ようこそ、片桐社長のまかないさん
10 まかないさん片桐家を出る?
「うわー。航ちゃんにベッタリ。あの人昔からそうよね」
組合長の娘の姿を認めてから、私は糊で貼ったような微笑みを浮かべはじめていた。
(大丈夫。大丈夫。)
航さんが周りのおじさんたちに頭を下げてその場を去ろうとすると、隣の彼女は航さんのベンチコートの袖を掴みくっ付いて歩く。
「げ。こっち来る」
そう言って玲奈さんはテントの奥の方へと逃げて行った。響君が私の様子をチラリと伺ったのが分かった。
「おばあ様、ご無沙汰しております」
彼女は女将さんの前まで来ると深々と頭を下げた。
「まあ、本当にご無沙汰ですね、綾乃さん」
女将さんはニッコリと微笑んで端的にそう言った。その後はお互い言葉が続かず、綾乃さんは話題を探すように目を泳がせた。
「お前、その格好……寒いだろ。もっとあったかくして来いよ」
二人の様子に気を取られていたら、いつの間にか航さんが隣にいた。
「玲奈さん、私と一緒にワンピース着たかったみたい……」
貼り付けた笑顔のままそう答えた。
「あいつ……。俺への嫌がらせだな」
航さんが呟いて、なに? と訊き返すも流されてしまった。
航さんのチャックの開いたベンチコートの隙間から、さらしと真っ青なはっぴが見えた。
「お神輿、担ぐの?」と訊きながら、さらしの下に隆起する筋肉を想像して胸がキュンとなるのを感じた。
「ああ、午後から……」
「航さん、父が甘酒を皆さんに振る舞いたいと言ってたわよ。ちょっと来て」
突然話を遮って、綾乃さんが航さんの腕を引っ張る。
航さんは一瞬小さな息を吐いてから「はい、行きましょう」と言って綾乃さんに微笑んだ。
「また後でな」と、航さんは振り返りながら口でパクパクとそう言った。
綾乃さんは私には見向きもせずに行ってしまった。
「航さん、凛さんのこと気にしてましたよ。今日はついていてやれないから、気をつけてやってくれって」
一連のやり取りを見届けていた響君が言った。
「そう。まだストーカーのこと心配してくれてるんだね。ありがたい」
「……それもあるでしょうけど。凛さんが可愛いから心配なんですよ」
響君が柄にもなく励ましてくれようとしている。私はそんなにひどい顔をしていただろうか。笑っているつもりなのに。
「ありがとうね、響君……」
と言ったところで視線を感じて振り向くと、玲奈さんが目の奥を真っ暗にして後ろに立っていた。
(まずい、聴かれてたかな。)
「玲奈さん? あの、今のは響君が私に気を遣ってね?」
俯いてしまった玲奈さんの顔を必死に覗き込む。
「そんなに凛さんがいいなら、私は帰る。あとは二人で楽しんで」
玲奈さんは響君を睨みつけてそうすごんだ。ああ、うまくいかない。
「玲奈さん、違うよ。響君は……」
「玲奈、今日は一人で出歩かない約束。今一人で帰られたら困る」
響君が冷静にそう言うと、玲奈さんは顔の中心を赤くして歯を食いしばった。
「響なんかと一緒にいたくない。大っ嫌い」
周りの人たちが振り返り、一瞬ざわめきが消えた。まずい、非常にまずい。
そう思っているうちに玲奈さんは駆け出してしまった。速い。
「響君、追わないと」
「……俺は凛さんのことも航さんに頼まれてるんですが……。どうすれば」
「私は大丈夫。ここで従業員の人たちと一緒にいるから。響君は玲奈さんを追ってあげて」
それまで飄々として見えた響君が、突然すごい勢いで走り出した。
「凛さん、ありがとうございます」
「がんばれー!」
若いっていいなと、おばさんみたいなことを思った。
響君が去って、私の視線は自然と航さんを探し始める。見たくない。なのに、探さずにいられない。
遠くに、航さんにベッタリとくっつき腕を組む派手な後姿が目に入った。
触らないで欲しい。航さんのその腕は、昨夜私の身体を愛撫した腕だ。
その人は、私のことを毎夜優しく抱きしめて眠ってくれる男の人だ。
だから、触らないで。私の居場所を奪わないで。
ああ、これは。もしかして私が不倫相手なのだろうか。
気が付いてしまった。最悪なことに。
結婚までの遊び。繋ぎ。決まった相手はいるけれど、身体の関係を続ける都合の良い女。隣の部屋に住まわせて、抱きたい時に抱く、人形……。
そんな黒い妄想に囚われて、はっとする。航さんはそんな人? そんな訳、ない。
でも、好きって言われてないでしょう? 頭の中でもう一人の自分が囁く。
ストーカーから逃げるこんな面倒な女、航さんがわざわざ選ぶと思う?
