ようこそ、片桐社長のまかないさん
11 片桐社長はヤキモチを焼く
航さんの背中をスポンジでごしごしと泡立てて洗った。航さんは膝にフェイスタオルを掛け、私は体にバスタオルを巻いている。
思い切ったことを提案したけれど、私にはこれが精いっぱいだった。だって明るい。明るすぎる。
航さんの背中はごつごつしていて、腕を動かすと肩甲骨と一緒に周りの筋肉が動く。ベッドで触った時よりも目の前にした今の方がよっぽど男らしくて胸がつぶれそうになる。
こんな状況なのにまだドキドキできてしまう自分に戸惑ってしまった。
「お前も洗ってやる」
大人しく背中を洗われていた航さんが動き出した。
「いや、私はもう先ほど洗い終わってるので。結構です」
両手で拒否を示すも、航さんに腰をガッチリつかまれて離れられない。
「一緒に入ろうって言っておいて、それはダメ」
航さんは私の耳元で小さくそう言いながら、バスタオルと胸の間に指を入れ簡単にバスタオルを剥がしてくる。
「根岸さんと、お化け屋敷行った?」
バスタオルを外しながら、航さんがそんなことを冷静な声で訊く。私は航さんにしがみついて、濡れた肌が密着する度にびくりと体が震えてしまいそれどころではない。
「え……行った……けど……待って、やっぱりタオル返して」
お願いをきいてくれない航さんは、私を軽々抱き上げると膝に乗せた。
私は身体を見られないように必死で航さんにくっつく。
「お化け屋敷でもこうやって根岸さんにくっついた?」
何を言っているんだろう? からかっているのだろうか、と思っていたら、航さんがソープを手に取り、その手の平を私の胸に滑らせた。
「ま……って、ほんとに……ちょっと待って……」
変な声が出て、明るくて、手がぬるぬるしていて。もう何も考えられなかった。
「帰りは? 根岸さんに送ってもらったか?」
「え……、うん……あ、ちょっと、へんなところ……」
こっちは必死なのに、航さんは少し息を荒くしつつ質問を続ける。
「根岸さんは上がらずに帰った?」
「ううん……あの、あっ……一緒に……」
「一緒に?」と航さんは逃げる私の腰を押さえて続きを促す。
「一緒に……居間で……あっ……たこ焼き……」
たこ焼き、と風呂場に声が反響して恥ずかしくなる。この状況に似つかわしくない単語。
「たこ焼き食ったの? 居間で? 二人で?」
コクコクと懸命にうなずくと、航さんは私の肩でハーッとため息をついた。
航さんの手が止まったので、「もう流していい?」とシャワーに手を伸ばすと、「まだダメ」と言って手を引き戻され、また意地悪ぬるぬるタイムが続いた。
その後も湯船でもいじり倒され、私はハーハーと肩で呼吸するほど体力を消耗してお風呂から上がり、そのままベッドへお姫様抱っこで運ばれた。
いろいろ明るいところでばっちり見られてしまい、もうどうにでもして状態だった。
航さんは無尽蔵なのか、まったく疲れを見せずいつもよりも元気に私を抱いた。
「航さん、私明日はちょっと午前中出かけて来るね」
二度抱かれて精根尽き果てた私は、もう力も入らないまま横たわりながら、今日の内にこれだけは伝えなくてはとどうにかそう言った。
対照的にまだまだ元気な航さんは私の身体にキスをしていた唇を止めて起き上った。
「どこに? ひとりじゃ危ないだろ。明日は休みだから。一緒に行くか?」
「根岸さんが迎えに来てくれるから、大丈夫よ」
航さんはピタリと動きを止めた。
「……なんで?」
「根岸さんのいるシェアハウス、一部屋空いてるって教えてくれて。そろそろこの家を出る準備をしたいの。社宅だって聞いたけど、いい? 私が住んでも」
[side航]
「根岸さん、すみません。凛をまだこの家から出すつもりはないので、住まいのご心配をしていただかなくても大丈夫です」
凛を迎えに来た根岸さんに玄関でそう告げた。電話で断るなんてことに頭が回らなかった。今更そう思っても遅い。
「……凛ちゃんは?」
「まだ寝てます」
根岸さんは何も答えない。妙な間ができる。俺も変に取り繕う気はなかった。
「……航ちゃん、どうした。らしくないな。凛ちゃんのことしばりつけたらダメだよ。凛ちゃんはこの家を出るって自分で考えて決めてたよ」
久しぶりに根岸さんが昔のように話してきた。もうこれは従業員と雇用主の会話ではない。
「凛がこの家を出るなら、俺も出る。社宅には入らせない」
「おいおい。航ちゃんはここの主だろ。なにそんな子どもみたいなこと言ってんの」
