ようこそ、片桐社長のまかないさん
3 片桐家の美女は
嫌われたら元も子もないからな。
昨日の航さんの言葉はどういう意味だったのだろうと、もう六回もあの時の航さんの色っぽい掠れた声と形の綺麗な唇を思いだし反芻していた。
ひたすらにキャベツを千切りにする単純作業は思考の堂々巡りを助長させる。
単純作業は好きだけれど、航さんにとっては単なるからかいだったのかもしれないのに、昨夜のことばかり考えてしまうのは嫌だった。
「ぎゃあ」
人差し指の第二関節辺りを包丁で薄く削いでしまった。だんだんと染み出てくる血。
「あらあら大丈夫? なにか考え事?」
割烹着のポケットから絆創膏を出しながら女将さんが訊いた。
「いえ、寝ぼけてるだけです、すみません」
お台所の朝は戦場だ。今日は八人分の弁当と五人分の朝食を作らなくてはいけない。
まだ暗いうちから起き出して、昨日仕込んでおいたサバの味噌煮を温めながら味噌汁と焼鮭と卵焼きとその他もろもろ、女将さんは数品を一度に調理する。
そんな中でボーっと男のことを考えながら指を怪我したなんて、自分が情けない。
「まだまだ慣れないでしょう。ゆっくりでいいんだからね」
「いえ、早く役に立てるように頑張ります。すみませんでした」
「凛ちゃんは真面目ねー」
女将さんがすさまじい速さで手を動かしながら朗らかにそう言って笑った。
女将さんのレベルに到達したいなんておこがましいことは言えないけれど、仕事をさせてもらう以上女将さんを目指して頑張らなくては。
余計なことを考えている場合ではない。
仕出しのようなプラスチックの容器に弁当を詰め、同時に朝食も完成した7時を過ぎた頃だった。
お台所の戸が開いて、航さんかと思いドキリとする。普通に朝の挨拶をしなくてはと振り返ると、立っていたのは目を見張るような美女だった。
「……この人、なに?」
美女は眉根を寄せて私を睨むと女将さんにそう訊いた。
「あれ、玲奈はまだ会ってなかったの?」
「昨日は自主練習で遅くなったでしょ」
「そうだったね。この子は昨日からウチの賄さんをしてくれることになったんだよ」
「初めまして、杉崎凛です。あの、昨日から住み込みで……」
女将さんに続いて挨拶をするも、美女は最後まで聞かずに出来上がった朝食を調理台から取り上げると居間に運び始めた。
「ごめんなさいね、凛ちゃん。あの子、ああなのよ」
「いえ、えっと……彼女は……」
「あ、玲奈ね。私の孫なのよ。うーんと、航の父親の妹の子だから航とは従兄妹同士ね」
微細までととのった美しい子で驚いたが、航さんの従妹なら納得だと思った。
「今は専門学校生でね、ここからちょっと遠くまで通ってるのよ。この辺学校なくてねー」
「そうでしたか」
つまり彼女もここに同居しているということか。彼女の了承も得ず突然居候しているということだ。
挨拶もなくいきなり知らない女が家に入り込んでいたらそれは気分が悪いだろうなと思いながら、私も慌てて朝食を居間に運び始めた。
朝食の準備が整ったところで調度航さんが下りてきた。今日は昨日の朝と同じポロシャツにスラックス姿だった。
スーツじゃないことにホッとしつつ、昨夜の濡れ髪が、眼鏡の奥の甘い瞳が、触れた熱い唇が思い出されて体の奥が切なくなる。
それを必死で隠しながら、居間で正座してお茶碗にご飯をついでいく。
航さんはニヤニヤしながら私の仕事ぶりを隣に座って眺めだした。
「お、おはようございます」
変なタイミングで挨拶をすると、航さんはククッと笑いながらおはようと返してきた。
完全にからかわれているなと思いながら五つ目の茶碗にご飯をよそおうとしたときにあれ? と思った。
「女将さんと航さん、玲奈さんと私? あと一人誰か朝食食べるの?」
まだ私の知らない同居人がいるのではとどきりとすると、航さんが「ああ」と答えた。
「響。昨日片付け手伝ってた背の高い……。あいつ、去年母親亡くして独り暮らしでさ。まだ19だし朝食もウチで食わせてんだよ」
「そう……」
まだ19なら朝もたくさん食べるだろうなと思った。
「じゃあ大盛りにしておこうかな」と私が言うと、朝食準備の手伝いを終えた玲奈さんが食卓に着き、口を開いた。
「響は朝からそんなに食べない。私もそんなに食べない。減らして。もったいない」
「ああ、そうなんだ。教えてもらえて助かります」
それぞれの適量が分からず困っていたので助かった。こちらから訊かなかったことを申し訳なく思いつつ、ご飯の量を調節する。
「航さんも? もしかしてこんなに食べない?」
「いや、そのくらいでいい。……お前ほんと面白いな」
「え? なにが?」と訊くも答えてくれない。
「玲奈、賄さんの凛ね」
「……どの部屋に居候させてるの」
玲奈さんはコップに牛乳を注ぎながら訊く。
「俺の部屋の隣の客間」
「え? ……なんで」
と玲奈さんが呟いたところで、起き抜けのような寝癖の髪でぼんやりと響君が入ってきた。
「おはようございます」
響君がこもった声で挨拶をして、慌ててし返した。
チラリと玲奈さんを見ると、プイと響君から目を逸らして朝ご飯を一人で食べ始めてしまった。
(あれ? 妙な反応……)
響と呼んでいたし、専門学校生と言うことは響君と同じくらいの年だろうし、仲が良いのかと思ったけれどそうではないみたいだった。
「玲奈、行くぞ」
朝食を終えると航さんは自分の食器をシンクまで運ぶと食べ終えたばかりの玲奈さんを急かし、嵐のように二人は家を出ていった。
「……二人はどこへ?」
呆然とする私の問いに答えてくれたのは響君だった。
「玲奈は電車で一時間くらいかかる美容の専門に通ってます。ここから最寄駅までも遠いので航さんが車で送ってます」
「そうなんだ。玲奈さんを送ってから航さんはお仕事に?」
「はい」
「……私、免許持ってるし代わりに送っていけるけどなあ……」
大変な朝の時間に私にできることは……と考えてそう呟くと、響君が自分の食器を重ねながら言った。
「いえ、玲奈は航さんに送ってほしいらしいので」
え? と訊き返したけれど、響君は食器を持ってさっさとお台所に行ってしまった。
(従妹、だよね?)
