ようこそ、片桐社長のまかないさん
4 美女の家出は一大事
「玲奈からまだ連絡はないか?」
夕食を終えても、従業員の皆さんは帰るに帰れずに居間で腕組みをしてソワソワとしていた。
私も同じくソワソワとしながら円卓を台拭きで拭いているところだった。
そんな中に息を切らして飛び込んできた航さんに居間にいた全員が注目する。
「まだ連絡ないです」
そう答えたのは、いつものように冷静なままの響君だった。
「困ったねえ。あと何時間かしても連絡もつかないようだったら警察に行かないとかしらね……」
前掛けで手を拭きながら女将さんがお台所から顔を出して言った。
警察、という物々しい言葉に航さんも流石に目を泳がせた。
「……響、高校の同級生はどうだった?」
「誰も会ってないし見てないそうです」
「幼馴染の奴らもダメか?」
「はい。五人とグループLINEでずっと呼びかけてます。既読にはなります」
「……分かった。ありがとう。みんなはもう帰って大丈夫だから。今日も疲れてるだろうし、帰って休んでほしい」
「いや、玲奈ちゃんが心配で帰れねっすよ」
富山さんがそう言うと、航さんはため息をついた。
「ほんとにな。でも、もう玲奈も成人だしな」
「いや、高校生の時のこと考えるとな……そうも言ってられないよ」
と年長の根岸さんが口を挿んだ。
「まあ……そうですよね」と航さんは珍しく俯いた。
先ほど、富山さんから聞いた。
玲奈さんは高校生の時、下校時にクラスの男子二人に無理やり廃墟に連れ込まれそうになったそうだ。
通りかかった町民に助けられたものの、ショックは大きくしばらく学校に行けなくなった。
加害者の男子は退学になり、玲奈さんは友人の支えもあって徐々に通学するようになったけれど、卒業までの半年間ずっと航さんが仕事の合間を縫って車で送り迎えをしていたとのことだった。
「同級生の話だと、高校の時の加害者はもうこの町にはいません。退学後すぐに二人とも親に家を追い出されて、今は大阪と宮城にいます」
響君が言うと、根岸さんが頷いた。
「まあ、そうだわな。こんな狭い田舎であんなことしちまったら平気な顔して住み続けられないわな」
「でも、他にも玲奈ちゃんを狙う輩がいたとしてもおかしくないでしょう。あれだけの美人、この町にいたら嫌でも目立つし」
富山さんが言うと、みんな黙ってしまった。
重苦しい空気の中、航さんは「とにかく」と努めて明るい声で言う。
「ここでこの人数で暗くなってても仕方ない。見つかったら連絡入れるから。ひとまず解散しよう」
「探さなくていいんすか」
と、根岸さんが言った。
「帰り際にもし見かけたら帰るように伝えてください。大丈夫、玲奈はもう子供じゃない」
航さんに促されて、それぞれが重い腰を上げて居間を出て行った。
航さんはお台所へ行き女将さんと何やら話をしている。
響君だけはその場に残り、どうしたらいいのか分からず台拭きに手を掛けたままの私と目が合った。
「……心配だね」
「はい」
響君はいつも通りに見えるけれど、先ほどから微動だにしていないことに気が付いた。
瞬きもほとんどしない。響君は動揺するとこうなるのだろう。
「響、凛。俺はもう一度車で玲奈の学校まで行ってみるから。響は悪いけどこのままここに居てくれ」
「はい」
また響君は微動だにせずそう返事をした。
「凛は先に寝てろ」
そう言い捨てると、航さんは居間を出て行った。
私はそれを慌てて追いかけた。
「航さん、ごめんなさい」
靴を履く航さんに駆け寄った。
「昨日の夜中、階段のところで玲奈さんと話をしたの」
「話?」
「出て行ってほしいって言われたの。もしかしたら私がいるから玲奈さん戻ってこないのかな」
すると航さんは私の頭に手を乗せてポンポンとした。
「お前のせいじゃねーよ」
航さんはどこからか余裕の笑顔を取り戻してそう言った。
「今朝駅まで車で送ってる時に玲奈と揉めたんだ。まあ、その。お前のことで。俺が引かなかったからあいつも意地になってるだけだと思う。今日中には帰って来るだろ」
「やっぱり私のことで……」
「俺と玲奈の問題だから。お前は気にするな」
「……私も一緒に探しに行っていい?」
「いや、明日の仕込みも終わってねーだろ。ばーちゃんも不安になってるから、一緒に居てやって。ばーちゃんが寝たらお前も寝ろ」
分かった……。と返事をする間に航さんは出て行った。
(俺と玲奈の問題……)
その言葉が喉元で引っ掛かる。
玲奈さんは航さんが探しに来るのを待ってるのだろうか。
それか帰りたくなくて学校の友達といるのだろうか。
それなら事件に巻き込まれた可能性は低くなるけれど、こんな夜更けにあんな若くて綺麗な子が出歩いているのはどっちにしろ心配だ。
もう11時だ。この辺だとやっている店も少ないだろう。