「諒さんがいる社宅になんて危なくて置いておけるわけないでしょう」
「こら、人を暴漢のように言うな」
根岸さんが呆れたようにポケットに手を突っ込んで溜息を吐く。
「でも航ちゃん、あの子どうすんの。組合長の娘」
痛いポイントを突いて来る。いまだ解決を見ない、もっぱらの悩みの種。
「必ずどうにかする」
「それ、凛ちゃんに言えるの?」
「凛には余計なこと言わないでください」
「もたもたしてると、さらってくよ。あんないい子、なかなかいないよ」
「分かってます。ずっと好きだって昔から言ってるでしょ」
諒さんは二回瞬きをした。
「は? なにが? 凛ちゃんのこと?」
「そう」
「え? あのガキの頃から言ってた好きな女の子? 凛ちゃんなの?」
「はい。他に誰が?」
諒さんが固まってしまったので、俺は玄関脇の階段の上をチラリと見る。凛が起きてしまう。早く戻りたい。
「もういい? 戻ります」
玄関に立ち尽くす諒さんを尻目に俺は振り返りもせずに二階へと階段を上った。
凛の部屋に戻ると、まだ眠っていてホッとした。
「……航さん?」
ドアを閉める音に反応して凛が動き出した。起こしてしまった。もう少し眠っていてほしかった。
「……あれ? 今何時? めざまし……」
凛は起き上がるとスマホを探る。
「もう9時過ぎ。根岸さんには今帰ってもらった」
「もう! 航さんアラームどうやって消したの? ずるいよ、あの後だって何度も……寝かしてくれないから! 根岸さんに迷惑かけちゃったじゃない」
凛が怒っている。それはそうだ。凛は不誠実なことが何より嫌いだ。
「ごめんなさい」と、素直に謝ってみる。
「私に謝ったって仕方ないよ。今から根岸さんに謝ってくる。まだ近く歩いてるかも……」
凛が慌ててベッドから飛び降りる。
「ダメに決まってるだろ」
引き留めようと腕を掴んだ。凛は当然裸だ。
「わあ」と凛は騒ぎ毛布に包まる。こんな時まで可愛い反応をしないでほしい。
毛布ごと凛をベッドに押し倒した。
「根岸さんとはちゃんと話したから大丈夫。俺が謝っておいたから」
毛布で着ぐるみみたいになった凛の頬にキスをする。
凛はまだ怒った顔をして、プイと横を向いた。
「明日私からもちゃんと謝る。……それで年明けには社宅に住まわせてください」
また振り出しに戻ってしまった。
昨日、社宅に住みたいと言い出した凛に理由を聞いても、自立とかけじめとかそんな言葉しか出て来なかった。
だからその話は聴かなかったことにした。凛が今のこの生活を良しとしていないことなんて、本当は最初から分かっていたのだから。
「ストーカーのことが心配。お前はしっかり姿をくらましてきたつもりでも、興信所を使われたらこの町に辿り着かれるかもしれない。朝、暗いうちに社宅を出て夜遅くに帰すなんてできない」
「でもそれを言っていたらずっと私は外に出られないから」
出なくていい、ずっとここにいればいい。
「ごめんなさい。ここまで衣食住の世話をしてもらっておいて、更に社宅を貸してほしいなんて身勝手だね。本当なら所縁の無い土地に行くのが安全で、誰にも迷惑をかけないって分かってるの。でも女将さんが私を必要としてくれているうちは、勤め上げたい」
「うん」
「だから、駅前のアパートを探してみる」
「なんでそうなるんだよ。もっと危ないだろ」
「だって航さん社宅貸してくれないんでしょ」
さっきまで冷静に話していたのに、今度は拗ねたようにプイッと顔をそむける。……これ以上無自覚に惹きつけるのはやめてほしい。
「あの社宅なんてダメ。絶対。例え俺が送り迎えしたとしても、社宅自体が危ない。根岸さんはムッツリだし、山薙は何考えてるか分からない」
「根岸さん、ムッツリなの?」と、凛は急にプッと噴き出して笑う。こっちが真剣に話してると言うのに。コロコロと表情を変える。
「そう。若い頃から知ってるんだから間違いない。なのにお前、お化け屋敷にのこのこついてったり……」
凛はなかなか笑い終わらない。
「……そんなに根岸さんで笑うなよ」と、ムッとなって言った。昨日から根岸さん根岸さんと。面白くない。
「違うよ。航さんの方がよっぽどスケベなのになと思って。普段全然そう見えないのに」
凛はくすくすと笑う。
……スケベって。初めて言われた。
「それは……お前以外に対してスケベな気持ちにならないからだろ」
呆れて、またなにか少し気恥ずかしくなりながらそう言った。すると凛は今度は急に笑うのをやめて、顔をそむけながら変な顔をする。
「なに、どういう感情?」と、顔を隠そうとする凛の腕を退けた。
