ようこそ、片桐社長のまかないさん
14 片桐社長からは逃げられない
気がついたら、あの岩場に居た。
土地勘はほとんどないのに、走っていたら誰もいない浜辺に辿り着いて、ほとんど無意識に海岸沿いを歩きあの岩場に着いたのだった。
久しぶりの外の空気に当てられている中で、真冬の潮風は凶器のように冷たくて私の頬を容赦なく攻撃し気を失いそうだった。
一先ず大きな岩陰に隠れるようにして座る。
この凸凹で風の強い岩場に立てられるはずはないけれどテントを持って出なかったことが悔やまれた。
これから、どこに行こう。この町から早く離れなくてはいけない。けれど駅に行けばあの男に出くわさないとも限らない。
昨日と今日、店に行くな外に出るなと言っていた航さんは、あの男がこの町に来ていることを知っていたのだろうか。
(確か、バスが出ていたはずだ。)
お祭の神社に行く途中にバス停があり、行先は先日航さんと行った旅館のある観光地と書いてあった。
いや、観光地はダメだ。この港町には宿やホテルがない。あの男が冬休みを利用してここに来ているのだとしたら、近くの観光地に宿を取っている可能性が高い。
(これで片桐家に迷惑を掛けずに済んだだろうか。)
あいつが来ても実際に私さえ居なければ女将さんたちは何も隠す必要がなく、負担はかけないで済む。
……思考があっちに飛んだりこっちに飛んだり忙しい。忙しく考えても、これから自分がどうすべきかまるで分らないのだった。
スマホが鳴った。女将さんだ。私は慌ててスマホの電源を切った。
(女将さんの力になるつもりだったのに。ごめんなさい。)
「いた。凛ちゃん。帰ろう」
懐中電灯の光を顔に当てられ、目が覚めた。気絶するように眠ってしまっていたらしい。
眩しくてよく見えないけれど、声からしてそこにいるのは根岸さんのようだ。
「どうして……ここが?」
冬の海岸沿のさらにその奥にある岩場の陰なんて誰も探さないだろうと思っていた。
「社長が、ここに居るかもしれないから探してくれって」
「……航さんが?」
「社長は今日は営業で市内まで行ってたから、今急いで戻ってきてる。帰ろう? こんなところに居たら凍え死ぬよ」
根岸さんは懐中電灯の明るさを調節して私の隣に屈んだ。まだ山の方に夕焼けが残り薄暗い。
「帰りません」
「いや、それじゃ俺が社長に怒られるよ」
「でも……帰れません」
すると根岸さんはため息を吐いた。
「ストーカー男と出くわしたらまずいだろ? 俺、海岸の駐車場まで車で来てるから。早く乗って」
「嫌です」
私は膝を抱いて、冷え切った体が震えるのを押さえながら言った。
「社長の家に居た方が断然安全なのに? なんで?」
「迷惑を掛けたくないからです」
「みんな迷惑だなんて思わないよ」
私は俯きながら口を開いた。
「玲奈さんは男の人に怖い目に合わされたことのある当事者です。他人の私があの家に玲奈さんを脅かす問題を持ち込んではいけなかったんです」
「そんなの凛ちゃんのせいじゃないよ」
でも、違う、本当の理由はそれじゃない。
私にはもうずっと、どこにも居場所がなかった。
この岩場に辿り着いて、そういうことだと気が付いてしまった。
母に祖母の家へ預けられていたのは、私の存在が邪魔だったからだ。
自分の居場所は祖母の家なのだと思っていた。でも、高学年になるとそれも取り上げられた。
仕事と恋人を優先していることを祖母に咎められた母は、祖母と次第に疎遠になり私は死に目にも会えなかった。
学生時代も社会人になってからも、正しくありたいと思えば思うほど、孤立した。最後は唯一居場所をくれていた同期に迷惑を掛けることになって、逃げだした。
(ああ、今回も同じだ。)
私を丸ごと受け入れてくれたあの家の人たちに。航さんに。面倒だと思われたらと思うと、それが一番怖かった。
「分かった。じゃあ、今度こそ俺のいるシェアハウスだな」
黙っていた根岸さんは、良し、と両膝を叩いてそう言った。
根岸さんのいる社宅は古民家をそのまま居抜いて、居間とお台所、トイレと風呂を共用部分とし、一階の二部屋を根岸さんと山薙さんが、二階の二部屋の内の一つを事務の小川さんが使っていた。
小川さんは昨日で年内の仕事を終え県内のご実家に帰省中とのことで不在だった。山薙さんは航さんと一緒に市内に行っているようでまだ帰ってきていなかった。
私は促されるままに居間のちゃぶ台に腰かけ、根岸さんがストーブをつけてくれた。
