ようこそ、片桐社長のまかないさん

12 片桐社長の恋人さん

「私がここに住んでいること、ご存じだったんですね」

なぜか綾乃さんの顔が見られなかった。

「やっぱりそうなのね。父がそのようなことを言っていたので。気になっていたの。それは……困るわ」

「……準備が整い次第、私は来月には社宅に引っ越します」

「そうなの? それまではここに?」

「はい……」

私は、浮気相手のようなポジションなのだろうか。なぜか責められている気分だった。

「綾乃さんと航さんはいつ頃ご結婚の予定なんですか?」

私は止まっていた手を動かし始めた。いけない。女将さんが戻ってくるまでにすべて千切りにしておかなくては。

「……まだ決まってないわ。父が決めることよ」

そうなんですね、という返事をしようとしたけれど、喉が詰まってできなかった。

その後はもう、超高速で大根と人参を細く細く千切りにすることに集中しおしゃべりも続かなかった。

綾乃さんには、今晩の味噌汁用に普通の千切りをお願いたので、綾乃さんもそれに全力を注いでいた。

その夜の航さんの帰りは早く、従業員と一緒だった。

居間に私と女将さんの姿がなかったからか、お台所に顔を出した航さんは、お盆にお料理を乗せようとしている綾乃さんを見てぎょっとしていた。

「綾乃? なんでいるんだよ」

「おかえりなさい。今日はおばあ様のお手伝いに来たの。見て、このお味噌汁の具の千切り私がやったのよ」

「仕事はどうした」

「一日くらいいいのよ。父も行って来いって」

忙しくて構っていられない私は女将さんと一緒に次々と盛り付けをこなしていく。

ああ、大葉が足りない、と気が付いて慌てて廊下に出た。女将さんが庭で育てている大葉をつみに行くのだ。

「凛」と、航さんが台所から追いかけてきた。玄関で靴を履いたところで捕まる。

「ただいま」と、航さんは靴下で玄関に下りて私を抱きしめた。

「航さん、靴下汚れるよ」

「だって凛がズンズン行くから」

最近は二人きりになると、隠れてこうされることが多い。とりわけ帰宅後はくっつきたがる。

本格的に寒くなってきて人肌恋しいのだろうか。なにも綾乃さんが居る時にしなくてもいいのにと、思う。

綾乃さんを置いて、私を追いかけてきてくれたことを嬉しく思う気持ちが沸々と沸いてきて、なにか心が千切れそうになる。どうしたらいいのか、分からない。

「航さん、私、綾乃さんに余計なこと言ってないから。大丈夫だよ」

ふと、そう言った。

「……なにが?」

と航さんが訊いたところで、ガラッと玄関の引き戸が開いた。驚いて見ると、響君だった。

私は慌てて航さんの腕を引きはがそうとするも、航さんは微動だにしない。

響君はいつもの無表情で私と航さんを見る。

「おかえり響、お疲れ」

「お疲れ様です。車入れ替えておきました」

「ありがとう」

私を抱きしめたまま、何事もない風に二人の会話が進んでいく。そして響君は私と航さんの隣でしれっと靴を脱ぎ行ってしまおうとする。

「ちょっと待った」と、航さんの腕の中で暴れながら私は響君を引き留めた。

ようやく脱出して響君の腕を掴む。

「なんですか」と、響君は心底嫌そうに私を見る。

「玲奈さんに言わないでね。ね? 言うでしょう? 玲奈さんにはいろいろ言うでしょう? でも言わないでね? ね?」

「一刻も早く居間に行きたいんですけど。もういいですか?」

響君はそう言うと直ぐに踵を返し早足で行ってしまった。

見ていた航さんはプッと噴き出し、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「よっぽどお腹空いてたのかな」

と、響君のあまりの冷たさに私がそう言うと、航さんが「違うだろ」と笑いながら言う。

「玲奈に早く会いたいんだろ」

「あ、そういうこと……」

「仕事してると、早く会いたくて早く帰りたくて堪らなくなるんだよ」

そう言いながら、航さんは再び私を引き寄せる。

「航さん、私、大葉を取りに行かないと。また誰かに見られたら困るし」

「……もう少しだけ」

航さんの帰宅後の甘えたは、響君みたいに、会いたくて堪らなかったから。

そうだったら嬉しいけれど、きっと困る。さっきから感情があっちこっちに引っ張られ続けている。

そんなことをしていると、居間から綾乃さんが航さんを探す声が聞こえ、私はこんなことをしている場合ではなかったと庭へ大葉を採りに行った。

綾乃さんは当然のように航さんの隣を陣取り、私はいつものポジションを追われ根岸さんが空けてくれた彼の隣にちょこんと座って食べた。

綾乃さんは上機嫌に航さんにたくさん話し掛け、航さんは仕事用の笑顔を向けているように見えた。従業員たちはそんな二人に気を遣っているのか普段のように騒いだりせず静かに食事をした。

