむ気配、鞄を置いた時の音、そういうものをつぶさに聞きとって、ああ今日も疲れてるなと思う。
君は私をみとめて優しく言う。
「遅くなってごめん。今ご飯にするからね」
いつも通り君は愚痴一つ言わずに家事に向かったけれど、私は君が見せた一瞬の表情が気にかかった。
気落ちした感じの眉、伏せた目で、少し顔色も悪かった。病気という感じではないけれど、普段とは違っているのが見て取れた。
私と二人、夕食を取り終えてから、君はコタツの上に勉強道具を取り出す。
社会人二年目の君は、資格を取るために会社から帰ると毎日勉強をしている。それは自分が優秀じゃないからと君は言うけれど、君の勤勉さは誇れるものだと思う。
だけど慣れない仕事を終えたばかりの君は、コタツに向かいながら次第にうつらうつらとし始める。
そんなところで眠ると風邪をひいてしまうよと、私は君の袖を引いて起こそうとするのだけど、君のまぶたはどうしても持ちあがってはくれないらしい。
やがて君はぺたんとコタツの上に頬をつく。
私は途方に暮れて君の様子を見ていたけど、ふいに私も眠気を感じた。
だから君の隣にうずくまって、私も短い眠りについた。
星空の見えるバーのカウンターで、私はいつものように君を待っていた。
カウンターに一つ置いたキャンドルだけが、誰もいない古びた店をひっそりと照らし出す。
キィ、と音を立てて扉が開く。そこから君はうさぎのように顔を覗かせて、柔らかく微笑んだ。
「こんばんは、おじいさん。またお会いしましたね」
君は一つだけの椅子に座って私を見上げた。
「いつもの夢だとはわかってるんですけど、今日も一杯飲ませて頂いて構いませんか?」
「もちろん」
私は棚から一つ瓶を取って、シェイカーに氷と水と瓶の中身を少し入れてかき混ぜた。
「はい。今日は木イチゴのカクテル」
お酒に弱い君のために、グラスに一センチだけのカクテルを作って差し出す。
君は目を輝かせてうなずいた。
「いい匂い。いただきます」
君はカクテルを口にして、それからほっとしたように肩の力を抜いた。
甘い静寂の中、私は切り出す。
「今日は何かあったのかな」
「私……ですか?」
「そう。落ち込んでいるように見える」
カウンターの向こうから問いかけると、君は困ったように口の端を下げた。
「……私、告白されたんです」
「それは君にとって悪いことなのかな?」
「いえ……いい方ですし、うれしかった」
君はしょんぼりと気落ちした様子で顔を伏せる。
「でも、一緒に過ごしている間……私は家に帰りたくて仕方がなかったんです」
「緊張してしまったんだね?」
私がそっと問いかけると、君は頷く。
「付き合おうともいわれたのですが、今は毎日をちゃんとこなすことで精いっぱいで……お断りしました」
「そっか」
「私はまだ子どもなのかな。せっかくの幸運な出来事だったのに、うまくいかなくて」
きらきらと輝く星を憧れるように見上げて、君はため息をついた。
私は穏やかに君へ言葉をかける。
「そろそろ、そういう時だと思っていたよ」
私は微笑んで続ける。
「君は素敵な女性だから、周りが放っておかないんだろう」
「おじいさんみたいな紳士に言われると、くすぐったいです」
君は照れてむずかゆそうな顔をした。
「本当のことだよ。これは夢だけど、嘘じゃない」
日常を丁寧にこなしていく君を、私はずっと見守って来た。
「焦ることはないよ。君の速さで進めばいい」
キャンドルに照らされたあどけない面立ちを、私は見下ろす。
「仕事も恋愛も、どんなことも。大丈夫、君はいずれ大切なものをみつけるだろう」
きっと時がくれば、易しいほどに進んでいく。私は、君が君のままでいてくれればそれでいい。
「その途中で少し疲れたら、一センチのお酒で晩酌をするといい」
カクテルを飲み終えた君はふと目を閉じた。
私はその頭をぽんぽんと撫でて、月を見上げた。
居眠りから目覚めた君は、ちょっと辺りを見回して身を寄せた私に気づいた。
「温めてくれたの? ありがとう」
傍らの私の頭を撫でて、君はにこっと笑う。
「シロさんは優しいな。きっと人間だったら立派な紳士だね」
私はそっと君の腕に頬を寄せる。
君が小学生の頃から側にいる私は、もうたいそうな老犬だから君にしてあげられることは少ない。
君は思いついたように声を上げる。
「あ、そうだ」
だから私はささやかなことでも、君にしてあげたいと思う。
君は立ち上がって何かを探し始める。
「友達がくれたものがあったはず……。そう、キャンドルも」
君は棚に仕舞いこんでいたカクテルの瓶と電気キャンドルをみつけてきて、テーブルの上に置く。
「今日は月がきれいだし……うん、いいかもしれない」
君はうきうきとした様子で電気を切って、代わりに電気キャンドルをつける。
カーテンを開くと満月が見えた。部屋の中は月明かりとキャンドルの明りだけで十分に温かく満たされていた。
君は私に水とビーフジャーキーを一本用意してくれて、自分はグラスに一センチだけ赤いカクテルを注いだ。
「夢の中のおじいさん……」
君はゆっくりとカクテルを飲みながら、ふと私を見る。
「……きっとそうなんだろうね」
ふわりと笑って、君は私の頭に頬を寄せた。