ようこそ、片桐社長のまかないさん
1 片桐社長に拾われる
「じゃあ、今日から俺の隣の部屋に来いよ」
先ほど出会ったばかりの男は余裕の笑みを浮かべながらそう言った。
私はそれに同意するしかなかった。私には他の選択肢なんて、ただの一つもなかったのだ。
その日は、嵐だった。
ここは関東の端の端の小さな漁港町。幼い頃に毎年夏休みを過ごした思い出の町だった。何もかも失った私は数日前にここに辿り着いた。
「ここで何してる。不法侵入だぞ」
突然に私のテントを勝手に開け、隙間から顔を覗かせた男はそう言ってすごんだ。逆光でよく見えない。漁港の男だろうか。
私は寝袋から出なくてはとチャックに手を掛けたが、噛んでいるのかもたつくばかりで一向に動けない。
「ご、ごめんなさい。ちょっと待って。今出るので」
寝起きの良く働かない頭でなんとかそう答え、寝袋のチャックを強引に下すけれどなかなか肩が抜け出せない。
この間抜けな状況を見かねたのか、男は私のテントに上半身をねじ込んできた。
うわ、入ってきた! こわ……! と身構えた時、ふわりと男が笑ったのが分かった。
「おい。芋虫みたいになってんな。笑わせてんのか」
その時ようやく男の顔がはっきりと見えた。驚くほどのイケメンで息をのんだ。
男は尖った八重歯をチラリと見せながら楽しそうに寝袋のチャックを外側から開け、私を救出してくれた。
「あ、ありがとうございます」と言いながら、この恥ずかしくいたたまれない状況をどうしたものかと冷や汗が出た。
「で? ここで何してる? ひとりキャンプ?」と男は柔らかい表情のまま腕を組んで訊いた。
「いや、キャンプと言うか……」
「野宿?」
「野宿と言うか……」
言葉が出て来ず固まる私の頭に、男は軽くため息をついて諭すようにポンと手を乗せた。
「今日はこれから荒れるぞ。こんなテント軽く吹き飛ぶから」
そうだったのか。もうしばらく前にスマホの充電が切れてから、天気予報すら知ることができずにいた。
「すぐそこに俺の店があるから、ちょっとそこまで来いよ」
「あの……。でも……」
のこのこと着いて行っていいものかな……? と考えていると、男はまたため息をついた。
「お前が無断でテントを張ってるこの土地。空き地に見えるけど、うちの会社の持ち物。警察に突き出してもいいんだけど?」
男はニヤリと笑った。ああ、勝てないな。彼に抱いた最初の印象。この人にはとても勝てそうにない。
言われるがままに男について、三百メートルほど離れた漁港近くの土産物屋に入った。
とてもおしゃれな店内で、よくある田舎の観光地の土産物屋と違って、都内のアンテナショップのように洗練されていた。小さなカフェも入っており、ガラス張りの店内からは遠くに海が望めた。
(……こんなお店ができてるんだ。)
もう十年以上訪れていなかったこの町の変化に感心しつつ店内を見回していると、店の奥にあるイートインスペースに座るよう促された。
まだ開店前なのか客の姿はなく、開店準備をしていたらしき女性店員と男が軽い挨拶をかわした。
私がホッとした顔をしたことに気が付いたのか、男は怪訝な顔で「なに?」と訊いてきた。
「いや……。素敵なお店だなと思って。店って言うから、いかがわしい店だったらどうしようかと……」
「いかがわしいってなんだよ」
と男はまた楽しそうに笑って、私の向かいに腰かけた。
カウンターにいた女性店員がやってきて、当然のようにアイスコーヒーを私と男の前に置いた。
「社長。また急にどうしたんです? 何か他にお作りしますか?」
歳は若くはないけれど、代官山のカフェに居てもおかしくなさそうな可愛いお団子ヘアにカフェエプロンをした店員。彼女に社長と呼ばれる男は柔和な笑みで、
「いつもすみません。コーヒーありがとう。これだけでいいですよ」と答えていた。
