ようこそ、片桐社長のまかないさん
13 逃げるまかないさん
[side航]
「社長。お話があるんですけど……」
そう市松さんに言われたのは、末祭の前日のことだった。
妙に真面目な顔だった。市松さんはいつもどこか相手を見定めるような目をしているけれど、今日はいつもと違った。
物販のレジの〆作業をしている店長の谷村さんが退勤するのを待って、夕闇の中電気も殆ど消してしまったカフェのテーブルで改まって向かい合った。
「仕事の話じゃないんだけど。凛ちゃんのことで」
市松さんは髪をほどき、カフェの店員からなじみ深い近所のお姉さんに戻った。
「凛ちゃんって、苗字、なんだったっけ?」
市松さんは髪を縛っていたゴムを腕に嵌めると、そう訊きながら髪を掻き上げた。
「倉木です」
俺が答えると呆れたように眉をひそめた。
「初めて凛ちゃんを連れてこのカフェに来た時のこと覚えてない? 凛ちゃんと航君にコーヒー出したのは私だよ」
「もちろん覚えてます。いつもありがとうございます」
意識して口角を上げると、市松さんは腕を組んでため息を吐いた。
「私が地獄耳なの知ってるでしょ? あの時、凛ちゃんは違う苗字を名乗ってたよね」
「今、凛の苗字は倉木です」
「倉木って。航君のお母さんの旧姓じゃなかった?」
「そんなこと良く覚えてますね」
「航君の母親と私の母親、高校の同級生よ? アルバムが実家にあるわよ。……って、そんなことはどうでもいいのよ。なんで偽名を使わせてるの?」
市松さんは鋭い目をして訊いた。
「必要なことだからです」と端的に答えた。市松さんに対してごまかしは通じないだろう。
「じゃあ、杉崎さんのお宅を探してる男に心当たりがあるってことでいいのね?」
市松さんは更にもう一段階真剣な顔になった。
「……来たんですね。ここに」
市松さんは目を逸らさずにじっとりと頷いた。
俺はやはり来たかと、整髪料で固めた頭頂部をクシャリと握り潰して目を閉じた。
杉崎さんの家は、俺の居場所だった。
幼稚園に通っていた頃は、友達がいなかった。話をしたくてもあまりまだ喋れない子供も多く、喋れても話がほとんど通じなくていつも困っていた。
先生には初めこそ可愛がられるけれど、疑問を投げかけたり意義を感じない集団行動を拒んだりすると煙たがられた。
小学生になる頃には立ち振る舞い方が分かってきて、怒られたり邪険に扱われたり奇妙な顔をされない為にはどうすればいいかをいつも考えて行動していた。
その内、時に分からないふりをしたり、周りの子どものように適度にふざけたり甘えたりすることが教師や同級生を満足させる秘訣だということも心得た。
必死に、周りに合わせた。
顔に貼りついた笑顔を剥がせるのは、一人浜辺に居る時だけだった。
学校も家も本当の自分でいられる場所ではなかった。特に祖父母の仕事に対する厳しい姿勢は家庭内にも向けられ、母はいつもビクビクしながら家事と賄の仕事をこなしていたし、父はただひたすら仕事をきっちりこなすだけの人形のように見えた。
この町に居ると、自分は異物のようだった。間違っているのは、おそらく周りではなく自分。
まるで、盲目の人々の中で自分だけが目を開け全てを見ているような感じだと、この当時思っていたことを今でも覚えている。
夏の夕暮れに浜辺の奥の岩場に上り、フナ虫とカメノテを不意に観察していた時だった。
「この町の子?」
見ると真っ白なワンピースを着た女の子が立っていた。見たことのない子だった。
「私、お祖母ちゃんのおうちに遊びに来てるの。あなたは?」
目が真ん丸で、地元の子のように日焼けはしておらず透き通った肌をしていた。櫛を丁寧に通したようなサラサラとした長い髪が潮風になびいていた。
それがなにか、初めは天使のように見えたのだと思う。
「僕は……この町の子どもじゃない」
生まれて初めてはっきりと嘘を吐いた。でも、もしかしたら嘘ではないのかもしれない。自分だけが周りとあまりに違う。どうしてもなじめない。自分はこの町の子どもではないのかもしれない。
「じゃあ一緒だね。私は夏の間だけこの町に居るんだよ」
「どこから来たの?」
まさか雲の上? と、その頃に読んでいた羽衣伝説の天女と重なってそう咄嗟に言いそうになったのを我慢した。