顔を覗き込むと真っ赤になっていた。
(いやいや。可愛すぎる。)
小さくて柔らかい耳に触れて、頬にキスをした。こうしたくなる衝動をどうしたら抑えられるのか、ここ一ヶ月ずっと考えている。
凛は小さく肩を震わせながら声が出そうなのを必死に堪え、俺のシャツの袖を懸命に握る。
「じゃあ、あと二週間な」
「え?」と、俺のキスを全身に浴びながら凛が小さく訊き返す。
「二週間後、まだお前がどうしても社宅に住みたかったら、その時は必ず叶える。だから今は……」
毛布に埋もれる凛の唇にキスをする。
「もう少し、このままでいさせて」
凛は眉をハの字に寄せ、唇を噛みながらとても小さく頷いた。
[side凛]
「凛さん。ニヤニヤするのやめてよね。いい加減に。しつこい。キモい」
玲奈さんは照れ隠しの為、ただいま一段と口が悪くなっております。
「ごめんごめん。あまりにも二人が可愛くて。凛さんキュンが止まらないのよ」
と、私はヘラヘラしながら返す。すると玲奈さんは剥いていた栗をボウルへ乱暴に投げ入れた。
「次またキュンとか言ったらコロス……」
(えーこわっ。でも可愛すぎる。)
今日は平日だけれど玲奈さんは学校が冬休みに入り、私たちは一緒におせちの下準備を手伝っていた。玲奈さんが座ってやりたいとわがままを言うので、居間で懸命に栗を剥いていく。たくさんあり過ぎて手がもう痛い。
玲奈さんと響君の空白の五時間のことは……秘密だそうだ。響君に訊いても、玲奈に怒られるので、と教えてくれない。根回しがいいことだ。
でも、付き合ったりそういう展開になったわけではないと響君がこっそり教えてくれた。なんでだ。どうしてだ。と私は勝手に焦れている。
「早く付き合えばいいのになぁ……」
おっと、ポロリと言ってしまった。照れ隠しモードになっている玲奈さんをせっつきすぎると頑なになってしまうので、あまり突っ込まずにいたというのに。
恐る恐る玲奈さんを見ると、ムスッとしたまま包丁を手に栗と睨めっこしながら口を開いた。
「凛さんこそ」
……確かに。そう言われてみれば巨大ブーメランだった。
あれから数日経ったけれど、あの日以来ここを出たいという話はしていない。期限を設けられてしまったのだ。それまでは航さんの甘々な懐柔に身を委ねるしかない……。
けじめだ自立だと喚いておいて、航さんに触れてもらえるとどんな理性も崩れ去ってしまう。私が弱いというのもある。だけど航さんがズルすぎる。
触れる手の優しさとか。自分よりも私を満足させることを楽しんでいるところとか。とろとろにとろけた顔をするのとか。無作為にばらまく色香とか。固くて細い腰と隆起した胸板とか。
思い出すだけで下腹部がギュッとなる。
一人勝手にモンモンとしていると、玲奈さんがぽつりと言った。
「凛さんのせいなんだからね」
「え?」
「凛さんがこの家に来なかったら、私、ずっと自分は航ちゃんのことが好きなんだって思い続けてたと思う。だから私たちの関係が変わったきっかけは凛さん。それに、凛さんに……」
「私に?」
「なんでもない」
「えー。気になるよ」
玲奈さんは怖い顔で栗を睨みつけながら唇を噛む。
「凛さんに響のこと取られちゃいそうで嫌だったの!!」
玲奈さんは声を張り上げて言った。
……隣のお台所に女将さんが居るというのに。大丈夫なのだろうかと心配になるくらいに大きな声だった。
「私が響君を取るわけないのにね」
「分かってるけど。でも……響は普段あんまりしゃべらないのに。凛さんとは普通にしゃべるし。凛さんのこと褒めたりするし」
「それは響君が私のこと何とも思ってないからなんだけどね。でもそっか。私が起爆剤になったのね」
玲奈さんが珍しく気持ちを話してくれて感動した。少しからかい過ぎたかなと反省していたけれど、どうやら私が思うよりもずっと響君への自分の気持ちに向き合えているみたいだ。
その時、「ごめんください」と、聞き覚えのあるあの声がした。私と玲奈さんは円卓越しに目を合わせる。
「嫌な予感がするんだけど」と、玲奈さんがため息をついた。
忙しい女将さんを煩わせまいと、私は急いで玄関に向かった。
「こんにちは。先日のお祭ではご挨拶もできずごめんなさい」
予想通り、綾乃さんだった。何をしに来たのか、今日は青い花柄のワンピースをお召しになり、目がしばしばするような発色の良い化粧をしていた。
「……いえ、こちらこそ」
「女将さんはいらっしゃるかしら。今日はお手伝いをしに来たの」
(……お手伝い?)