「まだ社長には凛ちゃんを見つけたとしか連絡してないから。山薙が戻ってきたら入れ替わりで社長のところ行って、しばらくここに身を置くことを話してくるね」
私は小さく頷いて、芯まで冷えた身体の表面がストーブの熱でじんわり温められていくのを感じていた。
すぐに山薙さんが戻ってきて、代わりに根岸さんが出て行った。
「みんな心配してたよ」と山薙さんが言って、私は目も合わせられずに「ごめんなさい」と謝るしかできなかった。
山薙さんが空いている部屋に案内してくれた。
お祭の際に私がこちらに引っ越してくるかもと聴いた小川さんが張り切って布団を干してくれていたらしい。気付かないところでまた人の気持ちを裏切っていたことを知る。
部屋には清潔な布団とテレビと小さなテーブルが置かれていた。
山薙さんは何も言わないでいてくれた。航さんは山薙さんは何を考えてるか分からないと言うけれど、航さんのところに居る人はみんな根っこの部分が優しいことを私は知っていた。
(もう、ここの人たちとは会えないと思いながら家を出たのにな。)
中途半端に逃げ出して一番迷惑を掛けている今の状況に、喉の奥が焼けたように痛い。
山薙さんが部屋を出る前に点けてくれたエアコンの暖房が利き始めて、乾いた空気で顔が熱くなってきた。
ボーっとしてただ時間を消化する。なにか考えているのがもう辛い。キャパオーバーだ。
部屋の戸がノックされたのは、ボーっとしだしてどのくらい経ってからだったか。
「社長と話してきたよ。凛ちゃんが会いたくないって言ってるって伝えたら、社長魂抜けてたよ」
根岸さんには、年が明けるまでは一先ず社宅を使わせて欲しいと伝えてもらい、夕食の準備も手伝わずに抜け出したことを謝ってきてもらった。
「お手数をかけてすみませんでした。自分で行くべきなのに……」
「いや今外出は危険だから。凛ちゃん、今日から年末休み貰ってたんだって? 謝る必要なかったのに。女将さんはとにかく心配してたし、玲奈ちゃんは泣きじゃくってたよ」
「そうですか……」
考えようとすると頭が割れそうに痛い。
「一先ず、社長としてもストーカーが凛ちゃんのことを探し回っている以上、片桐家に居るより社宅に居た方が安全かもしれないって言ってたよ。その男、何度かカフェに来てるみたいだしね」
返事をしようとすると頭がズキズキして思わず頭を抱えた。
「凛ちゃん、体調悪そうだね。風呂は明日にして今日はもう寝る?」
私は小さく頷いた。
「本当にすみません」
その後のことはあまり覚えていない。死んだように眠った。
次の日の夜のことだった。コンコン、と部屋がノックされた。
布団にもぐっていた私は、山薙さんだろうか、根岸さんだろうかと思いながらも声が出せなかった。
ガチャリと戸が開けられて誰かが入ってくる。
山薙さんでも、根岸さんでもなかったら?
突如そんな不安がよぎって、布団から頭を上げた。
その途端に、とても激しく抱きしめられ、上半身が布団からふわりと浮いた。
「いなくなるなよ」
掠れて上手く出せない声で、航さんがそう言った。
「ごめんなさ……」
昨日から喋ろうとすると頭が痛んだのに、今はなぜか平気だった。航さんが抱きしめてくれていると、苦しいのに呼吸が楽になる。
「無事で良かった」
そう言って航さんは所在を確かめるように私の顔をペタペタと触って泣きそうな眼差しで見つめる。その顔を見て、余計に私は涙があふれて止まらなくなった。
航さんは気持ちをぶつけるようにして激しいキスをした。いつものゆったりとした舌の動きとは全然違って、食べられてしまいそうなキスだった。
そのまま布団に寝かされると、服の中に荒々しく熱い手が潜り込んできた。
「こう……さん、待って」
「いやだ」
あっという間に服を脱がされると、航さんもシャツを脱ぎ、大好きな航さんの上半身が露わになった。
「どこにも行くなって言った」
航さんは子どものように怒っていた。
「……ごめんなさい。あのまま居座って、面倒に思われるのが怖くて。自分のことばっかり……っあ、待って、話し……んっ、てるのに」
航さんはいつもよりも激しい指先で愛撫をする。激しくされているのに、痛くないどころかいつもよりも気持ちよく感じてしまうのは、こんな状況だからなのか、それとも激しかろうとも航さんの指が優しいからなのか。
「お前は混乱してた」
航さんが言った。