「東京」
彼女の口からは天界とは真逆のコンクリートジャングルな言葉が出てきてなぜか笑ってしまった。
年に一度、病院でテストを受けるために祖父に連れられ何度か東京に行ったことがあった。
あの時見た整然と並んだビル群や当たり前のようにスーツを着ている人たちの中に、この天使の子が居るところを想像するのは難しかった。
「東京の子どもはどこで遊ぶの?」と訊ねると、彼女は隣に座った。
「公園だよ。家の近くの芝生公園でキックスクーターするのが楽しいよ」
芝生。キックスクーター。どれも写真でしか見たことがなかった。
「あなたは? どこから来たの?」
「遠いところ」と言ってから、彼女から顔をそむけた。
「夏の間はこの町にいる?」と彼女は顔を覗き込み訊いた。
「うん。ずっと、いる」
「良かった。じゃあ明日も遊ぼうよ。おばあちゃんとお勉強してお料理もするから、夕方ね」
「いいよ」
彼女の前でだけ、異物ではない自分になれる気がしたんだと思う。盲目の人々しかいなかったこの町に、東京から天女が降りてきたのだった。
次の日同じ場所で会うと、彼女はおばあちゃんと作ったというチーズとブルーベリーのマフィンをくれた。
甘いお菓子は祖母に禁じられていたので、食べるのは去年の末祭で諒さんがこっそり買ってくれた綿あめ以来だった。
「そうだ。お名前は?」と訊かれて少し考えた。
「……おきな」
「おきな君って言うの?」
咄嗟に思いついただけだった。天女伝説は竹取物語の一節だから。竹取の翁。
「苗字は?」
「……倉木」
苗字は思いつかなくて、咄嗟に母の旧姓を口にした。
無意味に嘘に嘘を重ねる。
「私はね、杉崎凛だよ」と無邪気に言う彼女に、適当な名を名乗ったことに負い目を感じつつも、危なかったと胸をなでおろした。杉崎さんとは、ご近所に住んでいる祖母の幼馴染だった。
凛は、シングルマザーの母親に夏休みの間は祖母の家に預けられていると、そう話した。
「お母さんは仕事で忙しいの?」
「うん。国家公務員なんだよ」
そう嬉しそうな声で言うのに、目は少しも笑っていないと思った。
「でもお盆はお母さん休みでしょ? 東京に戻るの?」
「ううん。お盆は恋人と海外に行くんだって」
ああ、この天女の子は。一人ぼっちなのだ。幼心にそう思ったことを覚えている。
夏休みの間中、彼女と過ごし、杉崎家にも何度も足を運んだ。
遠くから来た倉木おきなという男の子だよと凛がおばあさんに紹介し、何かの遊びだと思ったのか、杉崎のおばあさんは素知らぬ顔で倉木おきなをもてなしてくれた。
凛がくれたのは、この町での居場所だった。早くに夫を亡くし長らく独り暮らしをしていた杉崎のおばあさんは、夏休みが明け凛が東京に戻っても倉木おきな改め片桐家の変わり者の孫を我が子のようにかわいがってくれた。
「この町にいる間はね、子どものふりをしていなさい。そして高校を出たら東京に行きなさい。必ずあんたと同じ高さで物を考えられる友達に出会えるから」
そう教えてくれたのも杉崎のおばあさんだった。
凛は次の年からこの町に来なくなった。それまでは毎年来ていたそうだけれど、高学年になり、夏休みを一人で過ごせるようになったからだとおばあさんが教えてくれた。
……今年のお盆も、母親は恋人と旅行に行くのだろうか。
杉崎のおばあさんにそれとなく訊くと、彼女は年を取り緑掛かってきた瞳を悲しそうに垂れさせながら笑った。
凛に、会いたかった。でもそれ以降、凛が杉崎のおばあさんの家に預けられることも、おばあさんに会いに来ることもなかった。
クリスマスには凛を老舗の旅館に連れて行った。市内のホテルかレストランでも良かったけれど、もしもを考えると連れ歩くのが怖い。
その点、祖父の代から世話になっている旅館ならば離れを用意してもらえて、部屋でゆっくりと食事が取れた。
凛はどれも感動していた。酒を許したので凛が次第に酔い始め、その日はそのまま離れに泊まることにした。
元々そのつもりでもあった。
離れの露天風呂でも布団でも凛を抱いた。その間もずっと、頭のどこかを「杉崎さんのお宅を探している男」がチラつき続けていた。
散々抱き合った後に、忘れてた、と言って凛がクリスマスプレゼントと言ってくれたのは品のいいネクタイだった。