その日、玲奈さんは夕飯前に帰ってきて、従業員の皆さんと一緒に夕食を摂った。
従業員の海賊たちは玲奈さんにはちょっかいを出すこともなく、相変わらず私に「彼氏はいるのか」「付き合った人の人数は」と合コンのようなノリで話し掛けて来るばかりだった。
私はそれをのらりくらりとかわし、女将さんに「凛ちゃんはこの人たちをいなすのが上手ね」と褒められた。
航さんは仕事で遅くなるらしく、その日のお夕飯には間に合わなかった。
響君と一緒に玲奈さんも夕飯の片づけをする。これは日課らしかった。
私は皿洗いとシンクの掃除を終え、航さんの分の焼き魚と小鉢にラップを掛けた。
(航さん、何時に帰ってくるんだろう。)
そう考えていたら、隣で黙々と食器を拭いていた響君が口を開いた。
「航さん、今日は飲み会みたいですよ」
(……そうなんだ。)
19歳男子に見透かされる自分を少し情けなく思ったが、航さんが遅くなるらしいことにがっかりした気持ちが勝った。
無自覚にシュンとした顔をしてしまったらしい、響君が私の顔を見てふと笑った。
「響君、今笑ったね?」
珍しい物を見た気持ちで、何か嬉しくなりそう訊ねた。
「いえ、笑ってません」
「いやいや、笑ったでしょ。おばちゃん、そんなに変な顔してた?」
「おばちゃんって。凛さん25なんでしょ? お姉さんですよ」
飄々と響君はそんなことを言ってくれる。
(昨日初めて会った時から思ってたけど、良い子だよね)
お姉さんと言われただけでついそんなことを思った。
「心配しなくても、航さんは取引先の人と居酒屋で飲んでるだけですよ。航さんは水商売の店行かないから」
「あ、そうなの? へー。ふーん」
と、どう反応すべきか分からず私が生返事をしていると、食器を棚にしまっていた玲奈さんが、急にバシンと扉を閉めた。
そして、まだ片づけも途中だけれどお台所を出て行ってしまった。
「……すみません、玲奈はいつもああいう感じで」
「なんで響君が謝るの?」
と好奇心で訊いてみた。
「……幼馴染なので、なんとなく」
幼馴染! と、素敵な響きにときめいた。そうか。幼馴染と言われるとしっくりきた。
玲奈さんからすると、響君は自分の親戚の会社に就職した幼馴染の男の子。
自分の住む家に出入りしていて一緒に朝食と夕食を摂る。
19歳と言えば高校を卒業して大人のような大人でないような微妙な年齢だろう。
幼馴染の男女ならではの気恥ずかしさなどがあるのかもしれない。
特にあんな美女と、あまり目立たなそうだけれど綺麗な顔立ちをした好青年だ。
……と勝手に考察していると、響君が皿を拭き終えた。
「玲奈は……」
お台所を出て行こうとする響君は急に振り返って言った。
「玲奈はあんなんですが、根は優しいので。嫌わないでやってください」
……キュン、と胸が鳴った。なんて可愛い二人なんだろう。
「大丈夫だよ、嫌ったりしない! 二人を応援する!」
「二人? 玲奈と航さんのことですか?」
玲奈と航さんのこと? と疑問符が頭を占領し考えられないでいると、響君が飄々とした態度のまま首を横に振った。
「あ、いや、なんでもないです」
あ、そうですかと私は呟き、響君はぺこりと頭を下げて帰って行った。
……私は玲奈さんと響君の仲を応援するというつもりで言ったのだけれど。
やっぱり玲奈さんは……。
(……従兄妹って確か結婚できたよね。)
お風呂から上がりベッドの上で髪を乾かしながらそんなことを考えていた。
ずっと切りそびれて伸びに伸びている髪がなかなか乾かない。
(……19歳と26歳か。)
自分が19歳だった頃、スーツを着て仕事をしている人を恋愛対象に見たことはなかった。
それは単に接点がなかったのと、特に年上を好む趣向ではなかっただけの話だ。
もしも19歳の時に、今の航さんと一つ屋根の下で暮らすようなことになっていたらどうだっただろう?