「散々怖い思いをさせられたストーカーが身近に迫って、恐怖も混乱もしない人間なんていない。お前は普通の精神状態じゃなかった。だからお前は何も悪くない。自分の感情を間違っても責めるな」
そう言いながら航さんは私を赤くなった目で見つめ、おでことおでこをくっつける。
「でも、航さん怒って……んんっ」
「お前の顔見たら、安心してコントロールが利かなくなった」
航さんも今、普通の精神状態じゃないのだろうか。支離滅裂な航さんなんて初めて見た。でも、自分の感情を責めるなと、その言葉はとても嬉しかった。
「待って……ダメだよ、あっ、下に根岸さんたちが……あっ」
「もう寝てる。声我慢しろよ」
ダメなのにと思いながらも、もう触れられないと思っていた航さんの体がそこにあって本気で拒めるはずもない。
何をやっているんだろう。巻き込んではいけないのに。私なんていない方がいいのに。
そう思っては、航さんの愛撫とキスに思考が溶けていく。
「夜這いに来たの?」
散々抱かれた後、社宅で何てことをしたのだと、そそくさと服を着ながら言った。
時計を見ると2時を回っていた。
「夜這いとか言うな」と航さんもバツが悪そうにいそいそと服を着る姿に笑ってしまった。
航さんは手元にあった私のカットソーを取ると、甲斐甲斐しく着せてくれた。
その航さんの笑顔が優しくて、胸が掴まれたみたいに苦しくなる。ああ、もうどうしたらこの人を諦められるのだろう。
「ズルいなぁ」とポツリと口にすると、航さんは「お前こそ」と言った。
私が膨れっ面をすると、航さんは私の頬をつねった。
「明日、東京に行くぞ」
突拍子もないことを言い出したので、「なんでそうなるの?」と私は目を瞬かせた。
「終わらせに行く」
航さんはそう不敵に笑った。
私は訳がわからなくて、ただ航さんに優しくつねられながら首を傾げるしかできなかった。
[side航]
凛がいなくなったという電話を受けた時は、心臓が止まるかと思った。
女将から電話がかかってきたのは、市内のホテルで打ち合わせをしている時だった。
ホテルのメインのレストランビュッフェでうちの加工品を使うか検討しているとのことで、年の瀬に急遽だが営業を得意とする山薙を連れてホテルのカフェまで出向いたのだった。
山薙は大学の同級生で、新卒で総合商社に入社し去年までバリバリと働いていたけれど、俺が家業を継いだと知ると呆気なく会社を辞め、半年前から俺の仕事を手伝っている。
山薙もまたその内に家業を継がなくてはいけない身だ。うちは水産業だが、山薙の実家は有名観光地にある老舗旅館だった。
山薙は自分が実家を継ぐまでの遊び兼、暇つぶし、そして少しの勉強のために。俺は山薙の営業力を借りる形で互助関係が成り立っている。
普段は大人しく、賄を食べに来てもほとんど口を開かない男だった。仕事以外で他人と関わるのを面倒がる性質なのだ。けれど一度商談ともなれば、彼ほど心強い存在はいない。
ホテルとの打ち合わせ中に受けた女将からの電話に放心していると、山薙が全てをうまく終わらせてくれていた。
帰りの車の中で、山薙は面白がっていた。
「お前が凛ちゃんに逃げられるとはな」
「俺から逃げた訳じゃない」と頭を押さえながら助手席でLINEの返事を打つ。根岸さんと市松さんとやりとりをしていた。
山薙は滅多に見せない子供のような顔でニヤつきながら運転している。完全に状況を楽しんでいるようだ。
「ま、玲奈ちゃんを怖がらせたくなかったのかな。どっちにしろ迷惑かけたくなかったんだろ」
「分かってる」
「根岸さんが見つけてくれて良かったな」
「ああ。帰りたがってないみたいだけど」
さっき根岸さんから岩場にいる凛を見つけたと連絡があり、一息ついたところだった。
「で? ストーカーは今どこ?」
「まだ店にいるらしい。俺が戻るまでいるといいんだけど」
「会うのか?」と山薙は運転中にもかかわらずこちらをガッツリと向く。危ない。
「ああ」
山薙はまっすぐの道で車も走っていないからとじっとこちらを見たままだ。
「危ない、前向け」
「分かった。飛ばす。すぐ着くぞ」
山薙の爆走のおかげで20分いつもよりも早く家に着き、なんとか閉店に間に合った。
店内には、物販に店長、数人の客。カフェにはカウンターの中の市松さんと、客が一人。
こいつか。こいつが凛を。
自分がドス黒い目でその男が椅子に座る背を眺めていることが分かった。