ブランドものだけれどロゴが表になく、上質さだけで勝負したストライプ柄だった。
凛らしいなと思った。
今日はそのネクタイをつけている。玲奈はすぐに気が付き、「良かったね、凛さんにプレゼントもらえて」と子供に対するような物言いをする。
「で? 航ちゃんは凛さんに何をプレゼントしたの?」
玲奈はさらにからかい半分な顔でそう訊いてきた。
冬休みで暇なのだろう。響がまだ来ていない朝食の席、凛と女将が慌ただしく台所と居間を行き来する横で涼しい顔をしている。
「……母親の形見の指輪」
「重っ!!」
玲奈が珍しく目をひん剥いて言った。
「付き合いたてで渡すものじゃないよそれ」
「何が欲しいか訊いたら何もいらないって言うから。高価なものとか凛は喜ばないし……」
ゴニョゴニョと言い訳をすると、玲奈は呆れたようにため息をついた。
「航ちゃんって、凛さんのことになるとなんかポンコツだよね」
「まぁ……自分でもそう思う」
ポンコツ。……思えば凛と再会した日からしてそうだった。
そもそも、この歳になりあの場所で凛と再会することになるとは思ってもみなかった。不意打ち過ぎてポンコツにもなるというものだ。
俺が上京している間に杉崎のおばあさんが亡くなり、すぐに家は取り壊され土地が売りに出されたらしく、売れていなかったその土地を家業を継ぎ始めて半年後に買った。
もちろん凛の母親に会えるでもなくあっさり契約が終わり、思い出の場所は俺の持ち物になった。
まさかその地に凛が戻ってこようとは。
だから寝袋でもがきながら顔を出した凛を。くたびれた様子でテント生活を続けたいと言った凛を迷わず自分の家に住まわせた。
でも隣の部屋に泊めることにしたのは浅はかだった。
浅はかだったけれど、どうしても逃したくなかった。
そういうことも含めて、玲奈は俺をポンコツと言うのだろう。自覚はある。
「なんか、家の前に見たことない人がいましたけど、航さんのお客さんですか?」
響は居間に入るなりそう言った。
ドン、と心臓が鳴った。
凛は味噌汁を並べる手を止めて俺を見る。
「ああ、そうかもな。ちょっと見てくる。先に食べてろ」
不意に不安げな顔をした凛の頭に手をやってから居間を出た。もう年末、そろそろサラリーマンは御用納を終え冬休みに入る時期だろう。来るなら、そろそろだろうとは思っていたが。
玄関の開戸を開けて門まで辺りを見回しながら向かうと、初老の男が門の外にいた。
「あ、片桐社長! 良かった」
四日前のクリスマスに泊まらせてもらった近隣観光地の老舗旅館、海雲の社長だった。
「すみません、板長と市場に来たもんですから、ちょっと寄らせてもらったんです。いやいや、インターフォンが分からなくてね」
「そうでしたか。わざわざご足労いただきまして」
頭を下げると、社長はとんでもない、と両手を振った。
「いや実はね、ちょっと気になることがあってね」
仕事の話にしては、アポも取らずこんな朝から妙だと思っていた。
「なんでしょう?」
「あ、そうそう、先日はお越しいただきありがとうございました。……あの、その際に一緒にいらっしゃった女性についてなんですが。従業員がきな臭いことを言っていましてね」
「きな臭い?」
「昨日、非番だった従業員が飲み屋で一緒になった男に写真を見せられたんだそうで。その写真に写っていたのが、社長と一緒にいらした女性だったって言うんですよ」
俺は固まった。心臓まで固まって動かなくなったかと思った。
「見たことないかって訊かれて、もちろん従業員は知らないと答えたんですが……。旅館で働いてることを話してしまっていたらしく、もし写真の女性が来たら連絡をくれと、携帯番号を教えられたと言っています」
社長はポケットに手を突っ込み、あれ? どこだったけかな、と独り言を言いながらモゾモゾとする。
「念のため、これがその男の携帯番号です。もし何か心当たりがあるようでしたら……。従業員たちには日ごろからお客様の利用状況など全個人情報について堅守するよう教育しているので安心してください」
「社長、恩に着ます」
頭を下げながら、グルグルと今後の取るべき行動について脳内が考えをまとめていた。男の携帯番号のメモを握る指が怒りに震えていた。
[side凛]