頭が痛い。足が震える。この場から消えてなくなりたい。
「響、玲奈ちゃんのこと追いかけた?」
急に話し掛けられて、ビクりと肩を揺らした。振り向くと年長の根岸さんだった。
「あ……。えっと」
すぐには頭を切り替えられず口ごもってしまったけれど、根岸さんはそんなことどうでも良さそうにベンチコートのポケットに手を突っ込んで隣に来た。
「二人とも小さい時から知ってるけど、なかなかくっつかなくて。やきもきするでしょ」
「はい、うまくいかないものですね」
根岸さんはベンチコートの下に普段着を着込んでいた。
「……根岸さんはお神輿担がないんですか?」
「ああ、俺はもう年だし。今年は遠慮した」
「年って……まだ33ですよね」
たわいない話をしていると、だいぶ心が落ち着いてきた。
「社長、ストーカーのこと気にして響に頼んでたんでしょ? 俺、今日もうやることないから。テントから出る時は声掛けて。ボディーガードするから」
「え、そんな……申し訳ないです」
「いいよ。凛ちゃんが一人でフラフラしてる方が心配で落ち着かない」
ストーカーのことは少し前に航さんから従業員のみんなに話していた。とりわけ人情味あふれる根岸さんはよく気に掛けてくれている。
「では……お言葉に甘えて」
すると根岸さんが固い笑顔を浮かべた。いぶし銀な見た目の根岸さんが笑うと、なんというかギャップモエだった。
「根岸さんって笑うと可愛いですね」
「おじさんをからかわないでよ」
「根岸さんは……玲奈さんと響君を小さい頃から知ってるんですか?」
「うん。18からこの会社で働いてるから、もう十五年かな? 働き出した頃から飯は社長のうちで食べさせてもらってるからね。玲奈ちゃんはちょくちょく女将さんに預けられてたし、響もよく遊びに来てたよ」
「そうでしたか」
「響はさ、小さい頃から母親が一人で育ててたから、女将さんはほっとけなかったんだろうね。玲奈ちゃんと一緒によく預かってた。その母親は響が高校卒業する少し前に亡くなってね。響は県内の国立に受かってたんだよ、本当は。だけど進学が叶わなくなって路頭に迷ってたところを、社長が声掛けたんだよ」
響君が母親を亡くしたという話は航さんから聞いたことがあったけれど、入社した経緯までは知らなかった。
ほらほら、突っ立ってないでお昼食べなさいねと、女将さんが声を掛けてくれて、私と根岸さんは渡されるがままにテントの下のテーブルでお昼ご飯をいただいた。
自分で握ったおにぎりは味気なかったけれど、塩焼きの秋刀魚は都内では食べたことがない位に脂がのっていて美味しい。
「だからさ、多分二人は大丈夫だと思うよ」
秋刀魚を頭から豪快に食べながら根岸さんが言った。
「……二人とは?」
「響と玲奈ちゃん。玲奈ちゃんは口ではああだし、思春期以降響に冷たくなったけど、それまではずっと響の寂しさに寄り添ってるように見えた。多分、今も本当はそうなんだと思うよ。態度がキツくて分かりづらいけど」
根岸さんの言うとおりだと思った。玲奈さんは響君をとても大切に思っている。響君が思ってる以上に。
「玲奈さんが素直になれるかどうかが勝負ですね」
「そうだな」と根岸さんはまた小さく笑って、日焼けした頬に笑窪が浮かんで可愛かった。
「……根岸さんが入社した当時、航さんもまだ子供だったんですね」
「ああ、そうだね。まだ小学生だったよ。当時から綺麗な顔してて頭も良くて、俺は隣町の出身だけど名前も顔もなぜか知ってたな」
小学生当時からそうだったのか。困ったものだなそれはと思った。
「ま、ちょっと変わってたけど。でも子供らしくて可愛かったよ。好きな女の子がいるんだって一生懸命話してくれたりしてさ」
「……幼馴染の女の子とかですかね」
「そうじゃない? 他の従業員がさ、社長が高校生の時にその話でからかおうとしたら、まだ好きなんでって恥ずかしがりもせず言い放ってたよ。二十代の従業員より既にずっと大人だったなぁ」
小学生の時からずっと好きな女の子。
『航ちゃんにベッタリ。あの人昔からそうだよね』
先ほど玲奈さんが航さんにまとわりつく綾乃さんを見て言っていた言葉。
昔から?
(……違う。多分違う。そうじゃないと思う。でも。待って。違う。)
必死に最悪なシナリオを拒否しようと頭が否定的な言葉を繰り返す。
「凛」
航さんの私を呼ぶ声が混乱する頭にダイレクトに入ってきて、体が硬直した。どうにか首をねじって振り向くと、航さんと、まだまとわりついている綾乃さんがいた。
「響と玲奈は?」
テントの端っこでちょこんと並んで秋刀魚をつついていた私と根岸さんを、怪訝そうに見ながら航さんが言った。
「えーっと。ちょっと揉めまして……。響君が玲奈さんを追いかけていったよ」
「あら、玲奈ちゃんいらっしゃるの? ご挨拶したいわ」と、頭を抱える航さんのことなどお構いなく綾乃さんが隣で能天気に言った。
「それで? お前は置いて行かれたと」
航さんはため息をついて言った。
「いや、置いてかれてない。私が追いかけなさいって言ったの。私はテントに居るから大丈夫だよって諭して」
綾乃さんは何の話か分からない様子で、私と航さんを目だけ動かし交互に眺めている。
「そしたら、俺はあと15分もしたら神輿に狩り出されるから、女将に……」
航さんが言いかけたところで、根岸さんが口を開いた。
「俺がずっと一緒にいるんで大丈夫っすよ。今日は担がないんで。女将さんも忙しいだろうし」
腕を組んで小さく頷きながら根岸さんがそう言うと、航さんはちょっと意外そうな顔をして根岸さんを見た。
「いや、でも……根岸さんも好きに祭楽しみたいでしょうし……」
航さんがちょっと言いよどむと、根岸さんはキャップの下から航さんを渋い目で見上げる。
「いやいや、この年で祭を楽しみたいもなにもないっすよ。凛ちゃんの気が向いたら適当に回るだけで充分」