居間に戻ると、響君が固まったままだった。
お台所に顔を出すと、女将さんが朝ご飯の仕込みを終わらせたところだった。
「明日はお弁当はないから。もう大丈夫だよ。私はちょっと部屋に居るよ。ここに居ても落ち着かないから」
「はい、お役にたてずすみません」
「何言ってるの。こっちこそ玲奈のことで迷惑かけてごめんなさいね」
「いえ……」
「玲奈の両親は今海外なのよ。父親が画家でね。玲奈が高校に入るタイミングでフランスに移り住んだの。玲奈も連れて行くつもりだったみたいだけど、あの子はこの町に残るって言い張ってね。それでもともと近所に住んでたんだけど、ここに住むことになったのよ」
「そうだったんですか……」
「だからなおさらね、高校生の時のことは……私は責任を感じてるの。保護者は私だったから」
私は何と答えたらいいのか分からず、女将さんの肩にそっと触れた。
「航がいてくれて本当に良かったと思ってるの。玲奈は航がいたから立ち直れたんだと思うわ」
女将さんは「ありがとね、凛ちゃん」と言って部屋へ戻っていった。
「玲奈は、ずっと昔から航さんが好きなんです」
女将さんがお台所を後にしてすぐ、居間から響君がやってきて唐突にそう言った。
心労からなのか、言動に脈略がない響君。少し心配になった。
「……なんとなくそうかなって思ってたよ」
「航さんはどうなんでしょうね」
そう言って響君は水切りカゴに残っていた食器を布巾で拭き始めた。
「どうなんだろうね。私は二人のこと全然知らないから分からない」
あまりしたくない話だった。けれど響君は誰かと話していないと不安なのだろう。
……航さんの気持ちがどうであれ、二人が従兄妹同士で他人には知りえない絆があることは確かだろうなと思った。
「響君にはどう見えるの?」
つい訊いてしまったけれど、本当は知りたくない。
「まあ……航さんは大人ですしね。驚くほどモテるし。玲奈がいくらあの見た目でも七つ年下の従妹に手を出したりはしないと思いますけど。あの二人、なんとなく顔も似てるし」
「そっか……」
どこかホッとして、そんな自分に嫌悪した。
どちらにしても玲奈さんにとって私が邪魔であることに変わりはない。
「でも、航さんがきっと見つけて連れて帰ってきてくれると思います。恋愛感情があるかは別として、航さんにとっても玲奈は特別な存在だと思うので」
「響君は?」
「なにがですか?」
「響君は玲奈さんのこと、好きでしょう? 見てるだけで、いいの?」
すると響君は皿を拭く手を止めて正面を見据えたまま固まった。
「ごめん、余計なこと訊いたかな」
航さんにとっても玲奈は特別な存在だなんて、聞きたくもない言葉につい意地の悪いことを響君にぶつけてしまった。
大人げない自分に驚く。
「いえ……。もう、片思いでいることに慣れ過ぎていて。近くに居られるだけでいいんです。どうせ、玲奈は航さん以外の男なんて目に入らないので」
(ああ、切ないな。)
幼馴染と聞いただけで、安直に甘酸っぱい関係を想像してしまった自分を叱りたい。
「近くで玲奈さんと航さんを見てるの、辛くない?」
「辛くはないです。子供の時から玲奈と航さんはあんな感じだったし」
「そう」と応えつつ、それもあまり知りたくはなかったなあと思った。
「玲奈が同級生に襲われた時、俺は何もできなかったから。ちょうど航さんが戻ってきた後だったので、本当に良かったと思ってるんです」
今日の響君はいつもよりおしゃべりだった。
でも、喋れば喋るだけ私の気持ちは重く沈んでいくようだった。
「凛さんは?」
響君はようやく皿を拭く手を動かしだしてそう訊いた。
「凛さんは航さんのこと、好きなんですか?」
私が先に響君に訊いたんだ。答えない訳にはいかない。
「分からない。まだ知り合ったばっかりだから。でも二人が特別な関係なら、私は邪魔者でしかないとは思う」
響君は悲しい顔をして私を見た。
その時、響君のスマホが調理台の上で鳴り響いた。
「凛さん、玲奈見つかったそうです。最寄駅が閉まって締め出されたところを捕まえたって。無事だそうです」
響君はスマホを見ながらそう言うとその場に座り込んだ。
「良かった……無事でね」
「はい」
「響は?」
私の部屋に入って来るなり、航さんはそう訊いた。
「航さんから連絡もらってすぐに女将さんに報告してそのまま帰ったよ」
「そうか。淡泊だな、相変わらず」
淡泊ではない響君の姿を見たことは航さんには黙っておくことにした。
調理台の前でしゃがみ込んだ響君の手は震えていた。
「玲奈さんは……?」
「ああ、俺に説教されて、ばーちゃんからも説教されて萎れて部屋に入ってったよ。ずっと駅に居たらしい」
「やっぱり私のことで……?」
「いや、お前と言うより俺だな」
なにか、それ以上訊いてはいけない気がして私は黙り込んだ。