一先ず居間に綾乃さんを通すと、玲奈さんがあからさまに「げっ」という顔をした。
「玲奈ちゃん、お久しぶりです。お元気?」
「……元気です」
助けを求めるような目で見てくる玲奈さんを置いて私はお台所の女将さんを呼びに行った。
どうやら、綾乃さんが突然やって来たということらしい。女将さんは戸惑った様子だった。
「じゃあ、綾乃さんも栗を剥いてくれる?」
女将さんが言うと、玲奈さんは「え……」と小さく言い、私は綾乃さんの分の包丁とまな板を取りにお台所へ戻った。
まな板をシンクの下の棚から取り出してから、お台所を見渡した。私はこの清潔でステンレスがテラテラしたいつも良い匂いが漂う空間が大好きだった。
侵さないでほしい。私の大切な場所だ。
栗を手にした綾乃さんは、何度も首を傾げながらまな板に置き、ドンとおもむろに栗を半分に切った。
そういう剥き方もあるのだろうか? と考えていると、綾乃さんは鬼皮から実を外し渋皮を指で剥がそうとし始める。
女将さんはその様子を立ったまま眺めていたけれど、何も言わずにお台所へ戻っていってしまった。
「あら、この栗はあまりちゃんと剥けないわ」と綾乃さんが独り言を言う。
「綾乃さん、栗は一晩水に漬けてありますので、お尻を落とすとスルッと剥けますよ。それと、渋皮は包丁で剥いた方が良いかと……」
すると綾乃さんはジェルでピンク色に染めた爪で渋皮と懸命に格闘しながら「分かってるわ」と言った。
そして私の目をチラチラと気にしながら、渋皮に包丁を使い始めた。
(なんというか。可愛い人なんだな。)
そう思ってしまって、なんだか笑ってしまった。
「なにか? バカにしてます?」
綾乃さんは必死にそう言った。
「いえ、栗を剥く姿が可愛らしくてつい」
「やっぱりバカにしてますね?」
ちょっと涙目になりながら言うので、私は余計に笑ってしまった。
「栗の皮の剥き方なんて、これから覚えたらいいんですよ」
私が言うと、綾乃さんはボコボコに小さくなってしまった栗をボウルに入れてバツが悪そうに言った。
「……栗のお尻を落とすとはどういうことですか?」
私は剥き方を一度やって見せ、綾乃さんは「もう分かりました」と危なっかしい手つきで真似て剥き始める。
玲奈さんはそんなやり取りを他人事のように眺めながら自分の分をひたすらに剥いていった。
綾乃さんがお手洗いに立つと、玲奈さんは包丁を置いた。
「あの人に親切にしなくていいのに」と小さな声で呟く。
私は軽くため息をついた。
「なんで?」
「昔から嫌いだから」
昔から玲奈さんが綾乃さんを嫌いなのは、やはり航さんが綾乃さんのことをずっと好きだったからだろうか。
「綾乃さんは……航さんの幼馴染なんでしょ?」
「幼馴染っていうか。まあ、小中学校一緒だったってだけよ。……多いのよ。航ちゃんと学校が一緒ってだけで勝手に特別な女気取りになる人」
「でも、綾乃さんは組合長の娘さんなんでしょう?」
「その立場を利用してうちに入り込んで来てるんだよ。怖いよね」
とにかく玲奈さんが綾乃さんを嫌っていることは良く分かった。
「でも、料理を手伝いに来たのなんて初めてよ。……お祭で凛さんのこと知って勝手に対抗意識燃やしてるのかな」
「だとしたら可愛いね。お料理苦手みたいなのに乗り込んでくるなんて、一生懸命で」
「そんな呑気なこと言って。嫌味?」
「違うよ。……綾乃さんみたいな人好きなんだよ、私」
嘘がつけない、真っ直ぐぶつかってくる人が好きなのだ。隠し事のできない人が好きなのだ。
「凛さん、早く航ちゃんと付き合ってよ。じゃないとああいう女が後を絶たない」
どうやら玲奈さんは二人の結婚の噂を知らないようだ。
「付き合うなんてことはもう……ないかな……」
玲奈さんは元々大きな目をさらに開いて驚いたように見る。
なにか言いかけていたけれど、綾乃さんが戻ってきたのでその話は終わった。
大量の栗をようやく剥き終え、次はお台所で大根と人参の皮をむき始めた。玲奈さんはもう飽きたと言って部屋に戻ってしまい、女将さんも休憩の時間だったので綾乃さんと二人きりになる。
綾乃さんはピーラーで懸命に大根の皮をむいている。
「凛さんはお料理のお勉強をしてらしたの?」
ピーラーでさえ指を切ってしまいそうで見ていてハラハラする。
「いえ、母と祖母に教わっただけです」
「そうなのね。私はお勉強やピアノばかりで。お恥ずかしいわ。そろそろ結婚の為にもお料理を覚えなくちゃと思っているのだけど」
「……料理なんて必要に迫られれば誰だってできますから」
「そうね。我が家は家政婦さんがすべてやってしまうから……。凛さんはなぜここで家政婦の仕事を?」