「約束してほしいことがある」
朝食を終えた航さんはお台所から私をひっぱり、隣の仕事部屋へ連れて行かれた。
真面目な顔でじっと私を見ながら言う。
「今日と明日は店には行かないこと。インターフォンが鳴っても凛は出ないこと。いいか?」
「……うん。でも、どうしたの? 急に……」
さっき誰か知り合いが来たようで、戻ってきてから難しい顔をしながら納豆を食べていた。そのことと関係があるのだろうか。
「明日で俺も一応今年の仕事は終わりにするから。それまではここで大人しくしてて」
航さんはそう言うと私の腕を引きギュッと背中に手を回す。「いいな?」と耳元でささやかれて、ブルリと身体が震えた。ズルい。
「じゃあ、今日は早く帰ってきてね」
航さんの硬くて細い腰の辺りのシャツを握って言った。
「分かった。捲りまくる。……また玲奈にキモいって言われるだろうけど」と言ってクスクスと笑う。
「お前、指輪は?」
「あんな大事な物、日ごろから身につけられるわけないでしょう」
何も欲しいものは無いと言ったけれど、まさかお母様の形見をくれるとは思わなかった。見たこともない大きさのダイヤがついていて、とてもとてもつけながら家事ができるような代物ではない。
「失くしたり壊したりしないか心配で……」
「別にいいよ。凛の方が何百倍も大事だから」
カットソーの裾から手を入れて、航さんは私の肌を確かめるように撫でる。私はピクリと反応しながら、航さんの首筋にキスをした。
するとお台所の戸が開く音がして、「凛ちゃーん」と女将さんの呼ぶ声がした。こんなことをしている場合では全くなかった。
「いい子にしてろよ?」と航さんは構わずキスをするので、私はボカボカと航さんの胸を叩き抜け出すと慌ててお台所へ戻った。
そして翌日。もうあと二日で今年も終わるという日だった。
なぜか昨日も今日も、朝から響君が居間で勉強をしている。
仕事で必要な資格の試験が年明けにあるのだと言う。その勉強のためにみんなより一日早く冬休みに入ったということらしい。
「すみません、昨日から居座って」
3時を過ぎ、私がおやつにおかきとお茶を出すと、響君はそう言って肩身が狭そうに正座の足を組み直した。
「いや、私こそ居候で居座ってる身だから。それに……響君、航さんに頼まれてここに居るんでしょ?」
円卓に頬杖をついて横目に見ると、響君は二度瞬きをして「いえ、別に」と言った。
「なに? 航さんに口止めされてるの?」
「いえ、別に。俺はただ玲奈と一緒にいたいからここに来てるので。凛さんのお陰で航さん公認なのはありがたいですけど」
「あら、そうでしたか」
けれど肝心の玲奈さんは、響君のスマホが鳴ってその着信画面を見てしまったことをきっかけに、昼辺りから自室に籠っている。
なんというか、この二人はいつになったら上手くいくのだろう。
「で? さっきは誰からの着信だったの?」
「……高校の同級生です」
「ああ、玲奈さんが一番嫌がってる高校の女の子ね」
とニッコリとして言うと、響君はお茶を飲む手を止めてこちらを見た。
「一番嫌がってるんですか? なぜ?」
「響君、そういうことは本人にちゃんと訊いた方がいいよ。玲奈さんの部屋まで案内しようか?」
すると響君はお茶をドゴっと勢いよく置いて立ち上がった。
「いえ、一人で大丈夫です。行ってきます」
やる時はやる男だった。私は「行ってらっしゃい!」と響君の背中に激励をぶつけた。
やれやれと思いながら、遠慮していた居間の畳の掃除を始めた。
箒で掃き、端から端までしっかりと乾拭きを終えても響君は戻ってこない。上手くいっているといいのだけれど。
居間で独り、一息ついた。女将さんも今は休憩をしに自室に戻っている。
そんなタイミングで私のスマホが鳴った。
『今、絶対に店に来ないで』
明菜さんからLINEだった。通知画面に表示されたメッセージを見て嫌な予感はした。開くと、カフェの客席を写した画像も一緒に送られてきていた。
それを眺めていると、もう一つ拡大された画像が送られてきた。
『この人、凛ちゃんのこと探してる』
……あいつだ。
「わああ」
私は虫でも掴んでしまったかのように自分のスマホを放り投げた。
どうして。なんで。ここが分かったの? どうして分かったの?