(社長? こんなに若いのに。俺の店って、ここの経営者ってことだったのか。ただの店員かと思った)
ぼんやりそんなことを考え、暖房のよく効いた店内に体が緩み着こんでいたダウンジャケットを脱いだ。
「マリンピア? この田舎じゃ滅多にそんなしゃれたの着てる人いないぞ。あんた、東京から来たんだろ」
脱いだジャケットを見て男は頬杖をつきながら訊いた。マリンピアなんてレディースしかない百貨店ブランドのロゴをこの人が知っていることに驚いた。
「ええ、東京から来ましたけど……」
「ふーん。で? なんでテント?」
外では先ほどから降り出した雨が強くなってきていた。
「申し遅れました。私、杉崎凛と申します」
いきなり自己紹介すると、男はきょとんとした顔をしたけれど、構わず続けた。
「実はあそこ、私の祖母の家があった場所で。祖母が亡くなって、古い家だったから崩れる前に取り壊したという話は母から聞いていて。でもまさか土地が人手に渡っていたとは知らなくて。勝手に暮らしてごめんなさい」
「……暮らす?」
と男は目を丸くした。
「え、暮らしてたの?」
「はい。一週間ほど前から」
「ちょっとしたひとりキャンプじゃなくて? テント暮らし?」
「はい」
「この11月の寒空の下で?」
「はい。冬を越すつもりで」
すると男は盛大に噴き出して笑い出した。この人は本当に楽しそうに笑う人だと思った。整った顔がクシャりと皺を作って、なにかこちらまで気持ちが明るくなるような笑い顔になる。
「死ぬぞ、それ。良かった、凍死する前に発見できて」
「死にませんよ」
呆れたように私が言うと、彼は更に声を出して笑った。
「とにかく私は死なないので、あそこに居させてもらえませんか? 家賃は……貯金からどうにかするので……」
「家賃って。家ないのに家賃て」
まだ笑い続けている。私は恥ずかしさ半分、もうこうなったら開き直るしかないふてぶてしさ半分で彼が笑い終えるのを待った。
「で? 東京の家は? どうした?」
笑い終わったと思ったら、男は急に鋭い目を向けてきた。
「……逃げてきたんです」
絞り出すようにそう言うと、男は更に真面目な顔になった。
「なにから?」
「全てから。だから、帰れない」
私が逃げ出したもの。頭の中にそれらが浮かんで来そうになり、慌てて思考の奥底に沈めこむ。
どうか、思い出させないで。大丈夫。ここなら大丈夫。
「どうしてお祖母さんの家の跡地に?」
「東京の他に、私はここしか知らないので」
お祖母ちゃんの、風が抜ける家。食べきれない手料理。魚をもらいに行った漁港。海岸を抜けた先にある岩場。今ふと蘇ったそれらと同じ匂いが、この現代風の土産屋にも漂っていた。
「じゃあ、ここにいたらいいよ」
「え? いいの? よかった。じゃああのテントあのままで……」
「何言ってんだよ。危なくてあんなところに居させるわけないだろ」
「もう、この問答何回やれば……」
ため息をつく私を遮るように、彼は突然名刺入れを胸ポケットから取り出した。
「申し遅れました。俺は片桐航26歳。この漁港で水産会社経営と経営コンサルをしてる」
「はあ」と言ってその名刺を眺める。
(26歳? 本当に若いんだ。私の一つ年上で経営者って。うん? 経営コンサル? 片桐? あれ? どこかで……)
「この店の隣が俺の実家なんだ。古い家だから広くてな。部屋が余ってる」
「……そう、で……すか。いや、でも……」
「俺の家、来いよ。凛」
片桐航は私の名前をあっさりと呼び捨てにしてそう言った。
「これ、家……なの?」
土産物屋を出てすぐ隣の門扉の前に立ち、すくんだ。
重要文化財か何かに指定されそうな大層なお屋敷だった。門から建物までも遠く、敷地内には仕事に使うのか従業員のものなのか、様々な形状の車が所せましと停められていた。ざっと十数台。
雨に濡れないように、片桐さんが私の肩を抱き寄せると自身の薄手のジャンバーを私の頭の上まで広げてくれた。