「いや、でも悪いですよ」航さんは急に社交的な笑顔を繰り出してそう言った。
「……いつも世話になってる賄さんを危ない目に合わせたくないのは俺も一緒だよ」
根岸さんが引かずにそう言うと、航さんは笑顔のまま妙な間をあけた。
「根岸さんもそう言ってくれてるし! 大丈夫大丈夫。そもそもそんなに心配しなくても平気だよ」
変な空気に耐えられなくて、私は笑いながら努めて明るく言った。
「でも……」と航さんがまだ納得いかなそうに口ごもる。こんな航さん珍しいと思った。
そんなところで、女将さんが大声で航さんを呼んだ。
「あんたもう神輿の時間でしょう。早く食べなさい」
そのまま航さんは炊き出しの寸胴のところまで綾乃さんに引きずっていかれ、てんやわんやとおにぎりや味噌汁を食べさせられ始めた。
綾乃さんも当然のように一緒に私が作ったおにぎりを食べ始める。
「わあ、とってもおいしいおにぎりです。作り方を是非教えていただかないと」
テントの端に居ても、綾乃さんのテンションの高い声が聞こえてきた。
「あら、これはうちの賄さんが作ったおにぎりですよ? とっても料理の腕のいい子だから、彼女に教えを乞うたらいいんじゃないかしら?」
女将さんの返しが聞こえて、飲んでいた味噌汁をブッと吐き出しそうになってしまった。なんてことをおっしゃる、女将さん。
「あら。そうでしたか。きっとお勉強よりお料理を一生懸命されてきた方なのね」
それもどういう返しなのよと、遠くで聞きながらうんざりとした。
「なんか言われてるね」と根岸さんが私の仏頂面を見て言った。
「凛ちゃんは勉強もできるのにね」
「いや、そんなことないですけど……」
富山さんにしつこく訊かれて出身大学を言ったら、勉強ができる東京の女というイメージがついたらしい。航さんに比べたら全く大したことがないので恥ずかしいだけだった。
「あの子、組合長の娘さんだって知ってる?」
「ああ、はい。前に一度お会いして……」
「じゃあ、結婚するんじゃないかって噂も聞いた?」
私は味噌汁につけた箸をそのままにして顔を上げた。
「……え?」
「社長と組合長の娘。はっきりしたことは誰も知らないけど、許嫁なんじゃないかって話だよ」
いいなずけ……? 聞き慣れない言葉に一瞬漢字変換が間に合わなかった。
「許嫁って、親同士が決めた……ってやつですか?」
「そうそう。先代の社長と、組合長が決めたんじゃない?」
それじゃあ、もうそういうことではないか。と、私は味噌汁をそっとすすった。魚の濃い出汁が出ていて、お祖母ちゃんのよく作ってくれた味噌汁を思い出した。
昔から好きな女の子と結ばれるってことか。親も公認で、おそらく結婚することで航さんの会社も大いにプラスになる。万々歳じゃないか。
「……おめでたいですね、結婚されたら」
自分がどんな顔でそう言ったか分からないけれど、必死で笑ったつもりだ。
「そうなったら、凛ちゃんはどうする?」
「え? どうするとは……」
「玲奈ちゃんは親戚だからあそこの家に居てもおかしくないけど、凛ちゃんはどうかなと思って。新婚夫婦と同じ屋根の下に他人で独身の女の子がいるってのは……」
根岸さんは追い詰めるような言い方をする。いつも優しい根岸さんが、今日はより優しく感じたり意地悪に感じたりする。私の心情の問題だろうか。
「……年が明けたら、あの家を出るつもりです」
まだそう決めたわけではなかった。玲奈さんに今朝そんなようなことを言ったけれど、まだ心が決まったわけではなかった。だけど今はもう、そう言わなくてはいけない気がした。
「一人暮らしするの?」
「はい。仕事は……ようやく女将さんのお役に立てそうなので続けたくて。近くにアパートでもあったらいいなと。でも、もし航さんが結婚されるなら、賄自体必要なくなりますかね」
二人が結婚したら、今私が暮らしている部屋で二人は生活を始めるのだろうか。綾乃さんは私の代わりに女将さんとお台所に立ち、航さんの帰りを待って、航さんの腕に抱かれて眠るのだろうか、あの部屋で。
「もし二人がほんとに結婚したとしても、社長は凛ちゃんを追い出したりしないよ。賄が必要なくなったとしても他の仕事をくれるよ」
そんな惨めな状況に陥ったら、本当にどうしよう。ストーカーのいる東京に戻った方がよっぽどマシだなと、自嘲したくなるくらいだ。
「一人暮らしは難しいよ。駅の近くまでいけばアパートはあるけど、遠すぎる。それに凛ちゃんの状況じゃ独り暮らしは危ないだろ」
「でも、婚約者がいる男の人のお宅にいつまでも泊めていただくわけにもいかないです」
現に、間違いが起きている。
「じゃあ、俺の家、来る?」
「え?」
「古民家でシェアハウスっていうのかな。三人で住んでるんだ。俺と山薙と、事務の小川美保さん独身36歳。もう一人住めるんだけど、一年以上空いてるんだわ」
「シェアハウス、ですか」
「先代が借りてくれた家なんだけどね。まあ、社宅っていうのか」
社宅なんてものがあったのか。だったら最初からそこに住まわせてもらえばよかった。航さんの隣の部屋に泊めてもらったりしたから、勘違いして間違いを起こしてしまった。
「山薙さんも一緒なんですね」
「ああ。山薙は半年前に急に社長を追いかけてフラッとこの町に来たから住む場所なくてな。あいつ、社長の大学の同期でさ。どういういきさつか知らないけど今は社長の片腕やってんだよ」
山薙さんは賄を食べに来てもあまり喋らないし、航さんも何も言わないので知らなかった。
「そう言えば今日は山薙さんいないですね」
「サボりだよ。あいつこういうの嫌いだからな。家でまだ寝てる」
根岸さんは苦笑いして、まったくあいつは、と独りごちった。
「ま、賄やるなら社長の家にいた方が楽だろうけど、そうもいかないなら考えてみて」
「……ありがとうございます」