そんな無意味なことを考える。
逆に、航さんの立場からすると、7歳年下を恋愛対象に見るということになる。
男の人はいつまでも若い女の子が好きなものなのだろうか。
私と響君も6歳差だけれど、恋愛対象にはとても見られない。いや、これは個人の問題で……。
止まらない思考に嫌気がさしてきた頃、航さんがガチャリと部屋の戸を開けた。
「あ、お帰りなさい……」
無防備なところに、航さんの疲れが混じった微笑みが殴り込んできた。
趣味のいいストライプのネクタイを緩める仕草を、見てはいけない気がしてドライヤーを髪に当てながら目を逸らした。
(またスーツに着替えてるし……)
航さんは何も言わずに私のベッドに腰掛けると、ワイシャツの第二ボタンまで空けてふーっと軽いため息をついた。
私は八割がた乾いたのでドライヤーを止める。
「お、遅かったんだね……」
時計を見ると12時を回ったところだった。
「いい子にしてたか?」
(……え?)
航さんは私の耳元でかすれた声でそう囁いた。
いやいやいや、キャラが違くない? と焦って距離を取り航さんの顔を覗くと、とろんとした目と緩んだ口元で私を見ていた。
「航さん、酔ってるでしょ?」
恐る恐る訊くと、航さんはムッとした顔をした。
「酔ってない」
始めてみる子供みたいにむくれた顔が、可愛い。
また昨日とは違ったドキドキが襲ってくる。
「……たくさん飲んだの?」
「うん。飲まされちゃった」
今度は屈託なくニコニコする。
(この人、酔うと色気と可愛さが混ざってやばい!!)
「だ、誰と飲んできたの?」
航さんの色香に当てられて、なぜか衝動的にそんなことを聞いてしまった。
「うん? 漁業組合の組合長と三澤屋って旅館の社長」
航さんは目を擦りながらそう答えた。
「そう……なんだ」
「お前は? 今日は何してた?」
航さんは私の耳に手を伸ばして、昨日の続きをするかのようにまたもてあそび始める。
くすぐったくてピクリと体が反応してしまうのを必死で堪える。
「私? わ、私は昼までお掃除とお洗濯と……」
航さんの顔がまた近づいてきて、私は爆発しそうな心臓に耐えながら必死で答える。
「お昼を女将さんと一緒に作って、頂いて。あとは……午後は夕食の準備と……」
航さんは子どもの顔でニコニコしたままおでことおでこをくっつけてきた。
(ダメだ! この人は酔っ払いだ。止めなくては。)
「航さん、お風呂! お風呂に入って来た方が……」
航さんのお酒の香りでこちらまで酔いそうになる。頭がクラクラして上手く言葉が出て来ない。
「風呂? お前は入ったか? 良い匂いする」
そう言って航さんが私の胸元に鼻を寄せた。
耳に触れていた航さんの指が首筋を撫でると「んっ」と変な声が漏れてしまい、思わず口を手で押さえた。
すると航さんが色気ダダ漏れの表情で顔を上げた。
そして、眉根を寄せて真っ赤な困り顔をしているであろう私の頭を支えると、おもむろに首筋にキスをした。
「あ、ちょっと……待って、航さん」
身悶えながら抵抗しようとするも、力が入らない。
「ふわぁっ」
と、自分でも聞いたことのないような変な声が漏れる。
航さんの唇は驚くほど柔らかくて優しく、触れているだけでなぜかとても気持ちが良い。
こんなこと初めてだった。
こんなに優しく触れられたこともなかった。
航さんのワックスの匂いとお酒の匂いと航さん自身の甘い香りが混ざって頭が変になりそうだ。
そのまま押し倒されて、首元に何度もキスをされる。
胸元にも頬にも。
耳に唇を寄せられた時には変な声と共に、勝手に目が潤んできた。
気持ちが昂るのと同時に、航さんが酔っていることや、からかわれているのかもしれないと思う冷静さが同居して混乱する。
「涙目」
気が付くと航さんが私の顔をうかがっていて、指で涙を拭った。
そしてそれをぺろりと舐める。
酔っているからと言って反則技が過ぎる。
「嫌だった? やめる?」
イタズラな顔をしてそんなことを聞きながら、私の手を取り手首にキスをする。
手首すら性感帯になったみたいにジンと体の奥が熱くなって、自分がどんな顔をしているのか想像するのも怖い。
その私の反応を見て微笑むと、航さんは少しの体重を掛けて私の胸元に顎を置いた。
「今日は疲れた。……撫でて」
今度はまた急に可愛くなる。
そろりそろりと腕を伸ばしてワックスで無造作になった航さんの髪を撫でた。
航さんはとろけそうになっていた目をゆっくりと閉じ、懐っこい犬のようにコテンと胸の上で頭を横たえる。
もうキュンを通り越して心臓が痛い。
ゆったりとしたスピードで何度も力なく髪を撫でた。その度に航さんの頭が少しずつ重たくなっていく。
頭を撫でだしてから二、三分で航さんは眠ってしまった。
(……子供?)