それがやたらとスマートで、私はここ一週間まともに人と顔を合わせていなかったことも相まって、どう反応をしたらいいのか分からず、されるがままに屋敷の入口まで小走りした。
「はは、なにしても意味ねーな、びしょ濡れ」
とはしゃぐように笑いながら彼は私の肩を引いて走った。
「ちょっと待ってろ。タオル持ってくる」
ガラガラと玄関の戸を開けると、私が東京で一人暮らししていた部屋くらいありそうな広々とした天然石の石畳だった。
靴を脱ぎ捨てて片桐さんが行ってしまうと、しんと広い家の中は静まっていた。暗くて廊下の先は見えない。
タオルを拝借して身なりを整えると、家へ上がり長い廊下を歩いた。
「女将、この人今日からここに住むから」
ガチャリと躊躇なく片桐さんが開けた戸の先は広々としたお台所だった。ちょっとした小料理屋の厨房くらい広く、ステンレス張りの清潔なシンクや調理台が眩しい。大きな鉄鍋や業務用の一升炊き炊飯器、本格的な調理器具が並ぶ。
え? ここは料亭? とバカなことを考えていると、女将と呼ばれた着物姿の女性が、開かれていた勝手口から顔を出した。
「なに、急に。あら、ハイカラな子ね」
「東京から来たんだってさ。帰る場所も住む場所もないみたいだから、今日から泊めるから」
「なんだってそんな……」
「空き地にテント張って冬超すつもりだとかいうから」
「あらまあ。あれ? あなた、名前は?」
「あ、杉崎凛です」
「やっぱり。杉崎さんのお孫さんね?」
前掛けで手を拭きながら彼女は目の前で私の顔を覗き込む。
「あ、はい、そうです」
「そう。ふふ、私は航の祖母です。……いいんじゃないの? 泊めてやりなさい」
女将さんはニコリと微笑むと、私の肩にポンと触れた。
どうやら了承を得てしまったらしい。どうしよう。本当に私はここに住むの?
「あの、本当に私ここに泊まっても……?」
二階の部屋を案内された。二階は一階よりも新しい内装で、洋式にリフォームされていた。
長い長い廊下の先の突き当りの部屋。その洋間にはベッドメイクされたセミダブルのベッドとソファーにテレビ。
「そこのドアがトイレ。隣のドアは洗面所と風呂ね。ここだけで生活できるようになってるから」
(……ホテル?!)
心の中で突っ込みを入れた。
「ここは客間……?」
「まあ、そんな感じかな? 元々俺が使ってた部屋だけど。トイレと風呂が付いてるから、最近は来客の時に使ってた」
「そしたら今後来客があったら困るんじゃない? 私が使ってしまったら……」
「いや、他にも一階に客間はもう一部屋ある。そっちにもトイレと風呂があるから問題ない」
「えええ。この家の間取り、どうなってるの……」
「間取り? えーっと8LLDK? トイレ四つ。風呂三つ」
「どうなってるの」
「田舎だからなあ」
(同じ田舎でもこの近所の私の祖母の家はつつましい平屋だったけれど……)
「こんな立派な部屋に泊めてもらうなんて……。どのくらいお支払すればいいのか見当もつかない……」
「ああ、家賃? いらないけど……。そう言っても納得できない性格っぽいなお前」
「ええ。可愛くないってよく言われます」
「はは。そういうきっちりした考え方、社会人として人と付き合うのに大切なものだろ。俺は好きだけど」
片桐さんはふわりと笑って私の頭を撫でた。
「頑張ってきたんだな」
え、と私は間抜けな顔をして片桐さんの顔を見上げた。
その優しい顔に泣いてしまいそうな、心臓が丸ごと掴まれたような苦しさを感じてすぐに俯いた。
「……この町で仕事はするつもりか?」
片桐さんはパッと私から離れると、綺麗に整えられたベッドへ豪快に腰かけた。
「ええ。テント暮らしだとそれも難しいかと思っていたけど、ここに住まわせてもらえるなら、住所も履歴書に書けるし働けるかなって。働き口を探さないとだけど」
「東京では何を?」