頭の中が真っ白になった。
(ああ、ここにはもう居られない。)
次の瞬間にはそう考えていた。うろたえている場合ではない。あいつが来たら、すぐにここを出ようと決めていた。
私は震える足で静かに二階に上がると、身軽に動けるだけの荷物をまとめた。いや、もうまとめてあった。もうずっと、私はここから去る準備をしていた。
バッグからメモを取り出し一枚破る。
『お返しします。突然出て行ってごめんなさい』
ソファーテーブルにメモを置き、お母様の指輪の重厚なケースでそれを押さえた。
部屋を見渡す。
私の無邪気な幸福感で満たされた空間だった。
ずっとここで、航さんに愛されて暮らしたかった。大好きだった。
一階に下りるともう一枚のメモをお台所の作業台に置いた。
『突然出て行ってごめんなさい。家の鍵はポストの中に』
玄関を出る時に、振り返った。
航さんが「心配すんな」と頭を撫でてくれた気がした。
目尻を手の甲で拭うと、私は玄関の戸に鍵をかけダイヤル式のポストへと静かにその鍵を落とした。
正面の門はお店が近い。裏口の小さな扉から屋敷の敷地を出た。
あとは、振り返らずにひたすらに走るだけだった。
「社長。お話があるんですけど……」
そう市松さんに言われたのは、末祭の前日のことだった。
妙に真面目な顔だった。市松さんはいつもどこか相手を見定めるような目をしているけれど、今日はいつもと違った。
物販のレジの〆作業をしている店長の谷村さんが退勤するのを待って、夕闇の中電気も殆ど消してしまったカフェのテーブルで改まって向かい合った。
「仕事の話じゃないんだけど。凛ちゃんのことで」
市松さんは髪をほどき、カフェの店員からなじみ深い近所のお姉さんに戻った。
「凛ちゃんって、苗字、なんだったっけ?」
市松さんは髪を縛っていたゴムを腕に嵌めると、そう訊きながら髪を掻き上げた。
「倉木です」
俺が答えると呆れたように眉をひそめた。
「初めて凛ちゃんを連れてこのカフェに来た時のこと覚えてない? 凛ちゃんと航君にコーヒー出したのは私だよ」
「もちろん覚えてます。いつもありがとうございます」
意識して口角を上げると、市松さんは腕を組んでため息を吐いた。
「私が地獄耳なの知ってるでしょ? あの時、凛ちゃんは違う苗字を名乗ってたよね」
「今、凛の苗字は倉木です」
「倉木って。航君のお母さんの旧姓じゃなかった?」
「そんなこと良く覚えてますね」
「航君の母親と私の母親、高校の同級生よ? アルバムが実家にあるわよ。……って、そんなことはどうでもいいのよ。なんで偽名を使わせてるの?」
市松さんは鋭い目をして訊いた。
「必要なことだからです」と端的に答えた。市松さんに対してごまかしは通じないだろう。
「じゃあ、杉崎さんのお宅を探してる男に心当たりがあるってことでいいのね?」
市松さんは更にもう一段階真剣な顔になった。
「……来たんですね。ここに」
市松さんは目を逸らさずにじっとりと頷いた。
俺はやはり来たかと、整髪料で固めた頭頂部をクシャリと握り潰して目を閉じた。
杉崎さんの家は、俺の居場所だった。
幼稚園に通っていた頃は、友達がいなかった。話をしたくてもあまりまだ喋れない子供も多く、喋れても話がほとんど通じなくていつも困っていた。
先生には初めこそ可愛がられるけれど、疑問を投げかけたり意義を感じない集団行動を拒んだりすると煙たがられた。
小学生になる頃には立ち振る舞い方が分かってきて、怒られたり邪険に扱われたり奇妙な顔をされない為にはどうすればいいかをいつも考えて行動していた。
その内、時に分からないふりをしたり、周りの子どものように適度にふざけたり甘えたりすることが教師や同級生を満足させる秘訣だということも心得た。
必死に、周りに合わせた。
顔に貼りついた笑顔を剥がせるのは、一人浜辺に居る時だけだった。
学校も家も本当の自分でいられる場所ではなかった。特に祖父母の仕事に対する厳しい姿勢は家庭内にも向けられ、母はいつもビクビクしながら家事と賄の仕事をこなしていたし、父はただひたすら仕事をきっちりこなすだけの人形のように見えた。
この町に居ると、自分は異物のようだった。間違っているのは、おそらく周りではなく自分。
まるで、盲目の人々の中で自分だけが目を開け全てを見ているような感じだと、この当時思っていたことを今でも覚えている。
夏の夕暮れに浜辺の奥の岩場に上り、フナ虫とカメノテを不意に観察していた時だった。
「この町の子?」
見ると真っ白なワンピースを着た女の子が立っていた。見たことのない子だった。
「私、お祖母ちゃんのおうちに遊びに来てるの。あなたは?」
目が真ん丸で、地元の子のように日焼けはしておらず透き通った肌をしていた。櫛を丁寧に通したようなサラサラとした長い髪が潮風になびいていた。