そう言えば、綾乃さんは私がここに住み込みをしていると知っているのだろうか? ……余計なことは言わない方が良さそうだ。
「前職を辞めてしまったので。仕事の無い私を航さんが雇ってくれているだけです」
「そう。ご苦労されているのね」
綾乃さんは、ピーラーを懸命に握る手を止めた。
「でも、結婚したらあなたにはこの家を出て行っていただかないといけないわ」
私は包丁で大根の皮をむく手を止めた。
思い切ったことを提案したけれど、私にはこれが精いっぱいだった。だって明るい。明るすぎる。
航さんの背中はごつごつしていて、腕を動かすと肩甲骨と一緒に周りの筋肉が動く。ベッドで触った時よりも目の前にした今の方がよっぽど男らしくて胸がつぶれそうになる。
こんな状況なのにまだドキドキできてしまう自分に戸惑ってしまった。
「お前も洗ってやる」
大人しく背中を洗われていた航さんが動き出した。
「いや、私はもう先ほど洗い終わってるので。結構です」
両手で拒否を示すも、航さんに腰をガッチリつかまれて離れられない。
「一緒に入ろうって言っておいて、それはダメ」
航さんは私の耳元で小さくそう言いながら、バスタオルと胸の間に指を入れ簡単にバスタオルを剥がしてくる。
「根岸さんと、お化け屋敷行った?」
バスタオルを外しながら、航さんがそんなことを冷静な声で訊く。私は航さんにしがみついて、濡れた肌が密着する度にびくりと体が震えてしまいそれどころではない。
「え……行った……けど……待って、やっぱりタオル返して」
お願いをきいてくれない航さんは、私を軽々抱き上げると膝に乗せた。
私は身体を見られないように必死で航さんにくっつく。
「お化け屋敷でもこうやって根岸さんにくっついた?」
何を言っているんだろう? からかっているのだろうか、と思っていたら、航さんがソープを手に取り、その手の平を私の胸に滑らせた。
「ま……って、ほんとに……ちょっと待って……」
変な声が出て、明るくて、手がぬるぬるしていて。もう何も考えられなかった。
「帰りは? 根岸さんに送ってもらったか?」
「え……、うん……あ、ちょっと、へんなところ……」
こっちは必死なのに、航さんは少し息を荒くしつつ質問を続ける。
「根岸さんは上がらずに帰った?」
「ううん……あの、あっ……一緒に……」
「一緒に?」と航さんは逃げる私の腰を押さえて続きを促す。
「一緒に……居間で……あっ……たこ焼き……」
たこ焼き、と風呂場に声が反響して恥ずかしくなる。この状況に似つかわしくない単語。
「たこ焼き食ったの? 居間で? 二人で?」
コクコクと懸命にうなずくと、航さんは私の肩でハーッとため息をついた。
航さんの手が止まったので、「もう流していい?」とシャワーに手を伸ばすと、「まだダメ」と言って手を引き戻され、また意地悪ぬるぬるタイムが続いた。
その後も湯船でもいじり倒され、私はハーハーと肩で呼吸するほど体力を消耗してお風呂から上がり、そのままベッドへお姫様抱っこで運ばれた。
いろいろ明るいところでばっちり見られてしまい、もうどうにでもして状態だった。
航さんは無尽蔵なのか、まったく疲れを見せずいつもよりも元気に私を抱いた。
「航さん、私明日はちょっと午前中出かけて来るね」
二度抱かれて精根尽き果てた私は、もう力も入らないまま横たわりながら、今日の内にこれだけは伝えなくてはとどうにかそう言った。
対照的にまだまだ元気な航さんは私の身体にキスをしていた唇を止めて起き上った。
「どこに? ひとりじゃ危ないだろ。明日は休みだから。一緒に行くか?」
「根岸さんが迎えに来てくれるから、大丈夫よ」
航さんはピタリと動きを止めた。
「……なんで?」
「根岸さんのいるシェアハウス、一部屋空いてるって教えてくれて。そろそろこの家を出る準備をしたいの。社宅だって聞いたけど、いい? 私が住んでも」
[side航]
「根岸さん、すみません。凛をまだこの家から出すつもりはないので、住まいのご心配をしていただかなくても大丈夫です」
凛を迎えに来た根岸さんに玄関でそう告げた。電話で断るなんてことに頭が回らなかった。今更そう思っても遅い。
「……凛ちゃんは?」
「まだ寝てます」
根岸さんは何も答えない。妙な間ができる。俺も変に取り繕う気はなかった。
「……航ちゃん、どうした。らしくないな。凛ちゃんのことしばりつけたらダメだよ。凛ちゃんはこの家を出るって自分で考えて決めてたよ」
久しぶりに根岸さんが昔のように話してきた。もうこれは従業員と雇用主の会話ではない。