東京での、仕事。そう思っただけで自分の表情が曇ったことが分かった。
「……広告業界にいたの。数年前までベンチャーだったような、イケイケの人が多い会社で……」
「ヴィバリュー?」
「え、なんで分かるの……」
社名が出てドキりとした。
「イケイケ、ベンチャー上がりって言ったらヴィバリューかなって」
急に居心地が悪く感じて、片桐さんの顔を見られなくなった。
片桐さんは不審な態度の私をじっと見ている。
「……まあ、それは置いといて。どんな仕事がやりたい? 前職に近い仕事?」
「いえ、そんな選り好みはしません。どんな仕事でもいいの。体力を使う系でもなんでも。やらせてもらえるなら」
あのまましばらくテントで生活しようと本気で思っていた。それを考えたら、仕事なんて何だってできる。
「ふっ」
片桐さんが柔和に笑った。
「いいな。その生真面目さ」
「褒めてる?」
「もちろん。信頼できる」
そんなことを言われたのは初めてだった。前職で私の頑なな部分は短所として扱われてきた。もっと柔軟に、もっと強かに。
嘘を平気で吐ける女優の顔をした女の子たちがもてはやされる職場だった。
だから、あんなことが公然と起きていても、誰もが知らん顔をしていた。そういう場所だった。
「じゃあ、うちの賄さんを頼みたい」
「え? 賄?」
「うちは漁船五艘と加工工場、店と事務所を持ってて、従業員の独身の男たちにはうちで昼飯と夕飯を食わせてるんだ。飯を食わせるのは祖父の代から変わらない慣習でね。今は祖母が一人で賄ってるけど、もう今年71歳で毎日十人分も作るのは骨が折れる」
「従業員さんたちの食事の準備と片付け? あとこのおうちの家事全般をすれば……?」
「そう。祖母が教えてくれるから。頼めるか?」
「ええもちろん」
「家賃と生活費を天引きしても、貯金ができるくらいの給料は支払う」
「ありがとうございます。しっかり働いてお金を貯めて、なるべく早く出ていくのでよろしくお願いします」
「それは困るけど」
片桐さんがボソッと言った。
「え?」
聞き取れず訊き返すも、ニコニコとしてはぐらかそうとしているのが分かった。
「えっと、そういえば片桐社長の部屋は……」
「おい。片桐社長とかやめてくれよ。みんな航って呼ぶから。あと敬語もいらない。同い年くらいだろ」
「あ、はい……」
(航なんて呼べるかな……)
「ああ、俺の部屋? 隣ってさっき言っただろ」
先ほどのお店で。「俺の隣の部屋に住めよ」と言われた。
隣の部屋。この部屋は廊下の一番奥で、階段の近くにしか部屋らしきドアはなく隣と言うのがどこを指すのかさっぱりわからなかった。
「だから、隣ってどこの部屋……」
「ここ!!」
じゃーん、とばかりに片桐さんは部屋の奥にある引き戸の合わせ扉を指さした。
「ええ?」
クロゼットか何かだと思っていたその扉の奥?
「ここ、元は二階のリビングだったんだ。この奥はリビングから続く洋間。俺は今そこにベッド置いて寝てるから」
「ええ? じゃあ廊下に出るには……」
「この部屋通らなきゃいけない。ついでに俺もここの風呂場使ってるから」
「ええ?? なんでそんな……じゃあ私めちゃくちゃ邪魔……」
「ま、大丈夫。着替え覗いたりしねーから」
(いや、そりゃ私の着替えにも寝顔にも興味はないだろうし……いろいろ間に合ってるだろうけど……)
「じゃあ他の納戸でもなんでもいいんだけど……。寝袋もあるし」
「そんなわけいかねーだろ」
片桐さんは立ち上がると、立ち尽くす私の肩に触れた。
「じゃあ、今日からよろしく。凛」
今にも唇が触れそうな距離に顔を近づけ、片桐さんは小声でそう言った。
「じゃ、仕事行ってくる。今日はゆっくり休んで、明日から賄さんよろしく」
真っ赤になったであろう私を見てクスリと笑うと、ポンポンと頭を撫でて片桐さんは廊下へ出て行ってしまった。
(なんでこうなった?????)