スースーと気持ち良さそうな寝息が胸に掛かる。
航さんの頬にそっと触れる。
子供のような寝顔だった。見ていると、ある男の子を思い出した。あの子……おきな君も、航さんのように美しい顔をしていた。
また涙が出てきた。これは何の涙だろう。良く分からない。
けれど、自分の胸で無防備に眠るこの人が、本当に私のものになればいいのにと、そう思ったのは確かだった。
航さんが寝返りを打ったタイミングで私はベッドを抜け出した。
航さんのワイシャツとスーツのパンツが皺にならないかと心配になったけれど、起こすのも脱がすのもためらわれたので毛布を掛けるにとどめた。
ドライヤーを片付けたり目覚ましを掛けたりと眠る準備をしていると、航さんがもぞもぞと動く音がしてベッドを振り返った。
「凛……? 喉乾いた」
目を擦り擦り、そんなことを言う。
「分かったけど、スーツ脱がなくていいの?」
顔を覗き込むと、航さんは上機嫌に笑った。
「大丈夫。凛、喉乾いた」
「……今お台所からお水貰ってくるから、待ってて」
そう言うと航さんは頷いて目を閉じた。
もう女将さんも玲奈さんも寝静まっている頃だろうと、足音をひそめながら二階の廊下を歩いた。
階段に辿り着いたところで、階段の電気を点けようと手伸ばすと直ぐ近くの部屋の戸がギリリと音を立てたのでびくりとした。
「航ちゃん?」
可愛らしい声が聞こえ、見ると暗い部屋から出てきたのは玲奈さんだった。
「あ、ごめんなさい、凛です。すみません、起こしちゃいましたか」
手に持っていたスマホを見るともうすぐ1時だ。
明日は平日だし玲奈さんも朝が早いだろうに、申し訳ない。
「あなた、いつまでここにいるつもりなの?」
玲奈さんは白いフワフワとした部屋着を着ていて、とてもかわいらしい。
それなのに彼女の声は驚くほど冷たくて、とてつもなく私を迷惑だと思っていることが伝わってきた。
「あなたも航ちゃんのことを東京から追いかけてきた女でしょ、どうせ」
「え? 追いかけてきた?」
「前もいたもの。向こうで仕事してた航ちゃんに遊ばれたのかなんなのか知らないけど。勘違いした女が押しかけてきて、あなたみたいに彼女面して」
「いや、私は彼女面してるつもりはないですが……」
「その時は航ちゃんが説得して追い返してたけど。あなたは行く当てがないって航ちゃんを言いくるめて、住み着いて。たちが悪い」
(ああ、これは何を言っても誤解が解けそうにない。)
直感的にそう思った。
東京から突然やって来た余所者で素性の分からない、航さんにまとわりつく女。
玲奈さんからしたら、以前押しかけてきたその女の人と私は全く同じなんだろう。
何を言っても無駄な気がした。
「航さんが決めたことだから」
無意味な言い訳はやめて、私はそうきっぱりと言った。
玲奈さんは表情を変えずにひたすらに私を睨みつけている。
「玲奈さんとも仲良くなりたい」
私がそう言うと、玲奈さんは怒りを込めて眉をひそめた。
「私はあなたが嫌い。早く出て行って」
そう捨て台詞を吐くと、パフンと、勢いの割に間抜けな音を立てて玲奈さんが部屋のドアを閉めたので、なんだか可愛く思えて笑ってしまった。
お台所のサーバーで水を汲んで部屋に戻ると、航さんはまた寝息を立てて眠っていた。
コップをローテーブルに置いて、スヤスヤと眠る航さんの寝顔を見ながら先ほどの玲奈さんの言葉を反芻した。
東京で仕事をしていた航さんに遊ばれた女……。
(ああ、私も結局は玲奈さんの言うように、その女の人と順番は違えど同じ道を辿っているのかもしれない。)
そう思う一方で、航さんの触れる手が、唇が。あんなに優しいことを思い期待に似た感情もポツポツと顔を出してくる。
まだすべてを知るには時間が足りな過ぎるけれど、私の見た航さんはいつも誠実で信用できる男性だった。
だから昨日も今日も触れられて、嬉しい気持ちとそうしてほしくなかった気持ちが同時に湧いてきた。
なのに航さんは容赦なく私を甘く誘惑するし、無防備に胸の中で眠ったりもする。
どうしたらいいのか、分からない。
まだ出会って二日しかたっていないのに、もうこんなにも心を掴まれてしまっていた。
違う。とにかく今は早く仕事を覚えて、女将さんの役に立つことだ。
邪念に支配されそうだった自分の頬をつねった。
早く生活を立て直して、蓄えができたらここから出て行こう。
まだしばらく東京には戻れないけれど……。
私は航さんの眠るベッドから掛け布団を拝借してソファーに転がり目を閉じた。
翌日、玲奈さんが行方不明になり大騒動となることを、この時の私はまだ知らなかった。
昨日の航さんの言葉はどういう意味だったのだろうと、もう六回もあの時の航さんの色っぽい掠れた声と形の綺麗な唇を思いだし反芻していた。
ひたすらにキャベツを千切りにする単純作業は思考の堂々巡りを助長させる。
単純作業は好きだけれど、航さんにとっては単なるからかいだったのかもしれないのに、昨夜のことばかり考えてしまうのは嫌だった。
「ぎゃあ」
人差し指の第二関節辺りを包丁で薄く削いでしまった。だんだんと染み出てくる血。
「あらあら大丈夫? なにか考え事?」
割烹着のポケットから絆創膏を出しながら女将さんが訊いた。
「いえ、寝ぼけてるだけです、すみません」