でも完全に憎めずにいる。こいつがいなければ、凛と俺が再会することもなかった。
けれど都合良くも、今はこいつに消えて欲しい。
スマホで漫画を読む男はまだ簡単に動きそうにない。
俺は市松さんに目配せをしながら、レジでホットコーヒーを頼んだ。
レジからゆっくりと男の正面に近づく。男が顔を上げた。
「ああ、やっぱり。ヴィバリューの原田さんじゃないですか」
とびきりの営業スマイルを繰り出して、努めて明るくそう言った。原田は反射的にペコリと頭を下げて、すぐに怪訝な顔でこちらを見る。
「ああ、失礼しました。私、数年前にヴィバリューのコンサルを担当していました片桐と申します。確か人事部にいらした原田さんですよね。元人事の福西専務と交友がありまして、優秀な人材と話していたことを覚えていまして」
「……そうでしたか、それはどうも」
男は思ったよりも感じ良く愛想笑いを浮かべると、明るい声でそう答えた。
もちろん原田のことなど、ヴィバリューを担当していた時から知っていた訳ではない。凛から人事の原田という男とだけ聴いていたのだ。この男も当時俺の存在など知らなかっただろう。
「観光ですか?」
訊ねると、男はスマホをポケットにしまいながらハハっと笑った。
「まあ、そんな感じです。そちらは?」
「私はこちらが地元でして。港以外何もない町でしょう? 観光といっても退屈じゃないですか?」
男の向かいの椅子の背もたれに手を掛けた。いつもの三倍の笑顔を心がける。同性相手でも、この顔が相手に好感を与えることを子供の頃に学んだ。存分に利用してやる。
「いやいや、良いところじゃないですか、魚が美味しくて」
シワを作り異様に目を細める笑い方に虫唾が走る。そんな顔で凛に卑猥な嫌がらせをしていたのかと思うと今にも殴りかかりたくなった。
「そう言ってもらえると救われますよ。原田さんはいつまでこちらに?」
「仕事が始まるまではのんびりしようかと思ってます。……ところで、この辺に杉崎さんというお宅はありませんか? 昔お世話になった方でご挨拶がしたいのですが、どうにも場所が分からなくて」
参った参ったとばかりに自分の頭をポンと叩いて男はそう言った。人のことは言えないが、白々しさに寒気がする。
「杉崎さんですか? 杉崎さんは数年前に亡くなって、今は家も取り壊して更地ですが……」
「え、そうなんですか? ……うーん。困ったな。あ、お孫さんがいらっしゃるんですが、この辺にお住まいじゃないですかね?」
「杉崎さんの……お孫さんですか?」
「はい。あ、杉崎さんからいただいた写真があるんです」
男は慌てた手つきで、椅子に掛けていたボディーバッグからヨレた写真を取り出した。
向かいの椅子に座りそれを受け取る。
凛だった。険しい顔をしてパソコンを眺めている。今のような天真爛漫な雰囲気は皆無で、顔色も悪い。環境に潰されていた頃の、凛だった。
「この写真を、杉崎さんが?」
「ええ」
こんな社内での隠し撮り写真を、なぜ祖母にお世話になった人間が持っている。おかしいだろう。作り話の粗さに苛立ちがつのる。
「私、今の仕事柄、地元の人間は大体顔見知りなので。訊いて差し上げますよ。スマホで撮らせてもらいますね」
言いながら、片手に準備していたスマホで凛の写真と、向かいに座る原田の顔が両方写るように撮影をした。
原田は止めようと手を伸ばしたようだが、俺の動きの速さが優った。
「なにか?」と微笑むと、原田は「いえ、ありがとうございます」と言った。
今すぐにでもこんな写真、握りつぶしてしまいたい。その衝動を抑えながら原田に凛の盗撮写真を返した。
「何か分かりましたらご連絡しますよ」
最後はちゃんと笑えていたか分からない。原田は少し顔をひきつらせながら、助かります、とだけ答えた。
[side凛]
久しぶりの東京だった。
もう戻ってこないと思っていた。
高速から見えるスカイツリーを横目に、助手席の航さんと運転をしてくれている山薙さんが何か難しい話をしているのをBGMのように聞き流していた。
航さんは東京に行くの一点張りで、なにをしに行くのか良く分からないまま車に乗せられ今にいたる。
まだあの男があの町にいるのなら、東京に居る方が安全なのだろうか。どこに行っても安全な場所なんてないようにも思える。
どこまで追いかけてくるつもりなのだろう。どうして私にあんなにこだわっているのだろう。
(……私はいつか殺されるのだろうか?)