私の部屋を去った片桐さんが、とても美しい女の子と一階に下りる階段ですれ違ったことを、この時私はまだ知らなかった……。
「航ちゃん、誰か来てるの? 玄関に女の子の靴があったよ?」
「ああ、後で紹介する。俺の賄さん」
先ほど出会ったばかりの男は余裕の笑みを浮かべながらそう言った。
私はそれに同意するしかなかった。私には他の選択肢なんて、ただの一つもなかったのだ。
その日は、嵐だった。
ここは関東の端の端の小さな漁港町。幼い頃に毎年夏休みを過ごした思い出の町だった。何もかも失った私は数日前にここに辿り着いた。
「ここで何してる。不法侵入だぞ」
突然に私のテントを勝手に開け、隙間から顔を覗かせた男はそう言ってすごんだ。逆光でよく見えない。漁港の男だろうか。
私は寝袋から出なくてはとチャックに手を掛けたが、噛んでいるのかもたつくばかりで一向に動けない。
「ご、ごめんなさい。ちょっと待って。今出るので」
寝起きの良く働かない頭でなんとかそう答え、寝袋のチャックを強引に下すけれどなかなか肩が抜け出せない。
この間抜けな状況を見かねたのか、男は私のテントに上半身をねじ込んできた。
うわ、入ってきた! こわ……! と身構えた時、ふわりと男が笑ったのが分かった。
「おい。芋虫みたいになってんな。笑わせてんのか」
その時ようやく男の顔がはっきりと見えた。驚くほどのイケメンで息をのんだ。
男は尖った八重歯をチラリと見せながら楽しそうに寝袋のチャックを外側から開け、私を救出してくれた。
「あ、ありがとうございます」と言いながら、この恥ずかしくいたたまれない状況をどうしたものかと冷や汗が出た。
「で? ここで何してる? ひとりキャンプ?」と男は柔らかい表情のまま腕を組んで訊いた。
「いや、キャンプと言うか……」
「野宿?」
「野宿と言うか……」
言葉が出て来ず固まる私の頭に、男は軽くため息をついて諭すようにポンと手を乗せた。
「今日はこれから荒れるぞ。こんなテント軽く吹き飛ぶから」
そうだったのか。もうしばらく前にスマホの充電が切れてから、天気予報すら知ることができずにいた。
「すぐそこに俺の店があるから、ちょっとそこまで来いよ」
「あの……。でも……」
のこのこと着いて行っていいものかな……? と考えていると、男はまたため息をついた。
「お前が無断でテントを張ってるこの土地。空き地に見えるけど、うちの会社の持ち物。警察に突き出してもいいんだけど?」
男はニヤリと笑った。ああ、勝てないな。彼に抱いた最初の印象。この人にはとても勝てそうにない。
言われるがままに男について、三百メートルほど離れた漁港近くの土産物屋に入った。
とてもおしゃれな店内で、よくある田舎の観光地の土産物屋と違って、都内のアンテナショップのように洗練されていた。小さなカフェも入っており、ガラス張りの店内からは遠くに海が望めた。
(……こんなお店ができてるんだ。)
もう十年以上訪れていなかったこの町の変化に感心しつつ店内を見回していると、店の奥にあるイートインスペースに座るよう促された。
まだ開店前なのか客の姿はなく、開店準備をしていたらしき女性店員と男が軽い挨拶をかわした。
私がホッとした顔をしたことに気が付いたのか、男は怪訝な顔で「なに?」と訊いてきた。
「いや……。素敵なお店だなと思って。店って言うから、いかがわしい店だったらどうしようかと……」
「いかがわしいってなんだよ」
と男はまた楽しそうに笑って、私の向かいに腰かけた。
カウンターにいた女性店員がやってきて、当然のようにアイスコーヒーを私と男の前に置いた。
「社長。また急にどうしたんです? 何か他にお作りしますか?」
歳は若くはないけれど、代官山のカフェに居てもおかしくなさそうな可愛いお団子ヘアにカフェエプロンをした店員。彼女に社長と呼ばれる男は柔和な笑みで、
「いつもすみません。コーヒーありがとう。これだけでいいですよ」と答えていた。