それがなにか、初めは天使のように見えたのだと思う。
「僕は……この町の子どもじゃない」
生まれて初めてはっきりと嘘を吐いた。でも、もしかしたら嘘ではないのかもしれない。自分だけが周りとあまりに違う。どうしてもなじめない。自分はこの町の子どもではないのかもしれない。
「じゃあ一緒だね。私は夏の間だけこの町に居るんだよ」
「どこから来たの?」
まさか雲の上? と、その頃に読んでいた羽衣伝説の天女と重なってそう咄嗟に言いそうになったのを我慢した。
「東京」
彼女の口からは天界とは真逆のコンクリートジャングルな言葉が出てきてなぜか笑ってしまった。
年に一度、病院でテストを受けるために祖父に連れられ何度か東京に行ったことがあった。
あの時見た整然と並んだビル群や当たり前のようにスーツを着ている人たちの中に、この天使の子が居るところを想像するのは難しかった。
「東京の子どもはどこで遊ぶの?」と訊ねると、彼女は隣に座った。
「公園だよ。家の近くの芝生公園でキックスクーターするのが楽しいよ」
芝生。キックスクーター。どれも写真でしか見たことがなかった。
「あなたは? どこから来たの?」
「遠いところ」と言ってから、彼女から顔をそむけた。
「夏の間はこの町にいる?」と彼女は顔を覗き込み訊いた。
「うん。ずっと、いる」
「良かった。じゃあ明日も遊ぼうよ。おばあちゃんとお勉強してお料理もするから、夕方ね」
「いいよ」
彼女の前でだけ、異物ではない自分になれる気がしたんだと思う。盲目の人々しかいなかったこの町に、東京から天女が降りてきたのだった。
次の日同じ場所で会うと、彼女はおばあちゃんと作ったというチーズとブルーベリーのマフィンをくれた。
甘いお菓子は祖母に禁じられていたので、食べるのは去年の末祭で諒さんがこっそり買ってくれた綿あめ以来だった。
「そうだ。お名前は?」と訊かれて少し考えた。
「……おきな」
「おきな君って言うの?」
咄嗟に思いついただけだった。天女伝説は竹取物語の一節だから。竹取の翁。
「苗字は?」
「……倉木」
苗字は思いつかなくて、咄嗟に母の旧姓を口にした。
無意味に嘘に嘘を重ねる。
「私はね、杉崎凛だよ」と無邪気に言う彼女に、適当な名を名乗ったことに負い目を感じつつも、危なかったと胸をなでおろした。杉崎さんとは、ご近所に住んでいる祖母の幼馴染だった。
凛は、シングルマザーの母親に夏休みの間は祖母の家に預けられていると、そう話した。
「お母さんは仕事で忙しいの?」
「うん。国家公務員なんだよ」
そう嬉しそうな声で言うのに、目は少しも笑っていないと思った。
「でもお盆はお母さん休みでしょ? 東京に戻るの?」
「ううん。お盆は恋人と海外に行くんだって」
ああ、この天女の子は。一人ぼっちなのだ。幼心にそう思ったことを覚えている。
夏休みの間中、彼女と過ごし、杉崎家にも何度も足を運んだ。
遠くから来た倉木おきなという男の子だよと凛がおばあさんに紹介し、何かの遊びだと思ったのか、杉崎のおばあさんは素知らぬ顔で倉木おきなをもてなしてくれた。
凛がくれたのは、この町での居場所だった。早くに夫を亡くし長らく独り暮らしをしていた杉崎のおばあさんは、夏休みが明け凛が東京に戻っても倉木おきな改め片桐家の変わり者の孫を我が子のようにかわいがってくれた。
「この町にいる間はね、子どものふりをしていなさい。そして高校を出たら東京に行きなさい。必ずあんたと同じ高さで物を考えられる友達に出会えるから」
そう教えてくれたのも杉崎のおばあさんだった。
凛は次の年からこの町に来なくなった。それまでは毎年来ていたそうだけれど、高学年になり、夏休みを一人で過ごせるようになったからだとおばあさんが教えてくれた。
……今年のお盆も、母親は恋人と旅行に行くのだろうか。
杉崎のおばあさんにそれとなく訊くと、彼女は年を取り緑掛かってきた瞳を悲しそうに垂れさせながら笑った。
凛に、会いたかった。でもそれ以降、凛が杉崎のおばあさんの家に預けられることも、おばあさんに会いに来ることもなかった。
クリスマスには凛を老舗の旅館に連れて行った。市内のホテルかレストランでも良かったけれど、もしもを考えると連れ歩くのが怖い。
その点、祖父の代から世話になっている旅館ならば離れを用意してもらえて、部屋でゆっくりと食事が取れた。
凛はどれも感動していた。酒を許したので凛が次第に酔い始め、その日はそのまま離れに泊まることにした。
元々そのつもりでもあった。
離れの露天風呂でも布団でも凛を抱いた。その間もずっと、頭のどこかを「杉崎さんのお宅を探している男」がチラつき続けていた。
散々抱き合った後に、忘れてた、と言って凛がクリスマスプレゼントと言ってくれたのは品のいいネクタイだった。