私はふと、食べていた味噌汁を円卓に置いた。

いつもと違う活気のない従業員たち。いつもと違う席で食べる夕食。黙々と食べる女将さんと玲奈さん。張り付いたような笑顔で綾乃さんとばかり話す航さん。

ここはどこだろう、と思った。私の好きな片桐家ではなかった。

片付けもやると綾乃さんが引かないので、食器の拭き上げをお願いした。

片づけを終えて、夕方の内に終わらなかった明日の朝食と弁当の仕込みをしていると、航さんがお台所を覗いた。

「綾乃を送ってくる」

航さんが言うと、綾乃さんがお台所に一歩入って頭を下げた。私と女将さんは手を止め、否応なく玄関まで二人を送った。

「今日はお役にたてず、逆にお手間を増やしてしまったようで申し訳ありませんでした」

お嬢様の気軽な花嫁修業に付き合わされた形で、実際私も女将さんもいつもより手を止められていた。けれど、女将さんは文句を言うでも褒めるでもけなすでも教えるでもなく、ただ綾乃さんをしたいようにさせていた。

「いえいえ、お父様によろしくお伝えくださいね」

そう頭を下げると、女将さんは最後まで見送らずにお台所に戻っていった。

ああ、女将さんは……。彼女を損得勘定で見ているのだ。最後の挨拶を聞いて、そう思ってしまった。

「あ、やべ。昨日のスーツに免許入れっぱなしだった。凛、昨日のスーツは?」

「私の部屋に……干してあるけど……」

言った後にまずい、と思った。私の部屋に航さんのスーツが干してあるのはおかしいだろう。

「あーそうか。取って来る」

「私が取って来るよ」

「いや、大丈夫大丈夫」

そう言うと航さんは靴を脱いで階段を上って行ってしまった。

綾乃さんの顔を見られない。困った。

「なぜ凛さんの部屋に航さんのスーツが?」

ほら来た。と私は頭を抱えた。嘘はつきたくないけれど、どうしたものか。

「私の部屋は航さんの部屋のお隣で、脱いだスーツは私の部屋で消臭除菌スプレーをして干したり、クリーニングに出す管理をしています」

事実だ。何も嘘は言っていない。

綾乃さんは何も答えなかった。なんだろう。この罪悪感は。

ようやく航さんがパスケースを片手に二階から下りて来た。長い沈黙から解放されたと息をついた時、綾乃さんが口を開いた。

「航さん、父が早く結婚をと言っています」

私は顔を上げた。綾乃さんはとても強い眼差しで私を見ていた。

「綾乃、その話は……」

「結婚は、あなたのお父様が望まれたことよ」

航さんの言葉を遮るようにして、綾乃さんは大きな声を出した。私は勝手に肩がビクリとしてしまった。

(……航さんのお父さんが望んだこと?)