(社長? こんなに若いのに。俺の店って、ここの経営者ってことだったのか。ただの店員かと思った)
ぼんやりそんなことを考え、暖房のよく効いた店内に体が緩み着こんでいたダウンジャケットを脱いだ。
「マリンピア? この田舎じゃ滅多にそんなしゃれたの着てる人いないぞ。あんた、東京から来たんだろ」
脱いだジャケットを見て男は頬杖をつきながら訊いた。マリンピアなんてレディースしかない百貨店ブランドのロゴをこの人が知っていることに驚いた。
「ええ、東京から来ましたけど……」
「ふーん。で? なんでテント?」
外では先ほどから降り出した雨が強くなってきていた。
「申し遅れました。私、杉崎凛と申します」
いきなり自己紹介すると、男はきょとんとした顔をしたけれど、構わず続けた。
「実はあそこ、私の祖母の家があった場所で。祖母が亡くなって、古い家だったから崩れる前に取り壊したという話は母から聞いていて。でもまさか土地が人手に渡っていたとは知らなくて。勝手に暮らしてごめんなさい」
「……暮らす?」
と男は目を丸くした。
「え、暮らしてたの?」
「はい。一週間ほど前から」
「ちょっとしたひとりキャンプじゃなくて? テント暮らし?」
「はい」
「この11月の寒空の下で?」
「はい。冬を越すつもりで」
すると男は盛大に噴き出して笑い出した。この人は本当に楽しそうに笑う人だと思った。整った顔がクシャりと皺を作って、なにかこちらまで気持ちが明るくなるような笑い顔になる。
「死ぬぞ、それ。良かった、凍死する前に発見できて」
「死にませんよ」
呆れたように私が言うと、彼は更に声を出して笑った。
「とにかく私は死なないので、あそこに居させてもらえませんか? 家賃は……貯金からどうにかするので……」
「家賃って。家ないのに家賃て」
まだ笑い続けている。私は恥ずかしさ半分、もうこうなったら開き直るしかないふてぶてしさ半分で彼が笑い終えるのを待った。
「で? 東京の家は? どうした?」
笑い終わったと思ったら、男は急に鋭い目を向けてきた。
「……逃げてきたんです」
絞り出すようにそう言うと、男は更に真面目な顔になった。
「なにから?」
「全てから。だから、帰れない」
私が逃げ出したもの。頭の中にそれらが浮かんで来そうになり、慌てて思考の奥底に沈めこむ。
どうか、思い出させないで。大丈夫。ここなら大丈夫。
「どうしてお祖母さんの家の跡地に?」
「東京の他に、私はここしか知らないので」
お祖母ちゃんの、風が抜ける家。食べきれない手料理。魚をもらいに行った漁港。海岸を抜けた先にある岩場。今ふと蘇ったそれらと同じ匂いが、この現代風の土産屋にも漂っていた。
「じゃあ、ここにいたらいいよ」
「え? いいの? よかった。じゃああのテントあのままで……」
「何言ってんだよ。危なくてあんなところに居させるわけないだろ」
「もう、この問答何回やれば……」
ため息をつく私を遮るように、彼は突然名刺入れを胸ポケットから取り出した。
「申し遅れました。俺は片桐航26歳。この漁港で水産会社経営と経営コンサルをしてる」
「はあ」と言ってその名刺を眺める。
(26歳? 本当に若いんだ。私の一つ年上で経営者って。うん? 経営コンサル? 片桐? あれ? どこかで……)
「この店の隣が俺の実家なんだ。古い家だから広くてな。部屋が余ってる」
「……そう、で……すか。いや、でも……」
「俺の家、来いよ。凛」
片桐航は私の名前をあっさりと呼び捨てにしてそう言った。
「これ、家……なの?」
土産物屋を出てすぐ隣の門扉の前に立ち、すくんだ。
重要文化財か何かに指定されそうな大層なお屋敷だった。門から建物までも遠く、敷地内には仕事に使うのか従業員のものなのか、様々な形状の車が所せましと停められていた。ざっと十数台。
雨に濡れないように、片桐さんが私の肩を抱き寄せると自身の薄手のジャンバーを私の頭の上まで広げてくれた。