「凛、着いたぞ」
気が付くと、大嫌いな街並みの中にある大嫌いなビルの車寄せに停車していた。
「なんで……」
降りると身震いがした。寒さだけではない。私はここから排除された人間だからだ。
「行くぞ」と、航さんは私の手を引いた。
勤めていた時と違うのは、私の隣には航さんがいるということだった。
土地勘はほとんどないのに、走っていたら誰もいない浜辺に辿り着いて、ほとんど無意識に海岸沿いを歩きあの岩場に着いたのだった。
久しぶりの外の空気に当てられている中で、真冬の潮風は凶器のように冷たくて私の頬を容赦なく攻撃し気を失いそうだった。
一先ず大きな岩陰に隠れるようにして座る。
この凸凹で風の強い岩場に立てられるはずはないけれどテントを持って出なかったことが悔やまれた。
これから、どこに行こう。この町から早く離れなくてはいけない。けれど駅に行けばあの男に出くわさないとも限らない。
昨日と今日、店に行くな外に出るなと言っていた航さんは、あの男がこの町に来ていることを知っていたのだろうか。
(確か、バスが出ていたはずだ。)
お祭の神社に行く途中にバス停があり、行先は先日航さんと行った旅館のある観光地と書いてあった。
いや、観光地はダメだ。この港町には宿やホテルがない。あの男が冬休みを利用してここに来ているのだとしたら、近くの観光地に宿を取っている可能性が高い。
(これで片桐家に迷惑を掛けずに済んだだろうか。)
あいつが来ても実際に私さえ居なければ女将さんたちは何も隠す必要がなく、負担はかけないで済む。
……思考があっちに飛んだりこっちに飛んだり忙しい。忙しく考えても、これから自分がどうすべきかまるで分らないのだった。
スマホが鳴った。女将さんだ。私は慌ててスマホの電源を切った。
(女将さんの力になるつもりだったのに。ごめんなさい。)
「いた。凛ちゃん。帰ろう」
懐中電灯の光を顔に当てられ、目が覚めた。気絶するように眠ってしまっていたらしい。
眩しくてよく見えないけれど、声からしてそこにいるのは根岸さんのようだ。
「どうして……ここが?」
冬の海岸沿のさらにその奥にある岩場の陰なんて誰も探さないだろうと思っていた。
「社長が、ここに居るかもしれないから探してくれって」
「……航さんが?」
「社長は今日は営業で市内まで行ってたから、今急いで戻ってきてる。帰ろう? こんなところに居たら凍え死ぬよ」
根岸さんは懐中電灯の明るさを調節して私の隣に屈んだ。まだ山の方に夕焼けが残り薄暗い。
「帰りません」
「いや、それじゃ俺が社長に怒られるよ」
「でも……帰れません」
すると根岸さんはため息を吐いた。
「ストーカー男と出くわしたらまずいだろ? 俺、海岸の駐車場まで車で来てるから。早く乗って」
「嫌です」
私は膝を抱いて、冷え切った体が震えるのを押さえながら言った。
「社長の家に居た方が断然安全なのに? なんで?」
「迷惑を掛けたくないからです」
「みんな迷惑だなんて思わないよ」
私は俯きながら口を開いた。
「玲奈さんは男の人に怖い目に合わされたことのある当事者です。他人の私があの家に玲奈さんを脅かす問題を持ち込んではいけなかったんです」
「そんなの凛ちゃんのせいじゃないよ」
でも、違う、本当の理由はそれじゃない。
私にはもうずっと、どこにも居場所がなかった。
この岩場に辿り着いて、そういうことだと気が付いてしまった。
母に祖母の家へ預けられていたのは、私の存在が邪魔だったからだ。
自分の居場所は祖母の家なのだと思っていた。でも、高学年になるとそれも取り上げられた。
仕事と恋人を優先していることを祖母に咎められた母は、祖母と次第に疎遠になり私は死に目にも会えなかった。
学生時代も社会人になってからも、正しくありたいと思えば思うほど、孤立した。最後は唯一居場所をくれていた同期に迷惑を掛けることになって、逃げだした。
(ああ、今回も同じだ。)
私を丸ごと受け入れてくれたあの家の人たちに。航さんに。面倒だと思われたらと思うと、それが一番怖かった。
「分かった。じゃあ、今度こそ俺のいるシェアハウスだな」
黙っていた根岸さんは、良し、と両膝を叩いてそう言った。
根岸さんのいる社宅は古民家をそのまま居抜いて、居間とお台所、トイレと風呂を共用部分とし、一階の二部屋を根岸さんと山薙さんが、二階の二部屋の内の一つを事務の小川さんが使っていた。
小川さんは昨日で年内の仕事を終え県内のご実家に帰省中とのことで不在だった。山薙さんは航さんと一緒に市内に行っているようでまだ帰ってきていなかった。