そんな話をしていると、ワラワラと境内の中心に置かれたお神輿にはっぴを着た男たちが集まってきた。うちのテントからもベンチコートを脱いだ従業員たちが向う。
「根岸さん、すみません。凛のことお願いします」
はっぴ姿になった航さんが根岸さんにそう頭を下げた。根岸さんは笑うでもなく小さく頷いて見送った。
大きな掛け声とともに、何度かその場でお神輿を揺らし、先導に従ってはっぴを着た集団と周りを囲う人たちは鳥居を出て行った。
「神輿、着いて行かなくていいの?」
「あ、根岸さんが行かれるなら私も……」
「いや、俺は別に行きたくない。面倒」
「じゃあ、私もいいです」と、安心して同調した。もうこれ以上航さんのいつもと違う男らしい姿なんて見るべきではないと思った。
神輿はなかなか戻ってこなかった。聞くと、三時間もかけて海岸を往復するらしい。
根岸さんと私は富山さんの女たらしの話や、出身地の話、先代の社長の話なんかをしながら時間を潰して、座っているのに飽きると的屋が出ると言う参道の方まで行き、いつの間にか設置された的屋で綿あめを買ってくれた。
何度自分で払うと言っても「女の子に甘い物買うのがおじさんの幸せって知ってる?」と茶化して買わせてくれなかった。
根岸さんが居てくれて良かった。嫌なことを考えないで済む。
もう日も傾いてきた頃、ようやく神輿が戻ってきた。屈強な海の男たちがこの寒い中大汗をかいて、三時間もたっているのにエネルギーがほとばしっているのが遠目からでも見て取れた。
あの中に航さんが居るのだろうけれど、見たくなかった。
テントのテーブルに腰かけたまま目をそむけているうちに、今年のお神輿の最後の儀式? か何かが執り行われて、大拍手の内に神輿は元の場所に戻された。
そのどさくさに紛れて、航さんがやってきた。綾乃さんも神輿に着いて行ったはずだけれど、今は姿がない。
「凛。何事もなかったか?」
「何事もないですよ」と、根岸さんが先に答えた。
航さんは根岸さんには目もくれずに私の手を引いた。
「今から少しなら時間あるから。回るか? お化け屋敷、行きたいだろ?」
「あ、えっと……」
ここで根岸さんを置いて航さんとお祭に? と考えるとそれもおかしい気がした。第一、綾乃さんがいるのに。
「社長。ダメっすよ。挨拶もまだ済んでないんでしょう。見つかったらいろんな人に連れ戻されますよ」
テーブルに頬杖をついた根岸さんが冷静に言う。
「そんでお化け屋敷夕方からっすよ。まだやってない」
すると航さんはぐぬぬ、と小学生が駄々をこねるような顔をした。やめてほしい。そんな色気がダダ漏れているはっぴ姿で可愛い顔をしないで。これは拷問?
「お化け屋敷なら俺が連れて行きますから。社長は仕事してください」
航さんは私の手を掴んだまま、今度はしょんぼり顔で俯く。待って待って、本当にやめてほしい。
何も言えずにいると、航さんの手がそっと離れた。悲しげな瞳と目が合った。
「航さん見付けた!」
航さんの後ろから綾乃さんが走り込んできて背後から思い切り抱き着いた。従業員たちも戻ってきて、その流れで航さんは何処かへ連れていかれ、テントの中は汗だくの男たちでムンムンとしはじめた。
そして夕方になると、玲奈さんと響君が二人で戻ってきた。なんと、手を繋いで。
この五時間余りで何があったのだろうという興味を必死で押さえ、「勝手なことをしてごめんなさい」と響君の半歩後ろで手を繋がれながら謝る玲奈さんが可愛くて、私はデレデレとしてしまった。
二人はお化け屋敷に行くと言うので、暇な私もついて行って根岸さんをいい加減解放してあげたかったのだけれど、社長と約束した手前、と根岸さんもついてきてくれた。
玲奈さんと響君が手を繋いで前を歩くので、私はお化け屋敷どころではなく、二人の微妙な距離感や空気感にキュンキュンして仕方がなかった。
根岸さんがこっそりと、二人きりにしてあげたら? と言うので、これは野暮だったと、私と根岸さんはお化け屋敷を出るとそのまま帰路についた。
根岸さんに家まで送ってもらうと、これまた帰り道に買ってもらってしまった焼きそばとたこ焼きを二人で居間で食べ、根岸さんは帰って行った。
今日一日根岸さんにはお世話になりっぱなしで心苦しい。
もっと苦しくて耐えられそうにないことがあるけれど、それは考えないようにして無心でシャワーを浴び寝支度を整えた。
まだ8時だけれど、寝てしまおう。
……。
ベッドに潜るも眠れない。航さんのはっぴ姿や綾乃さんが航さんに触れる手が頭の中でぐるぐる回るだけだった。
仕方なく、玲奈さんと響君の空白の五時間を勝手に妄想して過ごすことにした。
妄想も尽きかけた頃に、ガチャリと部屋の戸が開いた。航さんが戻ってきた。このまま寝たふりを続けるか迷っていると、航さんが圧し掛かったのがベッドの軋みで分かった。
「凛、寝てる?」
航さんからお酒の匂いはしなかった。絶対に飲んでくるだろうと思っていたけれど、最後まで仕事をしてきたのかもしれない。
私は観念して目を開けた。
「寝ようとしてたところだよ」
すると航さんはいきなりキスをした。いつもなら、耳とか頬とか他の場所から順にするキスを、今日は最初から唇にした。
優しくて、唇がとろけてしまいそうなキスで、やめてほしいのに拒否などできなかった。
あのまま綾乃さんは帰ったのだろうか。婚前に、綾乃さんとはこんなことはしないのだろうか。
「航さん、まだはっぴ着てたの?」
唇を離した航さんはぱっぴを脱ぎ、さらしの胸を露わにした。胸が詰まる。苦しい。なんでこんなに色っぽいの。
みんなテントでぱっぴを脱いで汗を拭いていたけれど、こんな色香が漂う人なんていなかった。
「凛が脱ぐなって言っただろ?」
「え? はっぴを?」
「外では絶対脱ぐな、エロい目で見られるからって言っただろ? だから汗もちゃんと拭けてないから汗臭いぞ」
……そんなこと、覚えてくれてたの?