それがやたらとスマートで、私はここ一週間まともに人と顔を合わせていなかったことも相まって、どう反応をしたらいいのか分からず、されるがままに屋敷の入口まで小走りした。
「はは、なにしても意味ねーな、びしょ濡れ」
とはしゃぐように笑いながら彼は私の肩を引いて走った。
「ちょっと待ってろ。タオル持ってくる」
ガラガラと玄関の戸を開けると、私が東京で一人暮らししていた部屋くらいありそうな広々とした天然石の石畳だった。
靴を脱ぎ捨てて片桐さんが行ってしまうと、しんと広い家の中は静まっていた。暗くて廊下の先は見えない。
タオルを拝借して身なりを整えると、家へ上がり長い廊下を歩いた。
「女将、この人今日からここに住むから」
ガチャリと躊躇なく片桐さんが開けた戸の先は広々としたお台所だった。ちょっとした小料理屋の厨房くらい広く、ステンレス張りの清潔なシンクや調理台が眩しい。大きな鉄鍋や業務用の一升炊き炊飯器、本格的な調理器具が並ぶ。
え? ここは料亭? とバカなことを考えていると、女将と呼ばれた着物姿の女性が、開かれていた勝手口から顔を出した。
「なに、急に。あら、ハイカラな子ね」
「東京から来たんだってさ。帰る場所も住む場所もないみたいだから、今日から泊めるから」
「なんだってそんな……」
「空き地にテント張って冬超すつもりだとかいうから」
「あらまあ。あれ? あなた、名前は?」
「あ、杉崎凛です」
「やっぱり。杉崎さんのお孫さんね?」
前掛けで手を拭きながら彼女は目の前で私の顔を覗き込む。
「あ、はい、そうです」
「そう。ふふ、私は航の祖母です。……いいんじゃないの? 泊めてやりなさい」
女将さんはニコリと微笑むと、私の肩にポンと触れた。
どうやら了承を得てしまったらしい。どうしよう。本当に私はここに住むの?
「あの、本当に私ここに泊まっても……?」
二階の部屋を案内された。二階は一階よりも新しい内装で、洋式にリフォームされていた。
長い長い廊下の先の突き当りの部屋。その洋間にはベッドメイクされたセミダブルのベッドとソファーにテレビ。
「そこのドアがトイレ。隣のドアは洗面所と風呂ね。ここだけで生活できるようになってるから」
(……ホテル?!)
心の中で突っ込みを入れた。
「ここは客間……?」
「まあ、そんな感じかな? 元々俺が使ってた部屋だけど。トイレと風呂が付いてるから、最近は来客の時に使ってた」
「そしたら今後来客があったら困るんじゃない? 私が使ってしまったら……」
「いや、他にも一階に客間はもう一部屋ある。そっちにもトイレと風呂があるから問題ない」
「えええ。この家の間取り、どうなってるの……」
「間取り? えーっと8LLDK? トイレ四つ。風呂三つ」
「どうなってるの」
「田舎だからなあ」
(同じ田舎でもこの近所の私の祖母の家はつつましい平屋だったけれど……)
「こんな立派な部屋に泊めてもらうなんて……。どのくらいお支払すればいいのか見当もつかない……」
「ああ、家賃? いらないけど……。そう言っても納得できない性格っぽいなお前」
「ええ。可愛くないってよく言われます」
「はは。そういうきっちりした考え方、社会人として人と付き合うのに大切なものだろ。俺は好きだけど」
片桐さんはふわりと笑って私の頭を撫でた。
「頑張ってきたんだな」
え、と私は間抜けな顔をして片桐さんの顔を見上げた。
その優しい顔に泣いてしまいそうな、心臓が丸ごと掴まれたような苦しさを感じてすぐに俯いた。
「……この町で仕事はするつもりか?」
片桐さんはパッと私から離れると、綺麗に整えられたベッドへ豪快に腰かけた。
「ええ。テント暮らしだとそれも難しいかと思っていたけど、ここに住まわせてもらえるなら、住所も履歴書に書けるし働けるかなって。働き口を探さないとだけど」
「東京では何を?」
東京での、仕事。そう思っただけで自分の表情が曇ったことが分かった。
「……広告業界にいたの。数年前までベンチャーだったような、イケイケの人が多い会社で……」