私は促されるままに居間のちゃぶ台に腰かけ、根岸さんがストーブをつけてくれた。
「まだ社長には凛ちゃんを見つけたとしか連絡してないから。山薙が戻ってきたら入れ替わりで社長のところ行って、しばらくここに身を置くことを話してくるね」
私は小さく頷いて、芯まで冷えた身体の表面がストーブの熱でじんわり温められていくのを感じていた。
すぐに山薙さんが戻ってきて、代わりに根岸さんが出て行った。
「みんな心配してたよ」と山薙さんが言って、私は目も合わせられずに「ごめんなさい」と謝るしかできなかった。
山薙さんが空いている部屋に案内してくれた。
お祭の際に私がこちらに引っ越してくるかもと聴いた小川さんが張り切って布団を干してくれていたらしい。気付かないところでまた人の気持ちを裏切っていたことを知る。
部屋には清潔な布団とテレビと小さなテーブルが置かれていた。
山薙さんは何も言わないでいてくれた。航さんは山薙さんは何を考えてるか分からないと言うけれど、航さんのところに居る人はみんな根っこの部分が優しいことを私は知っていた。
(もう、ここの人たちとは会えないと思いながら家を出たのにな。)
中途半端に逃げ出して一番迷惑を掛けている今の状況に、喉の奥が焼けたように痛い。
山薙さんが部屋を出る前に点けてくれたエアコンの暖房が利き始めて、乾いた空気で顔が熱くなってきた。
ボーっとしてただ時間を消化する。なにか考えているのがもう辛い。キャパオーバーだ。
部屋の戸がノックされたのは、ボーっとしだしてどのくらい経ってからだったか。
「社長と話してきたよ。凛ちゃんが会いたくないって言ってるって伝えたら、社長魂抜けてたよ」
根岸さんには、年が明けるまでは一先ず社宅を使わせて欲しいと伝えてもらい、夕食の準備も手伝わずに抜け出したことを謝ってきてもらった。
「お手数をかけてすみませんでした。自分で行くべきなのに……」
「いや今外出は危険だから。凛ちゃん、今日から年末休み貰ってたんだって? 謝る必要なかったのに。女将さんはとにかく心配してたし、玲奈ちゃんは泣きじゃくってたよ」
「そうですか……」
考えようとすると頭が割れそうに痛い。
「一先ず、社長としてもストーカーが凛ちゃんのことを探し回っている以上、片桐家に居るより社宅に居た方が安全かもしれないって言ってたよ。その男、何度かカフェに来てるみたいだしね」
返事をしようとすると頭がズキズキして思わず頭を抱えた。
「凛ちゃん、体調悪そうだね。風呂は明日にして今日はもう寝る?」
私は小さく頷いた。
「本当にすみません」
その後のことはあまり覚えていない。死んだように眠った。
次の日の夜のことだった。コンコン、と部屋がノックされた。
布団にもぐっていた私は、山薙さんだろうか、根岸さんだろうかと思いながらも声が出せなかった。
ガチャリと戸が開けられて誰かが入ってくる。
山薙さんでも、根岸さんでもなかったら?
突如そんな不安がよぎって、布団から頭を上げた。
その途端に、とても激しく抱きしめられ、上半身が布団からふわりと浮いた。
「いなくなるなよ」
掠れて上手く出せない声で、航さんがそう言った。
「ごめんなさ……」
昨日から喋ろうとすると頭が痛んだのに、今はなぜか平気だった。航さんが抱きしめてくれていると、苦しいのに呼吸が楽になる。
「無事で良かった」
そう言って航さんは所在を確かめるように私の顔をペタペタと触って泣きそうな眼差しで見つめる。その顔を見て、余計に私は涙があふれて止まらなくなった。
航さんは気持ちをぶつけるようにして激しいキスをした。いつものゆったりとした舌の動きとは全然違って、食べられてしまいそうなキスだった。
そのまま布団に寝かされると、服の中に荒々しく熱い手が潜り込んできた。
「こう……さん、待って」
「いやだ」
あっという間に服を脱がされると、航さんもシャツを脱ぎ、大好きな航さんの上半身が露わになった。
「どこにも行くなって言った」
航さんは子どものように怒っていた。
「……ごめんなさい。あのまま居座って、面倒に思われるのが怖くて。自分のことばっかり……っあ、待って、話し……んっ、てるのに」
航さんはいつもよりも激しい指先で愛撫をする。激しくされているのに、痛くないどころかいつもよりも気持ちよく感じてしまうのは、こんな状況だからなのか、それとも激しかろうとも航さんの指が優しいからなのか。
「お前は混乱してた」
航さんが言った。