「脱がなかったの?」
「うん」
「……綾乃さんの前でも?」
「綾乃? ああ、お前に話してなかったけど、綾乃は……」
「お風呂、一緒に入る?」
遮るように言った。自分から綾乃さんの名前を出したくせに、航さんの口から綾乃さんの話なんて聞きたくなかった。
「え?」と、航さんは固まった。
「汗臭くないからそのままでも私はいいけど、航さんはお風呂入ってサッパリしたいでしょ? 背中流すよ」
薄暗くてはっきり分からないけれど、多分航さんは赤くなった。
自分からお風呂に誘うなんて、はしたないって思われたかな? でもそんなのもう、良かった。
「どうする?」
航さんは起き上った私を抱きしめると「一緒に入る」と言って頬にキスをしてくれた。
組合長の娘の姿を認めてから、私は糊で貼ったような微笑みを浮かべはじめていた。
(大丈夫。大丈夫。)
航さんが周りのおじさんたちに頭を下げてその場を去ろうとすると、隣の彼女は航さんのベンチコートの袖を掴みくっ付いて歩く。
「げ。こっち来る」
そう言って玲奈さんはテントの奥の方へと逃げて行った。響君が私の様子をチラリと伺ったのが分かった。
「おばあ様、ご無沙汰しております」
彼女は女将さんの前まで来ると深々と頭を下げた。
「まあ、本当にご無沙汰ですね、綾乃さん」
女将さんはニッコリと微笑んで端的にそう言った。その後はお互い言葉が続かず、綾乃さんは話題を探すように目を泳がせた。
「お前、その格好……寒いだろ。もっとあったかくして来いよ」
二人の様子に気を取られていたら、いつの間にか航さんが隣にいた。
「玲奈さん、私と一緒にワンピース着たかったみたい……」
貼り付けた笑顔のままそう答えた。
「あいつ……。俺への嫌がらせだな」
航さんが呟いて、なに? と訊き返すも流されてしまった。
航さんのチャックの開いたベンチコートの隙間から、さらしと真っ青なはっぴが見えた。
「お神輿、担ぐの?」と訊きながら、さらしの下に隆起する筋肉を想像して胸がキュンとなるのを感じた。
「ああ、午後から……」
「航さん、父が甘酒を皆さんに振る舞いたいと言ってたわよ。ちょっと来て」
突然話を遮って、綾乃さんが航さんの腕を引っ張る。
航さんは一瞬小さな息を吐いてから「はい、行きましょう」と言って綾乃さんに微笑んだ。
「また後でな」と、航さんは振り返りながら口でパクパクとそう言った。
綾乃さんは私には見向きもせずに行ってしまった。
「航さん、凛さんのこと気にしてましたよ。今日はついていてやれないから、気をつけてやってくれって」
一連のやり取りを見届けていた響君が言った。
「そう。まだストーカーのこと心配してくれてるんだね。ありがたい」
「……それもあるでしょうけど。凛さんが可愛いから心配なんですよ」
響君が柄にもなく励ましてくれようとしている。私はそんなにひどい顔をしていただろうか。笑っているつもりなのに。
「ありがとうね、響君……」
と言ったところで視線を感じて振り向くと、玲奈さんが目の奥を真っ暗にして後ろに立っていた。
(まずい、聴かれてたかな。)
「玲奈さん? あの、今のは響君が私に気を遣ってね?」
俯いてしまった玲奈さんの顔を必死に覗き込む。
「そんなに凛さんがいいなら、私は帰る。あとは二人で楽しんで」
玲奈さんは響君を睨みつけてそうすごんだ。ああ、うまくいかない。
「玲奈さん、違うよ。響君は……」
「玲奈、今日は一人で出歩かない約束。今一人で帰られたら困る」
響君が冷静にそう言うと、玲奈さんは顔の中心を赤くして歯を食いしばった。
「響なんかと一緒にいたくない。大っ嫌い」
周りの人たちが振り返り、一瞬ざわめきが消えた。まずい、非常にまずい。
そう思っているうちに玲奈さんは駆け出してしまった。速い。
「響君、追わないと」
「……俺は凛さんのことも航さんに頼まれてるんですが……。どうすれば」
「私は大丈夫。ここで従業員の人たちと一緒にいるから。響君は玲奈さんを追ってあげて」
それまで飄々として見えた響君が、突然すごい勢いで走り出した。
「凛さん、ありがとうございます」
「がんばれー!」
若いっていいなと、おばさんみたいなことを思った。
響君が去って、私の視線は自然と航さんを探し始める。見たくない。なのに、探さずにいられない。
遠くに、航さんにベッタリとくっつき腕を組む派手な後姿が目に入った。
触らないで欲しい。航さんのその腕は、昨夜私の身体を愛撫した腕だ。
その人は、私のことを毎夜優しく抱きしめて眠ってくれる男の人だ。
だから、触らないで。私の居場所を奪わないで。
ああ、これは。もしかして私が不倫相手なのだろうか。
気が付いてしまった。最悪なことに。
結婚までの遊び。繋ぎ。決まった相手はいるけれど、身体の関係を続ける都合の良い女。隣の部屋に住まわせて、抱きたい時に抱く、人形……。
そんな黒い妄想に囚われて、はっとする。航さんはそんな人? そんな訳、ない。
でも、好きって言われてないでしょう? 頭の中でもう一人の自分が囁く。
ストーカーから逃げるこんな面倒な女、航さんがわざわざ選ぶと思う?