「ヴィバリュー?」
「え、なんで分かるの……」
社名が出てドキりとした。
「イケイケ、ベンチャー上がりって言ったらヴィバリューかなって」
急に居心地が悪く感じて、片桐さんの顔を見られなくなった。
片桐さんは不審な態度の私をじっと見ている。
「……まあ、それは置いといて。どんな仕事がやりたい? 前職に近い仕事?」
「いえ、そんな選り好みはしません。どんな仕事でもいいの。体力を使う系でもなんでも。やらせてもらえるなら」
あのまましばらくテントで生活しようと本気で思っていた。それを考えたら、仕事なんて何だってできる。
「ふっ」
片桐さんが柔和に笑った。
「いいな。その生真面目さ」
「褒めてる?」
「もちろん。信頼できる」
そんなことを言われたのは初めてだった。前職で私の頑なな部分は短所として扱われてきた。もっと柔軟に、もっと強かに。
嘘を平気で吐ける女優の顔をした女の子たちがもてはやされる職場だった。
だから、あんなことが公然と起きていても、誰もが知らん顔をしていた。そういう場所だった。
「じゃあ、うちの賄さんを頼みたい」
「え? 賄?」
「うちは漁船五艘と加工工場、店と事務所を持ってて、従業員の独身の男たちにはうちで昼飯と夕飯を食わせてるんだ。飯を食わせるのは祖父の代から変わらない慣習でね。今は祖母が一人で賄ってるけど、もう今年71歳で毎日十人分も作るのは骨が折れる」
「従業員さんたちの食事の準備と片付け? あとこのおうちの家事全般をすれば……?」
「そう。祖母が教えてくれるから。頼めるか?」
「ええもちろん」
「家賃と生活費を天引きしても、貯金ができるくらいの給料は支払う」
「ありがとうございます。しっかり働いてお金を貯めて、なるべく早く出ていくのでよろしくお願いします」
「それは困るけど」
片桐さんがボソッと言った。
「え?」
聞き取れず訊き返すも、ニコニコとしてはぐらかそうとしているのが分かった。
「えっと、そういえば片桐社長の部屋は……」
「おい。片桐社長とかやめてくれよ。みんな航って呼ぶから。あと敬語もいらない。同い年くらいだろ」
「あ、はい……」
(航なんて呼べるかな……)
「ああ、俺の部屋? 隣ってさっき言っただろ」
先ほどのお店で。「俺の隣の部屋に住めよ」と言われた。
隣の部屋。この部屋は廊下の一番奥で、階段の近くにしか部屋らしきドアはなく隣と言うのがどこを指すのかさっぱりわからなかった。
「だから、隣ってどこの部屋……」
「ここ!!」
じゃーん、とばかりに片桐さんは部屋の奥にある引き戸の合わせ扉を指さした。
「ええ?」
クロゼットか何かだと思っていたその扉の奥?
「ここ、元は二階のリビングだったんだ。この奥はリビングから続く洋間。俺は今そこにベッド置いて寝てるから」
「ええ? じゃあ廊下に出るには……」
「この部屋通らなきゃいけない。ついでに俺もここの風呂場使ってるから」
「ええ?? なんでそんな……じゃあ私めちゃくちゃ邪魔……」
「ま、大丈夫。着替え覗いたりしねーから」
(いや、そりゃ私の着替えにも寝顔にも興味はないだろうし……いろいろ間に合ってるだろうけど……)
「じゃあ他の納戸でもなんでもいいんだけど……。寝袋もあるし」
「そんなわけいかねーだろ」
片桐さんは立ち上がると、立ち尽くす私の肩に触れた。
「じゃあ、今日からよろしく。凛」
今にも唇が触れそうな距離に顔を近づけ、片桐さんは小声でそう言った。
「じゃ、仕事行ってくる。今日はゆっくり休んで、明日から賄さんよろしく」
真っ赤になったであろう私を見てクスリと笑うと、ポンポンと頭を撫でて片桐さんは廊下へ出て行ってしまった。
(なんでこうなった?????)
私の部屋を去った片桐さんが、とても美しい女の子と一階に下りる階段ですれ違ったことを、この時私はまだ知らなかった……。
「航ちゃん、誰か来てるの? 玄関に女の子の靴があったよ?」
「ああ、後で紹介する。俺の賄さん」
< 1 / 15 >