「散々怖い思いをさせられたストーカーが身近に迫って、恐怖も混乱もしない人間なんていない。お前は普通の精神状態じゃなかった。だからお前は何も悪くない。自分の感情を間違っても責めるな」
そう言いながら航さんは私を赤くなった目で見つめ、おでことおでこをくっつける。
「でも、航さん怒って……んんっ」
「お前の顔見たら、安心してコントロールが利かなくなった」
航さんも今、普通の精神状態じゃないのだろうか。支離滅裂な航さんなんて初めて見た。でも、自分の感情を責めるなと、その言葉はとても嬉しかった。
「待って……ダメだよ、あっ、下に根岸さんたちが……あっ」
「もう寝てる。声我慢しろよ」
ダメなのにと思いながらも、もう触れられないと思っていた航さんの体がそこにあって本気で拒めるはずもない。
何をやっているんだろう。巻き込んではいけないのに。私なんていない方がいいのに。
そう思っては、航さんの愛撫とキスに思考が溶けていく。
「夜這いに来たの?」
散々抱かれた後、社宅で何てことをしたのだと、そそくさと服を着ながら言った。
時計を見ると2時を回っていた。
「夜這いとか言うな」と航さんもバツが悪そうにいそいそと服を着る姿に笑ってしまった。
航さんは手元にあった私のカットソーを取ると、甲斐甲斐しく着せてくれた。
その航さんの笑顔が優しくて、胸が掴まれたみたいに苦しくなる。ああ、もうどうしたらこの人を諦められるのだろう。
「ズルいなぁ」とポツリと口にすると、航さんは「お前こそ」と言った。
私が膨れっ面をすると、航さんは私の頬をつねった。
「明日、東京に行くぞ」
突拍子もないことを言い出したので、「なんでそうなるの?」と私は目を瞬かせた。
「終わらせに行く」
航さんはそう不敵に笑った。
私は訳がわからなくて、ただ航さんに優しくつねられながら首を傾げるしかできなかった。
[side航]
凛がいなくなったという電話を受けた時は、心臓が止まるかと思った。
女将から電話がかかってきたのは、市内のホテルで打ち合わせをしている時だった。
ホテルのメインのレストランビュッフェでうちの加工品を使うか検討しているとのことで、年の瀬に急遽だが営業を得意とする山薙を連れてホテルのカフェまで出向いたのだった。
山薙は大学の同級生で、新卒で総合商社に入社し去年までバリバリと働いていたけれど、俺が家業を継いだと知ると呆気なく会社を辞め、半年前から俺の仕事を手伝っている。
山薙もまたその内に家業を継がなくてはいけない身だ。うちは水産業だが、山薙の実家は有名観光地にある老舗旅館だった。
山薙は自分が実家を継ぐまでの遊び兼、暇つぶし、そして少しの勉強のために。俺は山薙の営業力を借りる形で互助関係が成り立っている。
普段は大人しく、賄を食べに来てもほとんど口を開かない男だった。仕事以外で他人と関わるのを面倒がる性質なのだ。けれど一度商談ともなれば、彼ほど心強い存在はいない。
ホテルとの打ち合わせ中に受けた女将からの電話に放心していると、山薙が全てをうまく終わらせてくれていた。
帰りの車の中で、山薙は面白がっていた。
「お前が凛ちゃんに逃げられるとはな」
「俺から逃げた訳じゃない」と頭を押さえながら助手席でLINEの返事を打つ。根岸さんと市松さんとやりとりをしていた。
山薙は滅多に見せない子供のような顔でニヤつきながら運転している。完全に状況を楽しんでいるようだ。
「ま、玲奈ちゃんを怖がらせたくなかったのかな。どっちにしろ迷惑かけたくなかったんだろ」
「分かってる」
「根岸さんが見つけてくれて良かったな」
「ああ。帰りたがってないみたいだけど」
さっき根岸さんから岩場にいる凛を見つけたと連絡があり、一息ついたところだった。
「で? ストーカーは今どこ?」
「まだ店にいるらしい。俺が戻るまでいるといいんだけど」
「会うのか?」と山薙は運転中にもかかわらずこちらをガッツリと向く。危ない。
「ああ」
山薙はまっすぐの道で車も走っていないからとじっとこちらを見たままだ。
「危ない、前向け」
「分かった。飛ばす。すぐ着くぞ」
山薙の爆走のおかげで20分いつもよりも早く家に着き、なんとか閉店に間に合った。
店内には、物販に店長、数人の客。カフェにはカウンターの中の市松さんと、客が一人。
こいつか。こいつが凛を。
自分がドス黒い目でその男が椅子に座る背を眺めていることが分かった。
でも完全に憎めずにいる。こいつがいなければ、凛と俺が再会することもなかった。
けれど都合良くも、今はこいつに消えて欲しい。
スマホで漫画を読む男はまだ簡単に動きそうにない。