頭が痛い。足が震える。この場から消えてなくなりたい。
「響、玲奈ちゃんのこと追いかけた?」
急に話し掛けられて、ビクりと肩を揺らした。振り向くと年長の根岸さんだった。
「あ……。えっと」
すぐには頭を切り替えられず口ごもってしまったけれど、根岸さんはそんなことどうでも良さそうにベンチコートのポケットに手を突っ込んで隣に来た。
「二人とも小さい時から知ってるけど、なかなかくっつかなくて。やきもきするでしょ」
「はい、うまくいかないものですね」
根岸さんはベンチコートの下に普段着を着込んでいた。
「……根岸さんはお神輿担がないんですか?」
「ああ、俺はもう年だし。今年は遠慮した」
「年って……まだ33ですよね」
たわいない話をしていると、だいぶ心が落ち着いてきた。
「社長、ストーカーのこと気にして響に頼んでたんでしょ? 俺、今日もうやることないから。テントから出る時は声掛けて。ボディーガードするから」
「え、そんな……申し訳ないです」
「いいよ。凛ちゃんが一人でフラフラしてる方が心配で落ち着かない」
ストーカーのことは少し前に航さんから従業員のみんなに話していた。とりわけ人情味あふれる根岸さんはよく気に掛けてくれている。
「では……お言葉に甘えて」
すると根岸さんが固い笑顔を浮かべた。いぶし銀な見た目の根岸さんが笑うと、なんというかギャップモエだった。
「根岸さんって笑うと可愛いですね」
「おじさんをからかわないでよ」
「根岸さんは……玲奈さんと響君を小さい頃から知ってるんですか?」
「うん。18からこの会社で働いてるから、もう十五年かな? 働き出した頃から飯は社長のうちで食べさせてもらってるからね。玲奈ちゃんはちょくちょく女将さんに預けられてたし、響もよく遊びに来てたよ」
「そうでしたか」
「響はさ、小さい頃から母親が一人で育ててたから、女将さんはほっとけなかったんだろうね。玲奈ちゃんと一緒によく預かってた。その母親は響が高校卒業する少し前に亡くなってね。響は県内の国立に受かってたんだよ、本当は。だけど進学が叶わなくなって路頭に迷ってたところを、社長が声掛けたんだよ」
響君が母親を亡くしたという話は航さんから聞いたことがあったけれど、入社した経緯までは知らなかった。
ほらほら、突っ立ってないでお昼食べなさいねと、女将さんが声を掛けてくれて、私と根岸さんは渡されるがままにテントの下のテーブルでお昼ご飯をいただいた。
自分で握ったおにぎりは味気なかったけれど、塩焼きの秋刀魚は都内では食べたことがない位に脂がのっていて美味しい。
「だからさ、多分二人は大丈夫だと思うよ」
秋刀魚を頭から豪快に食べながら根岸さんが言った。
「……二人とは?」
「響と玲奈ちゃん。玲奈ちゃんは口ではああだし、思春期以降響に冷たくなったけど、それまではずっと響の寂しさに寄り添ってるように見えた。多分、今も本当はそうなんだと思うよ。態度がキツくて分かりづらいけど」
根岸さんの言うとおりだと思った。玲奈さんは響君をとても大切に思っている。響君が思ってる以上に。
「玲奈さんが素直になれるかどうかが勝負ですね」
「そうだな」と根岸さんはまた小さく笑って、日焼けした頬に笑窪が浮かんで可愛かった。
「……根岸さんが入社した当時、航さんもまだ子供だったんですね」
「ああ、そうだね。まだ小学生だったよ。当時から綺麗な顔してて頭も良くて、俺は隣町の出身だけど名前も顔もなぜか知ってたな」
小学生当時からそうだったのか。困ったものだなそれはと思った。
「ま、ちょっと変わってたけど。でも子供らしくて可愛かったよ。好きな女の子がいるんだって一生懸命話してくれたりしてさ」
「……幼馴染の女の子とかですかね」
「そうじゃない? 他の従業員がさ、社長が高校生の時にその話でからかおうとしたら、まだ好きなんでって恥ずかしがりもせず言い放ってたよ。二十代の従業員より既にずっと大人だったなぁ」
小学生の時からずっと好きな女の子。
『航ちゃんにベッタリ。あの人昔からそうだよね』
先ほど玲奈さんが航さんにまとわりつく綾乃さんを見て言っていた言葉。
昔から?
(……違う。多分違う。そうじゃないと思う。でも。待って。違う。)
必死に最悪なシナリオを拒否しようと頭が否定的な言葉を繰り返す。
「凛」
航さんの私を呼ぶ声が混乱する頭にダイレクトに入ってきて、体が硬直した。どうにか首をねじって振り向くと、航さんと、まだまとわりついている綾乃さんがいた。
「響と玲奈は?」
テントの端っこでちょこんと並んで秋刀魚をつついていた私と根岸さんを、怪訝そうに見ながら航さんが言った。
「えーっと。ちょっと揉めまして……。響君が玲奈さんを追いかけていったよ」
「あら、玲奈ちゃんいらっしゃるの? ご挨拶したいわ」と、頭を抱える航さんのことなどお構いなく綾乃さんが隣で能天気に言った。
「それで? お前は置いて行かれたと」
航さんはため息をついて言った。
「いや、置いてかれてない。私が追いかけなさいって言ったの。私はテントに居るから大丈夫だよって諭して」
綾乃さんは何の話か分からない様子で、私と航さんを目だけ動かし交互に眺めている。
「そしたら、俺はあと15分もしたら神輿に狩り出されるから、女将に……」
航さんが言いかけたところで、根岸さんが口を開いた。
「俺がずっと一緒にいるんで大丈夫っすよ。今日は担がないんで。女将さんも忙しいだろうし」
腕を組んで小さく頷きながら根岸さんがそう言うと、航さんはちょっと意外そうな顔をして根岸さんを見た。
「いや、でも……根岸さんも好きに祭楽しみたいでしょうし……」
航さんがちょっと言いよどむと、根岸さんはキャップの下から航さんを渋い目で見上げる。
「いやいや、この年で祭を楽しみたいもなにもないっすよ。凛ちゃんの気が向いたら適当に回るだけで充分」
「いや、でも悪いですよ」航さんは急に社交的な笑顔を繰り出してそう言った。
「……いつも世話になってる賄さんを危ない目に合わせたくないのは俺も一緒だよ」
根岸さんが引かずにそう言うと、航さんは笑顔のまま妙な間をあけた。
「根岸さんもそう言ってくれてるし! 大丈夫大丈夫。そもそもそんなに心配しなくても平気だよ」
変な空気に耐えられなくて、私は笑いながら努めて明るく言った。
「でも……」と航さんがまだ納得いかなそうに口ごもる。こんな航さん珍しいと思った。
そんなところで、女将さんが大声で航さんを呼んだ。
「あんたもう神輿の時間でしょう。早く食べなさい」
そのまま航さんは炊き出しの寸胴のところまで綾乃さんに引きずっていかれ、てんやわんやとおにぎりや味噌汁を食べさせられ始めた。
綾乃さんも当然のように一緒に私が作ったおにぎりを食べ始める。
「わあ、とってもおいしいおにぎりです。作り方を是非教えていただかないと」
テントの端に居ても、綾乃さんのテンションの高い声が聞こえてきた。
「あら、これはうちの賄さんが作ったおにぎりですよ? とっても料理の腕のいい子だから、彼女に教えを乞うたらいいんじゃないかしら?」
女将さんの返しが聞こえて、飲んでいた味噌汁をブッと吐き出しそうになってしまった。なんてことをおっしゃる、女将さん。