「凛がこの家を出るなら、俺も出る。社宅には入らせない」
「おいおい。航ちゃんはここの主だろ。なにそんな子どもみたいなこと言ってんの」
「諒さんがいる社宅になんて危なくて置いておけるわけないでしょう」
「こら、人を暴漢のように言うな」
根岸さんが呆れたようにポケットに手を突っ込んで溜息を吐く。
「でも航ちゃん、あの子どうすんの。組合長の娘」
痛いポイントを突いて来る。いまだ解決を見ない、もっぱらの悩みの種。
「必ずどうにかする」
「それ、凛ちゃんに言えるの?」
「凛には余計なこと言わないでください」
「もたもたしてると、さらってくよ。あんないい子、なかなかいないよ」
「分かってます。ずっと好きだって昔から言ってるでしょ」
諒さんは二回瞬きをした。
「は? なにが? 凛ちゃんのこと?」
「そう」
「え? あのガキの頃から言ってた好きな女の子? 凛ちゃんなの?」
「はい。他に誰が?」
諒さんが固まってしまったので、俺は玄関脇の階段の上をチラリと見る。凛が起きてしまう。早く戻りたい。
「もういい? 戻ります」
玄関に立ち尽くす諒さんを尻目に俺は振り返りもせずに二階へと階段を上った。
凛の部屋に戻ると、まだ眠っていてホッとした。
「……航さん?」
ドアを閉める音に反応して凛が動き出した。起こしてしまった。もう少し眠っていてほしかった。
「……あれ? 今何時? めざまし……」
凛は起き上がるとスマホを探る。
「もう9時過ぎ。根岸さんには今帰ってもらった」
「もう! 航さんアラームどうやって消したの? ずるいよ、あの後だって何度も……寝かしてくれないから! 根岸さんに迷惑かけちゃったじゃない」
凛が怒っている。それはそうだ。凛は不誠実なことが何より嫌いだ。
「ごめんなさい」と、素直に謝ってみる。
「私に謝ったって仕方ないよ。今から根岸さんに謝ってくる。まだ近く歩いてるかも……」
凛が慌ててベッドから飛び降りる。
「ダメに決まってるだろ」
引き留めようと腕を掴んだ。凛は当然裸だ。
「わあ」と凛は騒ぎ毛布に包まる。こんな時まで可愛い反応をしないでほしい。
毛布ごと凛をベッドに押し倒した。
「根岸さんとはちゃんと話したから大丈夫。俺が謝っておいたから」
毛布で着ぐるみみたいになった凛の頬にキスをする。
凛はまだ怒った顔をして、プイと横を向いた。
「明日私からもちゃんと謝る。……それで年明けには社宅に住まわせてください」
また振り出しに戻ってしまった。
昨日、社宅に住みたいと言い出した凛に理由を聞いても、自立とかけじめとかそんな言葉しか出て来なかった。
だからその話は聴かなかったことにした。凛が今のこの生活を良しとしていないことなんて、本当は最初から分かっていたのだから。
「ストーカーのことが心配。お前はしっかり姿をくらましてきたつもりでも、興信所を使われたらこの町に辿り着かれるかもしれない。朝、暗いうちに社宅を出て夜遅くに帰すなんてできない」
「でもそれを言っていたらずっと私は外に出られないから」
出なくていい、ずっとここにいればいい。
「ごめんなさい。ここまで衣食住の世話をしてもらっておいて、更に社宅を貸してほしいなんて身勝手だね。本当なら所縁の無い土地に行くのが安全で、誰にも迷惑をかけないって分かってるの。でも女将さんが私を必要としてくれているうちは、勤め上げたい」
「うん」
「だから、駅前のアパートを探してみる」
「なんでそうなるんだよ。もっと危ないだろ」
「だって航さん社宅貸してくれないんでしょ」
さっきまで冷静に話していたのに、今度は拗ねたようにプイッと顔をそむける。……これ以上無自覚に惹きつけるのはやめてほしい。
「あの社宅なんてダメ。絶対。例え俺が送り迎えしたとしても、社宅自体が危ない。根岸さんはムッツリだし、山薙は何考えてるか分からない」
「根岸さん、ムッツリなの?」と、凛は急にプッと噴き出して笑う。こっちが真剣に話してると言うのに。コロコロと表情を変える。
「そう。若い頃から知ってるんだから間違いない。なのにお前、お化け屋敷にのこのこついてったり……」
凛はなかなか笑い終わらない。
「……そんなに根岸さんで笑うなよ」と、ムッとなって言った。昨日から根岸さん根岸さんと。面白くない。
「違うよ。航さんの方がよっぽどスケベなのになと思って。普段全然そう見えないのに」
凛はくすくすと笑う。
……スケベって。初めて言われた。
「それは……お前以外に対してスケベな気持ちにならないからだろ」
呆れて、またなにか少し気恥ずかしくなりながらそう言った。すると凛は今度は急に笑うのをやめて、顔をそむけながら変な顔をする。