俺は市松さんに目配せをしながら、レジでホットコーヒーを頼んだ。
レジからゆっくりと男の正面に近づく。男が顔を上げた。
「ああ、やっぱり。ヴィバリューの原田さんじゃないですか」
とびきりの営業スマイルを繰り出して、努めて明るくそう言った。原田は反射的にペコリと頭を下げて、すぐに怪訝な顔でこちらを見る。
「ああ、失礼しました。私、数年前にヴィバリューのコンサルを担当していました片桐と申します。確か人事部にいらした原田さんですよね。元人事の福西専務と交友がありまして、優秀な人材と話していたことを覚えていまして」
「……そうでしたか、それはどうも」
男は思ったよりも感じ良く愛想笑いを浮かべると、明るい声でそう答えた。
もちろん原田のことなど、ヴィバリューを担当していた時から知っていた訳ではない。凛から人事の原田という男とだけ聴いていたのだ。この男も当時俺の存在など知らなかっただろう。
「観光ですか?」
訊ねると、男はスマホをポケットにしまいながらハハっと笑った。
「まあ、そんな感じです。そちらは?」
「私はこちらが地元でして。港以外何もない町でしょう? 観光といっても退屈じゃないですか?」
男の向かいの椅子の背もたれに手を掛けた。いつもの三倍の笑顔を心がける。同性相手でも、この顔が相手に好感を与えることを子供の頃に学んだ。存分に利用してやる。
「いやいや、良いところじゃないですか、魚が美味しくて」
シワを作り異様に目を細める笑い方に虫唾が走る。そんな顔で凛に卑猥な嫌がらせをしていたのかと思うと今にも殴りかかりたくなった。
「そう言ってもらえると救われますよ。原田さんはいつまでこちらに?」
「仕事が始まるまではのんびりしようかと思ってます。……ところで、この辺に杉崎さんというお宅はありませんか? 昔お世話になった方でご挨拶がしたいのですが、どうにも場所が分からなくて」
参った参ったとばかりに自分の頭をポンと叩いて男はそう言った。人のことは言えないが、白々しさに寒気がする。
「杉崎さんですか? 杉崎さんは数年前に亡くなって、今は家も取り壊して更地ですが……」
「え、そうなんですか? ……うーん。困ったな。あ、お孫さんがいらっしゃるんですが、この辺にお住まいじゃないですかね?」
「杉崎さんの……お孫さんですか?」
「はい。あ、杉崎さんからいただいた写真があるんです」
男は慌てた手つきで、椅子に掛けていたボディーバッグからヨレた写真を取り出した。
向かいの椅子に座りそれを受け取る。
凛だった。険しい顔をしてパソコンを眺めている。今のような天真爛漫な雰囲気は皆無で、顔色も悪い。環境に潰されていた頃の、凛だった。
「この写真を、杉崎さんが?」
「ええ」
こんな社内での隠し撮り写真を、なぜ祖母にお世話になった人間が持っている。おかしいだろう。作り話の粗さに苛立ちがつのる。
「私、今の仕事柄、地元の人間は大体顔見知りなので。訊いて差し上げますよ。スマホで撮らせてもらいますね」
言いながら、片手に準備していたスマホで凛の写真と、向かいに座る原田の顔が両方写るように撮影をした。
原田は止めようと手を伸ばしたようだが、俺の動きの速さが優った。
「なにか?」と微笑むと、原田は「いえ、ありがとうございます」と言った。
今すぐにでもこんな写真、握りつぶしてしまいたい。その衝動を抑えながら原田に凛の盗撮写真を返した。
「何か分かりましたらご連絡しますよ」
最後はちゃんと笑えていたか分からない。原田は少し顔をひきつらせながら、助かります、とだけ答えた。
[side凛]
久しぶりの東京だった。
もう戻ってこないと思っていた。
高速から見えるスカイツリーを横目に、助手席の航さんと運転をしてくれている山薙さんが何か難しい話をしているのをBGMのように聞き流していた。
航さんは東京に行くの一点張りで、なにをしに行くのか良く分からないまま車に乗せられ今にいたる。
まだあの男があの町にいるのなら、東京に居る方が安全なのだろうか。どこに行っても安全な場所なんてないようにも思える。
どこまで追いかけてくるつもりなのだろう。どうして私にあんなにこだわっているのだろう。
(……私はいつか殺されるのだろうか?)
「凛、着いたぞ」
気が付くと、大嫌いな街並みの中にある大嫌いなビルの車寄せに停車していた。
「なんで……」
降りると身震いがした。寒さだけではない。私はここから排除された人間だからだ。
「行くぞ」と、航さんは私の手を引いた。
勤めていた時と違うのは、私の隣には航さんがいるということだった。