「綾乃。その話は従業員の前ではしない約束だろ」

航さんは真剣な眼差しでそう言った。怖いくらいに鋭い視線だった。

「……凛さんはもう既に知っているからいいじゃない」

「……知ってる?」

航さんは私のことまで鋭い目で見る。私は目を合わせてから、俯いた。

「とにかく、今ここでする話じゃない。綾乃、行くぞ」

そう言って航さんは綾乃さんを伴って玄関を出ていった。



航さんが綾乃さんを送りに出ている内に明日の準備を終え、部屋へ戻ると直ぐに航さんが帰ってきた。

「凛。結婚の話、知ってたのか?」

開口一番、そう言われた。

「……少し前に綾乃さんが訪ねてきて、突然そう言われたよ」

はあ、と航さんはため息をついて私のベッドに腰掛けた。ネクタイを緩める。航さんのその仕草を見るだけで、私の体は熱くなるようにインプットでもされているみたいだった。

「急にここを出て行くって言い出したのは、そのせいか。なんで俺に直接訊いてこなかった?」

言葉が出て来なかった。不自然な間に、航さんは目の前で立ち尽くす私を引き寄せて膝の上に跨らせる。

「俺が本当に綾乃と結婚すると思った? 結婚してお前のこと切り捨てるって?」

ギュッと、航さんはいつもよりも強く私を抱きしめた。少し痛いくらいだった。

「ち……がう」

喉が苦しくて、詰まりながらそう言った。

「でも怖くて訊けなかった。そばにいられたらそれで安心できたから……」

航さんの胸にしがみつく。情けないことに、私はいつの間にか泣いていた。

「じゃあなんで出てくなんて言い出した?」

「だって。……航さんが綾乃さんのこと好きなら、離れなきゃいけないじゃない」

航さんは腕の力をさらに強くした。

「なんで俺が綾乃のことが好きなんだよ。親同士が勝手に決めた話が、親父が死んでこじれてるだけだ」

航さんはきっぱりとそう言って、今度は脱力した。フニャフニャになった航さんが私の肩にのしかかる。

「なんでそうなってんだよ」と航さんは独りごちるように言った。

「根岸さんが、航さんは小学生の頃からずっと好きな女の子が居るって言ってたから……」

「あの人はほんとに……。それが綾乃なわけないだろ」

「……じゃあ、綾乃さんのこと好きじゃない? スケベな気持ちになったりしない?」

航さんの頭が重くて身動きが取れないまま、私はボロボロと涙を流してそう訊いた。

「好きじゃない。一度も好きになったことなんてない。お前にしかスケベな気持ちにならないって言っただろ。スケベスケベ何回言うんだよ」

「でも、航さんは綾乃さんと結婚するでしょ?」

「しない」

「結婚したらどれだけの利益があるか、私にだって分かるよ。結婚しないと航さんの立場が悪くなることくらい、分かるよ」

だからもう覆らないと思った。綾乃さんが組合長の娘だと分かった時に。

「……この漁港を回してるのは誰だと思うかって、前にも訊かなかったか?」

航さんは突然顔を上げ、身体を離すと私の涙を拭った。

「組合長の会社のコンサルをしてるのはうちだ。ここの漁業協同組合の古い仕組みの改革に尽力してるのも。自社加工と販売のノウハウを組合に所属する漁業会社に提供してるのもうちだ。組合に頼らずこの漁港でとれた魚をブランド化、独自販売のルート確保をこの一年で実現しつつある。その上で組合も支える。そういう足場が出来上がったところだよ。だから乗っ取っただとか色々言われてるんだろうな」

話が少し難しかったけれど、航さんの無敵の笑顔が何を言わんとしているのかを物語っていた。

(航さんは、元から組合長の力なんて必要としていないってこと?)

「じゃあ、どうして結婚の話を断れないでいるの?」

「さっき綾乃も言ってただろ。結婚の話を持ちかけたのは俺の親父の方だからだ」

……お父さんの代で漁業に加え水産加工業を始め、その販売先を巡って組合長に力を借りた。

その際に大きな恩義を感じたお父さんは、組合長の娘と、同じ小学校に通っていた航さんを将来結婚させてほしいと申し出た。組合長の娘が航さんを好いていると、組合長から聞いていたからだ。

航さんのお父さんは実直で昔かたぎで、義理堅い人間だった。

と、いうことらしい。

「俺はまったく納得してなかったから、無視して東京の大学に進学して、向こうで就職した。綾乃も適齢期を迎えたら、家業を継ぎもしない、戻ってすらこない俺のことなんて諦めて現実的な相手と結婚するだろうと踏んでた。それが、親父が49で突然死して一変した」

航さんは帰郷し、組合長が昔救ってくれた会社を父親から引き継ぐこととなった。

「引き継いでみると、思いのほか漁港自体が弱体化しててどの業者も活気がなかった。だからこの漁港ごとブラッシュアップさせて、ついでに組合長の力の及ばない立場まで上ればいいと思った。親父が実直に作ってきた会社は基盤がしっかりしてたから難しい事じゃなかった」

けれど漁港をわずか二年で活性化させた航さんの手腕と頭脳を組合長が欲しがらない訳もなく、また『航さんの父親からの申し出だった』という部分がネックになり、更にその父親が亡くなっていることで未だ許嫁解消にいたっていない、と。