お台所の朝は戦場だ。今日は八人分の弁当と五人分の朝食を作らなくてはいけない。
まだ暗いうちから起き出して、昨日仕込んでおいたサバの味噌煮を温めながら味噌汁と焼鮭と卵焼きとその他もろもろ、女将さんは数品を一度に調理する。
そんな中でボーっと男のことを考えながら指を怪我したなんて、自分が情けない。
「まだまだ慣れないでしょう。ゆっくりでいいんだからね」
「いえ、早く役に立てるように頑張ります。すみませんでした」
「凛ちゃんは真面目ねー」
女将さんがすさまじい速さで手を動かしながら朗らかにそう言って笑った。
女将さんのレベルに到達したいなんておこがましいことは言えないけれど、仕事をさせてもらう以上女将さんを目指して頑張らなくては。
余計なことを考えている場合ではない。
仕出しのようなプラスチックの容器に弁当を詰め、同時に朝食も完成した7時を過ぎた頃だった。
お台所の戸が開いて、航さんかと思いドキリとする。普通に朝の挨拶をしなくてはと振り返ると、立っていたのは目を見張るような美女だった。
「……この人、なに?」
美女は眉根を寄せて私を睨むと女将さんにそう訊いた。
「あれ、玲奈はまだ会ってなかったの?」
「昨日は自主練習で遅くなったでしょ」
「そうだったね。この子は昨日からウチの賄さんをしてくれることになったんだよ」
「初めまして、杉崎凛です。あの、昨日から住み込みで……」
女将さんに続いて挨拶をするも、美女は最後まで聞かずに出来上がった朝食を調理台から取り上げると居間に運び始めた。
「ごめんなさいね、凛ちゃん。あの子、ああなのよ」
「いえ、えっと……彼女は……」
「あ、玲奈ね。私の孫なのよ。うーんと、航の父親の妹の子だから航とは従兄妹同士ね」
微細までととのった美しい子で驚いたが、航さんの従妹なら納得だと思った。
「今は専門学校生でね、ここからちょっと遠くまで通ってるのよ。この辺学校なくてねー」
「そうでしたか」
つまり彼女もここに同居しているということか。彼女の了承も得ず突然居候しているということだ。
挨拶もなくいきなり知らない女が家に入り込んでいたらそれは気分が悪いだろうなと思いながら、私も慌てて朝食を居間に運び始めた。
朝食の準備が整ったところで調度航さんが下りてきた。今日は昨日の朝と同じポロシャツにスラックス姿だった。
スーツじゃないことにホッとしつつ、昨夜の濡れ髪が、眼鏡の奥の甘い瞳が、触れた熱い唇が思い出されて体の奥が切なくなる。
それを必死で隠しながら、居間で正座してお茶碗にご飯をついでいく。
航さんはニヤニヤしながら私の仕事ぶりを隣に座って眺めだした。
「お、おはようございます」
変なタイミングで挨拶をすると、航さんはククッと笑いながらおはようと返してきた。
完全にからかわれているなと思いながら五つ目の茶碗にご飯をよそおうとしたときにあれ? と思った。
「女将さんと航さん、玲奈さんと私? あと一人誰か朝食食べるの?」
まだ私の知らない同居人がいるのではとどきりとすると、航さんが「ああ」と答えた。
「響。昨日片付け手伝ってた背の高い……。あいつ、去年母親亡くして独り暮らしでさ。まだ19だし朝食もウチで食わせてんだよ」
「そう……」
まだ19なら朝もたくさん食べるだろうなと思った。
「じゃあ大盛りにしておこうかな」と私が言うと、朝食準備の手伝いを終えた玲奈さんが食卓に着き、口を開いた。
「響は朝からそんなに食べない。私もそんなに食べない。減らして。もったいない」
「ああ、そうなんだ。教えてもらえて助かります」
それぞれの適量が分からず困っていたので助かった。こちらから訊かなかったことを申し訳なく思いつつ、ご飯の量を調節する。
「航さんも? もしかしてこんなに食べない?」
「いや、そのくらいでいい。……お前ほんと面白いな」
「え? なにが?」と訊くも答えてくれない。
「玲奈、賄さんの凛ね」
「……どの部屋に居候させてるの」
玲奈さんはコップに牛乳を注ぎながら訊く。
「俺の部屋の隣の客間」
「え? ……なんで」
と玲奈さんが呟いたところで、起き抜けのような寝癖の髪でぼんやりと響君が入ってきた。
「おはようございます」
響君がこもった声で挨拶をして、慌ててし返した。
チラリと玲奈さんを見ると、プイと響君から目を逸らして朝ご飯を一人で食べ始めてしまった。
(あれ? 妙な反応……)
響と呼んでいたし、専門学校生と言うことは響君と同じくらいの年だろうし、仲が良いのかと思ったけれどそうではないみたいだった。
「玲奈、行くぞ」
朝食を終えると航さんは自分の食器をシンクまで運ぶと食べ終えたばかりの玲奈さんを急かし、嵐のように二人は家を出ていった。
「……二人はどこへ?」
呆然とする私の問いに答えてくれたのは響君だった。
「玲奈は電車で一時間くらいかかる美容の専門に通ってます。ここから最寄駅までも遠いので航さんが車で送ってます」
「そうなんだ。玲奈さんを送ってから航さんはお仕事に?」
「はい」
「……私、免許持ってるし代わりに送っていけるけどなあ……」
大変な朝の時間に私にできることは……と考えてそう呟くと、響君が自分の食器を重ねながら言った。
「いえ、玲奈は航さんに送ってほしいらしいので」
え? と訊き返したけれど、響君は食器を持ってさっさとお台所に行ってしまった。
(従妹、だよね?)