「あら。そうでしたか。きっとお勉強よりお料理を一生懸命されてきた方なのね」
それもどういう返しなのよと、遠くで聞きながらうんざりとした。
「なんか言われてるね」と根岸さんが私の仏頂面を見て言った。
「凛ちゃんは勉強もできるのにね」
「いや、そんなことないですけど……」
富山さんにしつこく訊かれて出身大学を言ったら、勉強ができる東京の女というイメージがついたらしい。航さんに比べたら全く大したことがないので恥ずかしいだけだった。
「あの子、組合長の娘さんだって知ってる?」
「ああ、はい。前に一度お会いして……」
「じゃあ、結婚するんじゃないかって噂も聞いた?」
私は味噌汁につけた箸をそのままにして顔を上げた。
「……え?」
「社長と組合長の娘。はっきりしたことは誰も知らないけど、許嫁なんじゃないかって話だよ」
いいなずけ……? 聞き慣れない言葉に一瞬漢字変換が間に合わなかった。
「許嫁って、親同士が決めた……ってやつですか?」
「そうそう。先代の社長と、組合長が決めたんじゃない?」
それじゃあ、もうそういうことではないか。と、私は味噌汁をそっとすすった。魚の濃い出汁が出ていて、お祖母ちゃんのよく作ってくれた味噌汁を思い出した。
昔から好きな女の子と結ばれるってことか。親も公認で、おそらく結婚することで航さんの会社も大いにプラスになる。万々歳じゃないか。
「……おめでたいですね、結婚されたら」
自分がどんな顔でそう言ったか分からないけれど、必死で笑ったつもりだ。
「そうなったら、凛ちゃんはどうする?」
「え? どうするとは……」
「玲奈ちゃんは親戚だからあそこの家に居てもおかしくないけど、凛ちゃんはどうかなと思って。新婚夫婦と同じ屋根の下に他人で独身の女の子がいるってのは……」
根岸さんは追い詰めるような言い方をする。いつも優しい根岸さんが、今日はより優しく感じたり意地悪に感じたりする。私の心情の問題だろうか。
「……年が明けたら、あの家を出るつもりです」
まだそう決めたわけではなかった。玲奈さんに今朝そんなようなことを言ったけれど、まだ心が決まったわけではなかった。だけど今はもう、そう言わなくてはいけない気がした。
「一人暮らしするの?」
「はい。仕事は……ようやく女将さんのお役に立てそうなので続けたくて。近くにアパートでもあったらいいなと。でも、もし航さんが結婚されるなら、賄自体必要なくなりますかね」
二人が結婚したら、今私が暮らしている部屋で二人は生活を始めるのだろうか。綾乃さんは私の代わりに女将さんとお台所に立ち、航さんの帰りを待って、航さんの腕に抱かれて眠るのだろうか、あの部屋で。
「もし二人がほんとに結婚したとしても、社長は凛ちゃんを追い出したりしないよ。賄が必要なくなったとしても他の仕事をくれるよ」
そんな惨めな状況に陥ったら、本当にどうしよう。ストーカーのいる東京に戻った方がよっぽどマシだなと、自嘲したくなるくらいだ。
「一人暮らしは難しいよ。駅の近くまでいけばアパートはあるけど、遠すぎる。それに凛ちゃんの状況じゃ独り暮らしは危ないだろ」
「でも、婚約者がいる男の人のお宅にいつまでも泊めていただくわけにもいかないです」
現に、間違いが起きている。
「じゃあ、俺の家、来る?」
「え?」
「古民家でシェアハウスっていうのかな。三人で住んでるんだ。俺と山薙と、事務の小川美保さん独身36歳。もう一人住めるんだけど、一年以上空いてるんだわ」
「シェアハウス、ですか」
「先代が借りてくれた家なんだけどね。まあ、社宅っていうのか」
社宅なんてものがあったのか。だったら最初からそこに住まわせてもらえばよかった。航さんの隣の部屋に泊めてもらったりしたから、勘違いして間違いを起こしてしまった。
「山薙さんも一緒なんですね」
「ああ。山薙は半年前に急に社長を追いかけてフラッとこの町に来たから住む場所なくてな。あいつ、社長の大学の同期でさ。どういういきさつか知らないけど今は社長の片腕やってんだよ」
山薙さんは賄を食べに来てもあまり喋らないし、航さんも何も言わないので知らなかった。
「そう言えば今日は山薙さんいないですね」
「サボりだよ。あいつこういうの嫌いだからな。家でまだ寝てる」
根岸さんは苦笑いして、まったくあいつは、と独りごちった。
「ま、賄やるなら社長の家にいた方が楽だろうけど、そうもいかないなら考えてみて」
「……ありがとうございます」
そんな話をしていると、ワラワラと境内の中心に置かれたお神輿にはっぴを着た男たちが集まってきた。うちのテントからもベンチコートを脱いだ従業員たちが向う。
「根岸さん、すみません。凛のことお願いします」
はっぴ姿になった航さんが根岸さんにそう頭を下げた。根岸さんは笑うでもなく小さく頷いて見送った。
大きな掛け声とともに、何度かその場でお神輿を揺らし、先導に従ってはっぴを着た集団と周りを囲う人たちは鳥居を出て行った。
「神輿、着いて行かなくていいの?」
「あ、根岸さんが行かれるなら私も……」
「いや、俺は別に行きたくない。面倒」
「じゃあ、私もいいです」と、安心して同調した。もうこれ以上航さんのいつもと違う男らしい姿なんて見るべきではないと思った。
神輿はなかなか戻ってこなかった。聞くと、三時間もかけて海岸を往復するらしい。
根岸さんと私は富山さんの女たらしの話や、出身地の話、先代の社長の話なんかをしながら時間を潰して、座っているのに飽きると的屋が出ると言う参道の方まで行き、いつの間にか設置された的屋で綿あめを買ってくれた。
何度自分で払うと言っても「女の子に甘い物買うのがおじさんの幸せって知ってる?」と茶化して買わせてくれなかった。
根岸さんが居てくれて良かった。嫌なことを考えないで済む。
もう日も傾いてきた頃、ようやく神輿が戻ってきた。屈強な海の男たちがこの寒い中大汗をかいて、三時間もたっているのにエネルギーがほとばしっているのが遠目からでも見て取れた。
あの中に航さんが居るのだろうけれど、見たくなかった。
テントのテーブルに腰かけたまま目をそむけているうちに、今年のお神輿の最後の儀式? か何かが執り行われて、大拍手の内に神輿は元の場所に戻された。
そのどさくさに紛れて、航さんがやってきた。綾乃さんも神輿に着いて行ったはずだけれど、今は姿がない。
「凛。何事もなかったか?」
「何事もないですよ」と、根岸さんが先に答えた。
航さんは根岸さんには目もくれずに私の手を引いた。
「今から少しなら時間あるから。回るか? お化け屋敷、行きたいだろ?」
「あ、えっと……」
ここで根岸さんを置いて航さんとお祭に? と考えるとそれもおかしい気がした。第一、綾乃さんがいるのに。
「社長。ダメっすよ。挨拶もまだ済んでないんでしょう。見つかったらいろんな人に連れ戻されますよ」
テーブルに頬杖をついた根岸さんが冷静に言う。
「そんでお化け屋敷夕方からっすよ。まだやってない」
すると航さんはぐぬぬ、と小学生が駄々をこねるような顔をした。やめてほしい。そんな色気がダダ漏れているはっぴ姿で可愛い顔をしないで。これは拷問?