「俺一人なら、法的な効力もない親同士の決めた結婚なんてどうとでも拒否できるけどな。親父ももういないし。でも、女将がそれを許さなかった」

女将さんは喰えない人だ。綾乃さんへの態度を見るに、おそらく彼女自身のことは認めていないし、家庭に招き入れ自分の後継者として育てる気もおそらくない。

「……女将さんは、航さんと綾乃さんの結婚を望んでるの?」

「それは、分からない」

ずるっと私は航さんの膝の上から落ちそうになる。

「え? 許さなかったんじゃないの?」

「お前が来るまでは、許嫁解消は許さないって立場だった。けど、最近その話をしたら考えが変わってた。今は保留にされてる」

「じゃあ、女将さんが解消を承諾したら……、結婚の話を断れるの?」

「ああ。一先ずは女将の承諾待ちだな。近々もう一度話し合いの場を持つ。まあ、女将が許さなくても、組合長がごねても俺は綾乃と結婚する気なんてサラサラないから。ただ、早く綾乃自身も解放してやらないとな。良い時期を結婚する気のない俺なんかに使ってる場合じゃないだろ。それは本人にも組合長にも何度も進言してるんだけど」

綾乃さんも25だ。都会ならまだしも、この田舎町では結婚適齢期真っ只中といったところだろうか。

「これで誤解は解けましたか?」

航さんは拗ねた子どものような目をしてそう訊いてくる。

「解けないよ」

「なんでだよ」

私は涙が落ち着いてきた目を擦ってしゃくり上げた。

「航さんにとって私は一体何なのか分からない」

すると航さんは私からスルッと目をそむけた。

「何って。分かりきってるだろ、そんなの」

答えが怖くてぎゅっとつぶっていた目をそっと開くと、航さんはまた拗ねた子供の顔でそっぽを向いていた。

何でもきっぱりと口にする航さんが。何か言い淀んでいる。いや、これは。照れている?