その日、玲奈さんは夕飯前に帰ってきて、従業員の皆さんと一緒に夕食を摂った。
従業員の海賊たちは玲奈さんにはちょっかいを出すこともなく、相変わらず私に「彼氏はいるのか」「付き合った人の人数は」と合コンのようなノリで話し掛けて来るばかりだった。
私はそれをのらりくらりとかわし、女将さんに「凛ちゃんはこの人たちをいなすのが上手ね」と褒められた。
航さんは仕事で遅くなるらしく、その日のお夕飯には間に合わなかった。
響君と一緒に玲奈さんも夕飯の片づけをする。これは日課らしかった。
私は皿洗いとシンクの掃除を終え、航さんの分の焼き魚と小鉢にラップを掛けた。
(航さん、何時に帰ってくるんだろう。)
そう考えていたら、隣で黙々と食器を拭いていた響君が口を開いた。
「航さん、今日は飲み会みたいですよ」
(……そうなんだ。)
19歳男子に見透かされる自分を少し情けなく思ったが、航さんが遅くなるらしいことにがっかりした気持ちが勝った。
無自覚にシュンとした顔をしてしまったらしい、響君が私の顔を見てふと笑った。
「響君、今笑ったね?」
珍しい物を見た気持ちで、何か嬉しくなりそう訊ねた。
「いえ、笑ってません」
「いやいや、笑ったでしょ。おばちゃん、そんなに変な顔してた?」
「おばちゃんって。凛さん25なんでしょ? お姉さんですよ」
飄々と響君はそんなことを言ってくれる。
(昨日初めて会った時から思ってたけど、良い子だよね)
お姉さんと言われただけでついそんなことを思った。
「心配しなくても、航さんは取引先の人と居酒屋で飲んでるだけですよ。航さんは水商売の店行かないから」
「あ、そうなの? へー。ふーん」
と、どう反応すべきか分からず私が生返事をしていると、食器を棚にしまっていた玲奈さんが、急にバシンと扉を閉めた。
そして、まだ片づけも途中だけれどお台所を出て行ってしまった。
「……すみません、玲奈はいつもああいう感じで」
「なんで響君が謝るの?」
と好奇心で訊いてみた。
「……幼馴染なので、なんとなく」
幼馴染! と、素敵な響きにときめいた。そうか。幼馴染と言われるとしっくりきた。
玲奈さんからすると、響君は自分の親戚の会社に就職した幼馴染の男の子。
自分の住む家に出入りしていて一緒に朝食と夕食を摂る。
19歳と言えば高校を卒業して大人のような大人でないような微妙な年齢だろう。
幼馴染の男女ならではの気恥ずかしさなどがあるのかもしれない。
特にあんな美女と、あまり目立たなそうだけれど綺麗な顔立ちをした好青年だ。
……と勝手に考察していると、響君が皿を拭き終えた。
「玲奈は……」
お台所を出て行こうとする響君は急に振り返って言った。
「玲奈はあんなんですが、根は優しいので。嫌わないでやってください」
……キュン、と胸が鳴った。なんて可愛い二人なんだろう。
「大丈夫だよ、嫌ったりしない! 二人を応援する!」
「二人? 玲奈と航さんのことですか?」
玲奈と航さんのこと? と疑問符が頭を占領し考えられないでいると、響君が飄々とした態度のまま首を横に振った。
「あ、いや、なんでもないです」
あ、そうですかと私は呟き、響君はぺこりと頭を下げて帰って行った。
……私は玲奈さんと響君の仲を応援するというつもりで言ったのだけれど。
やっぱり玲奈さんは……。
(……従兄妹って確か結婚できたよね。)
お風呂から上がりベッドの上で髪を乾かしながらそんなことを考えていた。
ずっと切りそびれて伸びに伸びている髪がなかなか乾かない。
(……19歳と26歳か。)
自分が19歳だった頃、スーツを着て仕事をしている人を恋愛対象に見たことはなかった。
それは単に接点がなかったのと、特に年上を好む趣向ではなかっただけの話だ。
もしも19歳の時に、今の航さんと一つ屋根の下で暮らすようなことになっていたらどうだっただろう?