「なに、どういう感情?」と、顔を隠そうとする凛の腕を退けた。
顔を覗き込むと真っ赤になっていた。
(いやいや。可愛すぎる。)
小さくて柔らかい耳に触れて、頬にキスをした。こうしたくなる衝動をどうしたら抑えられるのか、ここ一ヶ月ずっと考えている。
凛は小さく肩を震わせながら声が出そうなのを必死に堪え、俺のシャツの袖を懸命に握る。
「じゃあ、あと二週間な」
「え?」と、俺のキスを全身に浴びながら凛が小さく訊き返す。
「二週間後、まだお前がどうしても社宅に住みたかったら、その時は必ず叶える。だから今は……」
毛布に埋もれる凛の唇にキスをする。
「もう少し、このままでいさせて」
凛は眉をハの字に寄せ、唇を噛みながらとても小さく頷いた。
[side凛]
「凛さん。ニヤニヤするのやめてよね。いい加減に。しつこい。キモい」
玲奈さんは照れ隠しの為、ただいま一段と口が悪くなっております。
「ごめんごめん。あまりにも二人が可愛くて。凛さんキュンが止まらないのよ」
と、私はヘラヘラしながら返す。すると玲奈さんは剥いていた栗をボウルへ乱暴に投げ入れた。
「次またキュンとか言ったらコロス……」
(えーこわっ。でも可愛すぎる。)
今日は平日だけれど玲奈さんは学校が冬休みに入り、私たちは一緒におせちの下準備を手伝っていた。玲奈さんが座ってやりたいとわがままを言うので、居間で懸命に栗を剥いていく。たくさんあり過ぎて手がもう痛い。
玲奈さんと響君の空白の五時間のことは……秘密だそうだ。響君に訊いても、玲奈に怒られるので、と教えてくれない。根回しがいいことだ。
でも、付き合ったりそういう展開になったわけではないと響君がこっそり教えてくれた。なんでだ。どうしてだ。と私は勝手に焦れている。
「早く付き合えばいいのになぁ……」
おっと、ポロリと言ってしまった。照れ隠しモードになっている玲奈さんをせっつきすぎると頑なになってしまうので、あまり突っ込まずにいたというのに。
恐る恐る玲奈さんを見ると、ムスッとしたまま包丁を手に栗と睨めっこしながら口を開いた。
「凛さんこそ」
……確かに。そう言われてみれば巨大ブーメランだった。
あれから数日経ったけれど、あの日以来ここを出たいという話はしていない。期限を設けられてしまったのだ。それまでは航さんの甘々な懐柔に身を委ねるしかない……。
けじめだ自立だと喚いておいて、航さんに触れてもらえるとどんな理性も崩れ去ってしまう。私が弱いというのもある。だけど航さんがズルすぎる。
触れる手の優しさとか。自分よりも私を満足させることを楽しんでいるところとか。とろとろにとろけた顔をするのとか。無作為にばらまく色香とか。固くて細い腰と隆起した胸板とか。
思い出すだけで下腹部がギュッとなる。
一人勝手にモンモンとしていると、玲奈さんがぽつりと言った。
「凛さんのせいなんだからね」
「え?」
「凛さんがこの家に来なかったら、私、ずっと自分は航ちゃんのことが好きなんだって思い続けてたと思う。だから私たちの関係が変わったきっかけは凛さん。それに、凛さんに……」
「私に?」
「なんでもない」
「えー。気になるよ」
玲奈さんは怖い顔で栗を睨みつけながら唇を噛む。
「凛さんに響のこと取られちゃいそうで嫌だったの!!」
玲奈さんは声を張り上げて言った。
……隣のお台所に女将さんが居るというのに。大丈夫なのだろうかと心配になるくらいに大きな声だった。
「私が響君を取るわけないのにね」
「分かってるけど。でも……響は普段あんまりしゃべらないのに。凛さんとは普通にしゃべるし。凛さんのこと褒めたりするし」
「それは響君が私のこと何とも思ってないからなんだけどね。でもそっか。私が起爆剤になったのね」
玲奈さんが珍しく気持ちを話してくれて感動した。少しからかい過ぎたかなと反省していたけれど、どうやら私が思うよりもずっと響君への自分の気持ちに向き合えているみたいだ。
その時、「ごめんください」と、聞き覚えのあるあの声がした。私と玲奈さんは円卓越しに目を合わせる。
「嫌な予感がするんだけど」と、玲奈さんがため息をついた。
忙しい女将さんを煩わせまいと、私は急いで玄関に向かった。
「こんにちは。先日のお祭ではご挨拶もできずごめんなさい」
予想通り、綾乃さんだった。何をしに来たのか、今日は青い花柄のワンピースをお召しになり、目がしばしばするような発色の良い化粧をしていた。
「……いえ、こちらこそ」
「女将さんはいらっしゃるかしら。今日はお手伝いをしに来たの」
(……お手伝い?)