ブランドものだけれどロゴが表になく、上質さだけで勝負したストライプ柄だった。
凛らしいなと思った。
今日はそのネクタイをつけている。玲奈はすぐに気が付き、「良かったね、凛さんにプレゼントもらえて」と子供に対するような物言いをする。
「で? 航ちゃんは凛さんに何をプレゼントしたの?」
玲奈はさらにからかい半分な顔でそう訊いてきた。
冬休みで暇なのだろう。響がまだ来ていない朝食の席、凛と女将が慌ただしく台所と居間を行き来する横で涼しい顔をしている。
「……母親の形見の指輪」
「重っ!!」
玲奈が珍しく目をひん剥いて言った。
「付き合いたてで渡すものじゃないよそれ」
「何が欲しいか訊いたら何もいらないって言うから。高価なものとか凛は喜ばないし……」
ゴニョゴニョと言い訳をすると、玲奈は呆れたようにため息をついた。
「航ちゃんって、凛さんのことになるとなんかポンコツだよね」
「まぁ……自分でもそう思う」
ポンコツ。……思えば凛と再会した日からしてそうだった。
そもそも、この歳になりあの場所で凛と再会することになるとは思ってもみなかった。不意打ち過ぎてポンコツにもなるというものだ。
俺が上京している間に杉崎のおばあさんが亡くなり、すぐに家は取り壊され土地が売りに出されたらしく、売れていなかったその土地を家業を継ぎ始めて半年後に買った。
もちろん凛の母親に会えるでもなくあっさり契約が終わり、思い出の場所は俺の持ち物になった。
まさかその地に凛が戻ってこようとは。
だから寝袋でもがきながら顔を出した凛を。くたびれた様子でテント生活を続けたいと言った凛を迷わず自分の家に住まわせた。
でも隣の部屋に泊めることにしたのは浅はかだった。
浅はかだったけれど、どうしても逃したくなかった。
そういうことも含めて、玲奈は俺をポンコツと言うのだろう。自覚はある。
「なんか、家の前に見たことない人がいましたけど、航さんのお客さんですか?」
響は居間に入るなりそう言った。
ドン、と心臓が鳴った。
凛は味噌汁を並べる手を止めて俺を見る。
「ああ、そうかもな。ちょっと見てくる。先に食べてろ」
不意に不安げな顔をした凛の頭に手をやってから居間を出た。もう年末、そろそろサラリーマンは御用納を終え冬休みに入る時期だろう。来るなら、そろそろだろうとは思っていたが。
玄関の開戸を開けて門まで辺りを見回しながら向かうと、初老の男が門の外にいた。
「あ、片桐社長! 良かった」
四日前のクリスマスに泊まらせてもらった近隣観光地の老舗旅館、海雲の社長だった。
「すみません、板長と市場に来たもんですから、ちょっと寄らせてもらったんです。いやいや、インターフォンが分からなくてね」
「そうでしたか。わざわざご足労いただきまして」
頭を下げると、社長はとんでもない、と両手を振った。
「いや実はね、ちょっと気になることがあってね」
仕事の話にしては、アポも取らずこんな朝から妙だと思っていた。
「なんでしょう?」
「あ、そうそう、先日はお越しいただきありがとうございました。……あの、その際に一緒にいらっしゃった女性についてなんですが。従業員がきな臭いことを言っていましてね」
「きな臭い?」
「昨日、非番だった従業員が飲み屋で一緒になった男に写真を見せられたんだそうで。その写真に写っていたのが、社長と一緒にいらした女性だったって言うんですよ」
俺は固まった。心臓まで固まって動かなくなったかと思った。
「見たことないかって訊かれて、もちろん従業員は知らないと答えたんですが……。旅館で働いてることを話してしまっていたらしく、もし写真の女性が来たら連絡をくれと、携帯番号を教えられたと言っています」
社長はポケットに手を突っ込み、あれ? どこだったけかな、と独り言を言いながらモゾモゾとする。
「念のため、これがその男の携帯番号です。もし何か心当たりがあるようでしたら……。従業員たちには日ごろからお客様の利用状況など全個人情報について堅守するよう教育しているので安心してください」
「社長、恩に着ます」
頭を下げながら、グルグルと今後の取るべき行動について脳内が考えをまとめていた。男の携帯番号のメモを握る指が怒りに震えていた。
[side凛]
「約束してほしいことがある」
朝食を終えた航さんはお台所から私をひっぱり、隣の仕事部屋へ連れて行かれた。
真面目な顔でじっと私を見ながら言う。
「今日と明日は店には行かないこと。インターフォンが鳴っても凛は出ないこと。いいか?」
「……うん。でも、どうしたの? 急に……」
さっき誰か知り合いが来たようで、戻ってきてから難しい顔をしながら納豆を食べていた。そのことと関係があるのだろうか。
「明日で俺も一応今年の仕事は終わりにするから。それまではここで大人しくしてて」