そんな無意味なことを考える。
逆に、航さんの立場からすると、7歳年下を恋愛対象に見るということになる。
男の人はいつまでも若い女の子が好きなものなのだろうか。
私と響君も6歳差だけれど、恋愛対象にはとても見られない。いや、これは個人の問題で……。
止まらない思考に嫌気がさしてきた頃、航さんがガチャリと部屋の戸を開けた。
「あ、お帰りなさい……」
無防備なところに、航さんの疲れが混じった微笑みが殴り込んできた。
趣味のいいストライプのネクタイを緩める仕草を、見てはいけない気がしてドライヤーを髪に当てながら目を逸らした。
(またスーツに着替えてるし……)
航さんは何も言わずに私のベッドに腰掛けると、ワイシャツの第二ボタンまで空けてふーっと軽いため息をついた。
私は八割がた乾いたのでドライヤーを止める。
「お、遅かったんだね……」
時計を見ると12時を回ったところだった。
「いい子にしてたか?」
(……え?)
航さんは私の耳元でかすれた声でそう囁いた。
いやいやいや、キャラが違くない? と焦って距離を取り航さんの顔を覗くと、とろんとした目と緩んだ口元で私を見ていた。
「航さん、酔ってるでしょ?」
恐る恐る訊くと、航さんはムッとした顔をした。
「酔ってない」
始めてみる子供みたいにむくれた顔が、可愛い。
また昨日とは違ったドキドキが襲ってくる。
「……たくさん飲んだの?」
「うん。飲まされちゃった」
今度は屈託なくニコニコする。
(この人、酔うと色気と可愛さが混ざってやばい!!)
「だ、誰と飲んできたの?」
航さんの色香に当てられて、なぜか衝動的にそんなことを聞いてしまった。
「うん? 漁業組合の組合長と三澤屋って旅館の社長」
航さんは目を擦りながらそう答えた。
「そう……なんだ」
「お前は? 今日は何してた?」
航さんは私の耳に手を伸ばして、昨日の続きをするかのようにまたもてあそび始める。
くすぐったくてピクリと体が反応してしまうのを必死で堪える。
「私? わ、私は昼までお掃除とお洗濯と……」
航さんの顔がまた近づいてきて、私は爆発しそうな心臓に耐えながら必死で答える。
「お昼を女将さんと一緒に作って、頂いて。あとは……午後は夕食の準備と……」
航さんは子どもの顔でニコニコしたままおでことおでこをくっつけてきた。
(ダメだ! この人は酔っ払いだ。止めなくては。)
「航さん、お風呂! お風呂に入って来た方が……」
航さんのお酒の香りでこちらまで酔いそうになる。頭がクラクラして上手く言葉が出て来ない。
「風呂? お前は入ったか? 良い匂いする」
そう言って航さんが私の胸元に鼻を寄せた。
耳に触れていた航さんの指が首筋を撫でると「んっ」と変な声が漏れてしまい、思わず口を手で押さえた。
すると航さんが色気ダダ漏れの表情で顔を上げた。
そして、眉根を寄せて真っ赤な困り顔をしているであろう私の頭を支えると、おもむろに首筋にキスをした。
「あ、ちょっと……待って、航さん」
身悶えながら抵抗しようとするも、力が入らない。
「ふわぁっ」
と、自分でも聞いたことのないような変な声が漏れる。
航さんの唇は驚くほど柔らかくて優しく、触れているだけでなぜかとても気持ちが良い。
こんなこと初めてだった。
こんなに優しく触れられたこともなかった。
航さんのワックスの匂いとお酒の匂いと航さん自身の甘い香りが混ざって頭が変になりそうだ。
そのまま押し倒されて、首元に何度もキスをされる。
胸元にも頬にも。
耳に唇を寄せられた時には変な声と共に、勝手に目が潤んできた。
気持ちが昂るのと同時に、航さんが酔っていることや、からかわれているのかもしれないと思う冷静さが同居して混乱する。
「涙目」
気が付くと航さんが私の顔をうかがっていて、指で涙を拭った。
そしてそれをぺろりと舐める。
酔っているからと言って反則技が過ぎる。
「嫌だった? やめる?」
イタズラな顔をしてそんなことを聞きながら、私の手を取り手首にキスをする。
手首すら性感帯になったみたいにジンと体の奥が熱くなって、自分がどんな顔をしているのか想像するのも怖い。
その私の反応を見て微笑むと、航さんは少しの体重を掛けて私の胸元に顎を置いた。
「今日は疲れた。……撫でて」
今度はまた急に可愛くなる。
そろりそろりと腕を伸ばしてワックスで無造作になった航さんの髪を撫でた。
航さんはとろけそうになっていた目をゆっくりと閉じ、懐っこい犬のようにコテンと胸の上で頭を横たえる。
もうキュンを通り越して心臓が痛い。
ゆったりとしたスピードで何度も力なく髪を撫でた。その度に航さんの頭が少しずつ重たくなっていく。
頭を撫でだしてから二、三分で航さんは眠ってしまった。
(……子供?)