「お化け屋敷なら俺が連れて行きますから。社長は仕事してください」
航さんは私の手を掴んだまま、今度はしょんぼり顔で俯く。待って待って、本当にやめてほしい。
何も言えずにいると、航さんの手がそっと離れた。悲しげな瞳と目が合った。
「航さん見付けた!」
航さんの後ろから綾乃さんが走り込んできて背後から思い切り抱き着いた。従業員たちも戻ってきて、その流れで航さんは何処かへ連れていかれ、テントの中は汗だくの男たちでムンムンとしはじめた。
そして夕方になると、玲奈さんと響君が二人で戻ってきた。なんと、手を繋いで。
この五時間余りで何があったのだろうという興味を必死で押さえ、「勝手なことをしてごめんなさい」と響君の半歩後ろで手を繋がれながら謝る玲奈さんが可愛くて、私はデレデレとしてしまった。
二人はお化け屋敷に行くと言うので、暇な私もついて行って根岸さんをいい加減解放してあげたかったのだけれど、社長と約束した手前、と根岸さんもついてきてくれた。
玲奈さんと響君が手を繋いで前を歩くので、私はお化け屋敷どころではなく、二人の微妙な距離感や空気感にキュンキュンして仕方がなかった。
根岸さんがこっそりと、二人きりにしてあげたら? と言うので、これは野暮だったと、私と根岸さんはお化け屋敷を出るとそのまま帰路についた。
根岸さんに家まで送ってもらうと、これまた帰り道に買ってもらってしまった焼きそばとたこ焼きを二人で居間で食べ、根岸さんは帰って行った。
今日一日根岸さんにはお世話になりっぱなしで心苦しい。
もっと苦しくて耐えられそうにないことがあるけれど、それは考えないようにして無心でシャワーを浴び寝支度を整えた。
まだ8時だけれど、寝てしまおう。
……。
ベッドに潜るも眠れない。航さんのはっぴ姿や綾乃さんが航さんに触れる手が頭の中でぐるぐる回るだけだった。
仕方なく、玲奈さんと響君の空白の五時間を勝手に妄想して過ごすことにした。
妄想も尽きかけた頃に、ガチャリと部屋の戸が開いた。航さんが戻ってきた。このまま寝たふりを続けるか迷っていると、航さんが圧し掛かったのがベッドの軋みで分かった。
「凛、寝てる?」
航さんからお酒の匂いはしなかった。絶対に飲んでくるだろうと思っていたけれど、最後まで仕事をしてきたのかもしれない。
私は観念して目を開けた。
「寝ようとしてたところだよ」
すると航さんはいきなりキスをした。いつもなら、耳とか頬とか他の場所から順にするキスを、今日は最初から唇にした。
優しくて、唇がとろけてしまいそうなキスで、やめてほしいのに拒否などできなかった。
あのまま綾乃さんは帰ったのだろうか。婚前に、綾乃さんとはこんなことはしないのだろうか。
「航さん、まだはっぴ着てたの?」
唇を離した航さんはぱっぴを脱ぎ、さらしの胸を露わにした。胸が詰まる。苦しい。なんでこんなに色っぽいの。
みんなテントでぱっぴを脱いで汗を拭いていたけれど、こんな色香が漂う人なんていなかった。
「凛が脱ぐなって言っただろ?」
「え? はっぴを?」
「外では絶対脱ぐな、エロい目で見られるからって言っただろ? だから汗もちゃんと拭けてないから汗臭いぞ」
……そんなこと、覚えてくれてたの?
「脱がなかったの?」
「うん」
「……綾乃さんの前でも?」
「綾乃? ああ、お前に話してなかったけど、綾乃は……」
「お風呂、一緒に入る?」
遮るように言った。自分から綾乃さんの名前を出したくせに、航さんの口から綾乃さんの話なんて聞きたくなかった。
「え?」と、航さんは固まった。
「汗臭くないからそのままでも私はいいけど、航さんはお風呂入ってサッパリしたいでしょ? 背中流すよ」
薄暗くてはっきり分からないけれど、多分航さんは赤くなった。
自分からお風呂に誘うなんて、はしたないって思われたかな? でもそんなのもう、良かった。
「どうする?」
航さんは起き上った私を抱きしめると「一緒に入る」と言って頬にキスをしてくれた。