一先ず居間に綾乃さんを通すと、玲奈さんがあからさまに「げっ」という顔をした。
「玲奈ちゃん、お久しぶりです。お元気?」
「……元気です」
助けを求めるような目で見てくる玲奈さんを置いて私はお台所の女将さんを呼びに行った。
どうやら、綾乃さんが突然やって来たということらしい。女将さんは戸惑った様子だった。
「じゃあ、綾乃さんも栗を剥いてくれる?」
女将さんが言うと、玲奈さんは「え……」と小さく言い、私は綾乃さんの分の包丁とまな板を取りにお台所へ戻った。
まな板をシンクの下の棚から取り出してから、お台所を見渡した。私はこの清潔でステンレスがテラテラしたいつも良い匂いが漂う空間が大好きだった。
侵さないでほしい。私の大切な場所だ。
栗を手にした綾乃さんは、何度も首を傾げながらまな板に置き、ドンとおもむろに栗を半分に切った。
そういう剥き方もあるのだろうか? と考えていると、綾乃さんは鬼皮から実を外し渋皮を指で剥がそうとし始める。
女将さんはその様子を立ったまま眺めていたけれど、何も言わずにお台所へ戻っていってしまった。
「あら、この栗はあまりちゃんと剥けないわ」と綾乃さんが独り言を言う。
「綾乃さん、栗は一晩水に漬けてありますので、お尻を落とすとスルッと剥けますよ。それと、渋皮は包丁で剥いた方が良いかと……」
すると綾乃さんはジェルでピンク色に染めた爪で渋皮と懸命に格闘しながら「分かってるわ」と言った。
そして私の目をチラチラと気にしながら、渋皮に包丁を使い始めた。
(なんというか。可愛い人なんだな。)
そう思ってしまって、なんだか笑ってしまった。
「なにか? バカにしてます?」
綾乃さんは必死にそう言った。
「いえ、栗を剥く姿が可愛らしくてつい」
「やっぱりバカにしてますね?」
ちょっと涙目になりながら言うので、私は余計に笑ってしまった。
「栗の皮の剥き方なんて、これから覚えたらいいんですよ」
私が言うと、綾乃さんはボコボコに小さくなってしまった栗をボウルに入れてバツが悪そうに言った。
「……栗のお尻を落とすとはどういうことですか?」
私は剥き方を一度やって見せ、綾乃さんは「もう分かりました」と危なっかしい手つきで真似て剥き始める。
玲奈さんはそんなやり取りを他人事のように眺めながら自分の分をひたすらに剥いていった。
綾乃さんがお手洗いに立つと、玲奈さんは包丁を置いた。
「あの人に親切にしなくていいのに」と小さな声で呟く。
私は軽くため息をついた。
「なんで?」
「昔から嫌いだから」
昔から玲奈さんが綾乃さんを嫌いなのは、やはり航さんが綾乃さんのことをずっと好きだったからだろうか。
「綾乃さんは……航さんの幼馴染なんでしょ?」
「幼馴染っていうか。まあ、小中学校一緒だったってだけよ。……多いのよ。航ちゃんと学校が一緒ってだけで勝手に特別な女気取りになる人」
「でも、綾乃さんは組合長の娘さんなんでしょう?」
「その立場を利用してうちに入り込んで来てるんだよ。怖いよね」
とにかく玲奈さんが綾乃さんを嫌っていることは良く分かった。
「でも、料理を手伝いに来たのなんて初めてよ。……お祭で凛さんのこと知って勝手に対抗意識燃やしてるのかな」
「だとしたら可愛いね。お料理苦手みたいなのに乗り込んでくるなんて、一生懸命で」
「そんな呑気なこと言って。嫌味?」
「違うよ。……綾乃さんみたいな人好きなんだよ、私」
嘘がつけない、真っ直ぐぶつかってくる人が好きなのだ。隠し事のできない人が好きなのだ。
「凛さん、早く航ちゃんと付き合ってよ。じゃないとああいう女が後を絶たない」
どうやら玲奈さんは二人の結婚の噂を知らないようだ。
「付き合うなんてことはもう……ないかな……」
玲奈さんは元々大きな目をさらに開いて驚いたように見る。
なにか言いかけていたけれど、綾乃さんが戻ってきたのでその話は終わった。
大量の栗をようやく剥き終え、次はお台所で大根と人参の皮をむき始めた。玲奈さんはもう飽きたと言って部屋に戻ってしまい、女将さんも休憩の時間だったので綾乃さんと二人きりになる。
綾乃さんはピーラーで懸命に大根の皮をむいている。
「凛さんはお料理のお勉強をしてらしたの?」
ピーラーでさえ指を切ってしまいそうで見ていてハラハラする。
「いえ、母と祖母に教わっただけです」
「そうなのね。私はお勉強やピアノばかりで。お恥ずかしいわ。そろそろ結婚の為にもお料理を覚えなくちゃと思っているのだけど」
「……料理なんて必要に迫られれば誰だってできますから」
「そうね。我が家は家政婦さんがすべてやってしまうから……。凛さんはなぜここで家政婦の仕事を?」
そう言えば、綾乃さんは私がここに住み込みをしていると知っているのだろうか? ……余計なことは言わない方が良さそうだ。
「前職を辞めてしまったので。仕事の無い私を航さんが雇ってくれているだけです」
「そう。ご苦労されているのね」
綾乃さんは、ピーラーを懸命に握る手を止めた。
「でも、結婚したらあなたにはこの家を出て行っていただかないといけないわ」
私は包丁で大根の皮をむく手を止めた。