航さんはそう言うと私の腕を引きギュッと背中に手を回す。「いいな?」と耳元でささやかれて、ブルリと身体が震えた。ズルい。
「じゃあ、今日は早く帰ってきてね」
航さんの硬くて細い腰の辺りのシャツを握って言った。
「分かった。捲りまくる。……また玲奈にキモいって言われるだろうけど」と言ってクスクスと笑う。
「お前、指輪は?」
「あんな大事な物、日ごろから身につけられるわけないでしょう」
何も欲しいものは無いと言ったけれど、まさかお母様の形見をくれるとは思わなかった。見たこともない大きさのダイヤがついていて、とてもとてもつけながら家事ができるような代物ではない。
「失くしたり壊したりしないか心配で……」
「別にいいよ。凛の方が何百倍も大事だから」
カットソーの裾から手を入れて、航さんは私の肌を確かめるように撫でる。私はピクリと反応しながら、航さんの首筋にキスをした。
するとお台所の戸が開く音がして、「凛ちゃーん」と女将さんの呼ぶ声がした。こんなことをしている場合では全くなかった。
「いい子にしてろよ?」と航さんは構わずキスをするので、私はボカボカと航さんの胸を叩き抜け出すと慌ててお台所へ戻った。
そして翌日。もうあと二日で今年も終わるという日だった。
なぜか昨日も今日も、朝から響君が居間で勉強をしている。
仕事で必要な資格の試験が年明けにあるのだと言う。その勉強のためにみんなより一日早く冬休みに入ったということらしい。
「すみません、昨日から居座って」
3時を過ぎ、私がおやつにおかきとお茶を出すと、響君はそう言って肩身が狭そうに正座の足を組み直した。
「いや、私こそ居候で居座ってる身だから。それに……響君、航さんに頼まれてここに居るんでしょ?」
円卓に頬杖をついて横目に見ると、響君は二度瞬きをして「いえ、別に」と言った。
「なに? 航さんに口止めされてるの?」
「いえ、別に。俺はただ玲奈と一緒にいたいからここに来てるので。凛さんのお陰で航さん公認なのはありがたいですけど」
「あら、そうでしたか」
けれど肝心の玲奈さんは、響君のスマホが鳴ってその着信画面を見てしまったことをきっかけに、昼辺りから自室に籠っている。
なんというか、この二人はいつになったら上手くいくのだろう。
「で? さっきは誰からの着信だったの?」
「……高校の同級生です」
「ああ、玲奈さんが一番嫌がってる高校の女の子ね」
とニッコリとして言うと、響君はお茶を飲む手を止めてこちらを見た。
「一番嫌がってるんですか? なぜ?」
「響君、そういうことは本人にちゃんと訊いた方がいいよ。玲奈さんの部屋まで案内しようか?」
すると響君はお茶をドゴっと勢いよく置いて立ち上がった。
「いえ、一人で大丈夫です。行ってきます」
やる時はやる男だった。私は「行ってらっしゃい!」と響君の背中に激励をぶつけた。
やれやれと思いながら、遠慮していた居間の畳の掃除を始めた。
箒で掃き、端から端までしっかりと乾拭きを終えても響君は戻ってこない。上手くいっているといいのだけれど。
居間で独り、一息ついた。女将さんも今は休憩をしに自室に戻っている。
そんなタイミングで私のスマホが鳴った。
『今、絶対に店に来ないで』
明菜さんからLINEだった。通知画面に表示されたメッセージを見て嫌な予感はした。開くと、カフェの客席を写した画像も一緒に送られてきていた。
それを眺めていると、もう一つ拡大された画像が送られてきた。
『この人、凛ちゃんのこと探してる』
……あいつだ。
「わああ」
私は虫でも掴んでしまったかのように自分のスマホを放り投げた。
どうして。なんで。ここが分かったの? どうして分かったの?
頭の中が真っ白になった。
(ああ、ここにはもう居られない。)
次の瞬間にはそう考えていた。うろたえている場合ではない。あいつが来たら、すぐにここを出ようと決めていた。
私は震える足で静かに二階に上がると、身軽に動けるだけの荷物をまとめた。いや、もうまとめてあった。もうずっと、私はここから去る準備をしていた。
バッグからメモを取り出し一枚破る。
『お返しします。突然出て行ってごめんなさい』
ソファーテーブルにメモを置き、お母様の指輪の重厚なケースでそれを押さえた。
部屋を見渡す。
私の無邪気な幸福感で満たされた空間だった。
ずっとここで、航さんに愛されて暮らしたかった。大好きだった。
一階に下りるともう一枚のメモをお台所の作業台に置いた。
『突然出て行ってごめんなさい。家の鍵はポストの中に』
玄関を出る時に、振り返った。
航さんが「心配すんな」と頭を撫でてくれた気がした。
目尻を手の甲で拭うと、私は玄関の戸に鍵をかけダイヤル式のポストへと静かにその鍵を落とした。
正面の門はお店が近い。裏口の小さな扉から屋敷の敷地を出た。
あとは、振り返らずにひたすらに走るだけだった。