航さんは目を合わせてくれない。こんな恥ずかしがる航さん初めてだった。耳を赤くして。子供のように頑なに横を向いて。

だから。可愛さが混じった時、航さんの色気はモンスター級になるのだから。やめてほしい。

「ううん。全然分からない」

私は首を思いきり横に振り、曖昧な言葉では納得しない意思を示す。

「なんでだよ。もう毎晩触れずにはいられないくらい夢中になってるだろ」

航さんはごにょごにょと言った。

「では。そういうのをなんというでしょう? 一、愛人。二、なりゆき。三、体だけの関係……」

「おい、なんだその偏った三択……」

「四、恋人」

自分がどんな顔をしているのか、分からない。航さんの前では表情すらうまくコントロールできない。

航さんは私の顔をマジマジと見て、プッと小さく笑うと、こつんとおでこをくっつけた。

「俺はもう結構前から恋人のつもりでいますけど、お前は違った?」

「はっきり言われてないもの。分からないよ」

航さんはギュッと私を抱きしめる。

「……凛が大好き。どこにも行くなよ」



その夜は眠れなかった。

航さんはいつもよりも荒い息を時おり整えながら興奮を逃がした。その吐息がいやらしく聞こえて、それだけで私はブルリと身体が震えた。

触れる手がいつも優しいのに、今日はもっともっと宝物を扱うように丁寧で、それが嬉しかった。

そしてキスをする度に「凛は? 好き?」と訊いてくる。私は飛びそうな意識の中で、声を漏らしながら、うん、うん、と必死に答えた。

「一つだけ……んっ、お願いがあるんだけど」

壁に背をもたれ私を上に乗せて胸を弄ぶ航さんにしがみつきながら、声を漏らしつつそう言った。もう夜明けも近い時間だったと思う。

「どうした急に」と、航さんは私の胸に埋めていた顔を上げた。

「いくつでも言え」

「……また……あっ。航さんの、……車に、乗せてほし……あっ」

すると航さんは私をとろりとした目で見上げながらキョトンとした顔をしたので、お腹の奥がギュッとなった。

「こら、締めるな」と怒られる。……今のは航さんが悪い。

「車なんていつでも乗せてやる。行きたいところがあるのか?」

「ううん。……ないよ。……んんっ」

航さんがいたずらに動くので上手く話せない。

「じゃあなんで車乗りたいの」

「……ただ……んっ、綾乃さんがさっき……あっ。航さんの助手席に座ったから……」

すると航さんは一瞬止まって、今度は急に激しく動き出した。

「あっ、航さん、待って、あっ」

「お前、そんなに妬いてたのに我慢してたの?」

航さんが息を荒くして言い、私の首元を引き寄せてキスをする。

「だって……あっ、あっ」と私も息が上がり上手く返事ができない。

「俺が綾乃を送ってる間、嫌だった?」

航さんも荒い息でそう訊く。

「航さんは……ん、今は私のだもんって……思いながら待って……あっ、あっ」

「あーもうほんと。可愛すぎるだろ。俺を殺す気か」

そう言って航さんは私を強く抱きしめた。



「うんうん、かわいい。玲奈さんに似合ってる」

玲奈さんは居心地悪そうに顔をしかめながら、私の頬にメイクブラシでチークを乗せる。

「響君はセンスがいいね」と、胸いっぱいの私ははぁ~と淡いため息を吐いた。

「それ以上言ったらおてもやんにするよ」

玲奈さんが低い声で言う。「ごめんなさい」と私は素直に謝りつつもニヤケが止まらない。

玲奈さんの両耳には小ぶりで品のいいダイヤとパールのピアスが。昨日のクリスマスイヴに響君に貰ったものだと教えてくれた。

というか、内緒だけれど私はそれが響君からのプレゼントであることをはなから知っていた。玲奈さんにクリスマスプレゼントを渡したいけれど、何がいいか分からないと響君からお祭りの後に相談を受けていたのだった。

今朝玲奈さんが新しいピアスをつけていて、響君の苦労が報われたことに一人で嬉しくなってしまったのだった。

「で? 凛さんは? 今日貰うの?」

「どうだろう? 私は一応用意してるけど……」

「ここから出てないのにどうやって用意したの?」

「……ネットで」と言いながら、仕方がないとはいえ味気ない気もした。

「まあ、仕方ないんじゃない?」と玲奈さんにもフォローされてしまった。

今日は航さんの仕事が夕方までなので、車に乗せてもらう約束を兼ねて食事に出かける。

航さんが以前買って来てくれたロングドレスが役に立つ時がこようとは。

「あの組合長の娘、クリスマスまで押しかけて来ないよね? なんか怖い」

玲奈さんはいつもよりも少し大人っぽいローズのリップをブラシで乗せながら言った。

「まさか」と答えつつも私も昨日のイヴからそれにビクビクしていた。

あれから二日経つけれど、許嫁解消の件に進展はない。ただ、昨日の仕事終わりに二人きりの際、女将さんから「年が明けたら話があります」とだけ突然言われた。

綾乃さんのことなのか、私の仕事についてなのかは分からないけれど、年明けが少し怖い。どんな話にせよ、年が明けたら今と同じ状況ではいられなくなるだろう。

メイクとヘアセットが終わり、ドレスを着る。ドレスと言ってもシンプルで、デコルテから袖に掛けてがシースルーの黒いタイトなワンピースだった。

「凛さんって骨格ストレートだからこういうの似合うよね。航ちゃんが買ってくれたんでしょ? さすがだよね」

背中のフォックを上げてくれながら、玲奈さんが言う。

「玲奈さん、私ね、実は航さんと……」

振り返ると、玲奈さんは面倒そうに軽いため息をついた。

「言わなくても分かるよ。付き合うことになったんでしょ?」

「え、何で分かるの。エスパー?」

「凛さんはそんなに変わらないけど、航ちゃんがすごいもん。あんな航ちゃん見たことない。よっぽど嬉しいんだろうね」

『あんな』とはどんな? と思ったけれど、玲奈さんは複雑な心境かもしれないと思い口をつぐんだ。

「凛さん、ずっとここにいるってこと?」

玲奈さんが私をまっすぐ見る。

「うん、ここにいたい」

私も玲奈さんをまっすぐ見た。

「そうじゃなきゃ困るよ。私の専属メイクモデルなんだから。来年の学校のコンテストは凛さんに協力してもらわなくちゃいけないのよ」

ああ、私は。と、思った。私はこの家の人たちが大好きだった。

4時頃航さんが帰ってきた。予定より一時間も早い。

「めちゃくちゃ捲った」そうだ。

「航ちゃん、楽しみすぎて超集中して終わらせたんじゃないの? 気持ち悪いなぁ」

玲奈さんがからかい半分な顔で言った。航さんを気持ち悪いだなんて冗談でも言えるのは玲奈さんだけだろう。

「確かに気持ち悪いな俺」と航さんが独りごちり、玲奈さんと私は笑った。

玲奈さんに借りたハイヒールと、自前のミニバッグを持って屋敷を出た。

「自分で買ってきてなんだけど、その服は胸元が開きすぎだな。コートの前締めとけ」

車に乗り込むと、航さんが私のコートの襟を引っ張った。

「誰も見ないよ」

「俺が見てる」と航さんはエンジンを掛けるとそう言って、腕を伸ばし助手席の私の頭を撫でた。

このままこんな日々が続けばいいのに。なぜかこの時そう思った。多分、予期していたんだと思う。

ただただ逃げてきただけの私が、このままこの場所で安息できるはずがないとずっとどこかで思っていた。

夢の終わりは近づいていた。
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