スースーと気持ち良さそうな寝息が胸に掛かる。
航さんの頬にそっと触れる。
子供のような寝顔だった。見ていると、ある男の子を思い出した。あの子……おきな君も、航さんのように美しい顔をしていた。
また涙が出てきた。これは何の涙だろう。良く分からない。
けれど、自分の胸で無防備に眠るこの人が、本当に私のものになればいいのにと、そう思ったのは確かだった。
航さんが寝返りを打ったタイミングで私はベッドを抜け出した。
航さんのワイシャツとスーツのパンツが皺にならないかと心配になったけれど、起こすのも脱がすのもためらわれたので毛布を掛けるにとどめた。
ドライヤーを片付けたり目覚ましを掛けたりと眠る準備をしていると、航さんがもぞもぞと動く音がしてベッドを振り返った。
「凛……? 喉乾いた」
目を擦り擦り、そんなことを言う。
「分かったけど、スーツ脱がなくていいの?」
顔を覗き込むと、航さんは上機嫌に笑った。
「大丈夫。凛、喉乾いた」
「……今お台所からお水貰ってくるから、待ってて」
そう言うと航さんは頷いて目を閉じた。
もう女将さんも玲奈さんも寝静まっている頃だろうと、足音をひそめながら二階の廊下を歩いた。
階段に辿り着いたところで、階段の電気を点けようと手伸ばすと直ぐ近くの部屋の戸がギリリと音を立てたのでびくりとした。
「航ちゃん?」
可愛らしい声が聞こえ、見ると暗い部屋から出てきたのは玲奈さんだった。
「あ、ごめんなさい、凛です。すみません、起こしちゃいましたか」
手に持っていたスマホを見るともうすぐ1時だ。
明日は平日だし玲奈さんも朝が早いだろうに、申し訳ない。
「あなた、いつまでここにいるつもりなの?」
玲奈さんは白いフワフワとした部屋着を着ていて、とてもかわいらしい。
それなのに彼女の声は驚くほど冷たくて、とてつもなく私を迷惑だと思っていることが伝わってきた。
「あなたも航ちゃんのことを東京から追いかけてきた女でしょ、どうせ」
「え? 追いかけてきた?」
「前もいたもの。向こうで仕事してた航ちゃんに遊ばれたのかなんなのか知らないけど。勘違いした女が押しかけてきて、あなたみたいに彼女面して」
「いや、私は彼女面してるつもりはないですが……」
「その時は航ちゃんが説得して追い返してたけど。あなたは行く当てがないって航ちゃんを言いくるめて、住み着いて。たちが悪い」
(ああ、これは何を言っても誤解が解けそうにない。)
直感的にそう思った。
東京から突然やって来た余所者で素性の分からない、航さんにまとわりつく女。
玲奈さんからしたら、以前押しかけてきたその女の人と私は全く同じなんだろう。
何を言っても無駄な気がした。
「航さんが決めたことだから」
無意味な言い訳はやめて、私はそうきっぱりと言った。
玲奈さんは表情を変えずにひたすらに私を睨みつけている。
「玲奈さんとも仲良くなりたい」
私がそう言うと、玲奈さんは怒りを込めて眉をひそめた。
「私はあなたが嫌い。早く出て行って」
そう捨て台詞を吐くと、パフンと、勢いの割に間抜けな音を立てて玲奈さんが部屋のドアを閉めたので、なんだか可愛く思えて笑ってしまった。
お台所のサーバーで水を汲んで部屋に戻ると、航さんはまた寝息を立てて眠っていた。
コップをローテーブルに置いて、スヤスヤと眠る航さんの寝顔を見ながら先ほどの玲奈さんの言葉を反芻した。
東京で仕事をしていた航さんに遊ばれた女……。
(ああ、私も結局は玲奈さんの言うように、その女の人と順番は違えど同じ道を辿っているのかもしれない。)
そう思う一方で、航さんの触れる手が、唇が。あんなに優しいことを思い期待に似た感情もポツポツと顔を出してくる。
まだすべてを知るには時間が足りな過ぎるけれど、私の見た航さんはいつも誠実で信用できる男性だった。
だから昨日も今日も触れられて、嬉しい気持ちとそうしてほしくなかった気持ちが同時に湧いてきた。
なのに航さんは容赦なく私を甘く誘惑するし、無防備に胸の中で眠ったりもする。
どうしたらいいのか、分からない。
まだ出会って二日しかたっていないのに、もうこんなにも心を掴まれてしまっていた。
違う。とにかく今は早く仕事を覚えて、女将さんの役に立つことだ。
邪念に支配されそうだった自分の頬をつねった。
早く生活を立て直して、蓄えができたらここから出て行こう。
まだしばらく東京には戻れないけれど……。
私は航さんの眠るベッドから掛け布団を拝借してソファーに転がり目を閉じた。
翌日、玲奈さんが行方不明になり大騒動となることを、この時の私はまだ知らなかった。