「悪かったな、心配かけて。明日玲奈からも謝らせる」
私は首を横に振るしかできなかった。
『ここに私が居てもいいのだろうか』
……きっと、玲奈さんは私にそう思わせたくて今回のプチ家出をしでかしたのだと私は思っている。
周りを巻き込むとても間違ったやり方だ。
無事だったと知り、私は玲奈さんに対して怒っている。
「なんだ、元気ねーな。明日の土曜はお前も仕事は一切しなくていいからな。ゆっくり休めよ」
「はい……」
煮え切らないものが沸々と頭の中で浮き沈みしている。
「昨日は悪かったな。せっかく水取りに行ってもらったのに」
「……覚えてるの?」
航さんがベッドに腰掛けるとそんなことを言うので、玲奈さんに対する沸々が吹っ飛んだ。
今朝私は先に起きて仕事をしていたのだけれど、朝食ができた頃に航さんは少し二日酔いな様子で下りてきたので、昨夜のことは覚えていないのかと思った。
「全部覚えてるけど。俺、記憶失くさないタチ」
(……なんか、ズルい。)
「昨日の続き、する?」
航さんはそう言うとポロシャツのボタンを外しながらあっという間に私を押し倒した。
「しません!」
そう言うも、航さんはお構いなしにニヤニヤしながら私の手首にキスをする。
まだ着替えてもいなかった私の胸元のボタンも器用に外して、胸のふくらみに沿って唇を寄せる。
「ふあ、待って、航さん。私、まだお風呂入ってない……」
入っていたらいいという訳でもないけれど、必死に抵抗する。
匂いが、まずい。恥ずかしい。
「風呂? 俺もまだ入ってねーな」
と言いながら構わず胸に手を掛ける。
ふにゃりと私の胸が歪んで、航さんの綺麗な形の指が沈む。
顔が熱くて、胸が敏感に航さんの指に反応して腰が疼く。
こんなの、ダメだ。
「こうやって、遊ぶの?」
航さんの唇が敏感なところに触れそうになった時、そう訊いた。
これを言ったらおしまいな気がしたけれど。
訊かずにはいられなかった。
「遊ぶ? なにが?」
「いろんな、女の子と……」
私は息も絶え絶えにそう言って、航さんから顔をそむけた。
すると意外なことに航さんは吹き出して笑いだした。
「なに? 遊ばれてるのかと思ってんの? お前」
そう言っていつもの優しい顔でおでこにおでこをくっつけられた。
「……だって」
「それでそんな涙目になってんの? 可愛すぎだろ」
目元にキスをされる。
涙目になっている自覚なんてなかった。
ただただ必死で。
怒らせてしまうかと思ったのに。
「遊ばれてると、本気で思ってる?」
航さんはそう言って真っ直ぐに私の目を見る。
「だって……。知り合ったばっかりだし……」
「知り合ったばっかり、ねぇ」
そう言って楽しそうに笑う。
「航さん……モテるだろうし」
「見えない誰かさんに嫉妬してんの?」
「そうじゃなくて、相手なんていくらでもいるだろうなって」
私は目を泳がせながら、航さんの真っ直ぐな視線から逃げる。
視線は逃げられても、ベッドの上で手をぎゅっと握られて、航さんからはとても逃げられそうにない。
「そんな相手いねーよ」
「……やっぱり田舎だからこの辺は若い女の子がいない……とか?」
「舐めてんな。いくら田舎でも若い女くらいいるだろ」
「じゃあ、なんで……私なんて相手にしてるの」
「お前、自己評価低いな、ずいぶん」
そう言って航さんは私の頬と首筋に唇を這わせた。
今日はお酒の匂いがしない分、航さんの甘い香りが強く感じられる。
とても好きで落ち着く香りだった。
「じゃあ、一ヶ月経ったらいい訳?」
航さんは私の胸にキスをしながらそう訊いた。
「え? なにが?」
「抱いても」
抱く?! と、今まで誰からも一度も言われたことの無いフワフワとしたセリフに、体中が熱くなった。
航さんの口から聞くと、なにか優しく響いて余計にいやらしく感じられる。
「なんで一ヶ月?」
「知り合ったばっかりだから、遊ばてれるんじゃないかと思うんだろ?」
確かにそうは言ったけれど。
そういうことだろうか?
「じゃあ、一ヶ月後な。それまでは可愛がるだけな」
航さんは八重歯を覗かせたやんちゃな笑い方をして、おでこにキスをした。
もう何度体中にキスをされているだろう。
最初は触れられるだけで心臓が壊れそうだったのに、少しずつ心地よく感じるようになってきていた。
口には一度もしてくれないけど……。
「一ヶ月後、どうしても嫌なら逃げろよ」
翌日の朝食が出来上がり居間に運び終えたところで、航さんに連れられて玲奈さんが俯き加減にやって来た。
私と響君は円卓に座り、玲奈さんの謝り待ちをする。
「……昨日はご迷惑をお掛けしました」
航さんに促され、玲奈さんは私の顔も響君の顔も見ずにそう言った。
響君は何も言わない。
何も言わずに玲奈さんの身勝手をこれからもずっと許すのだろう。
「『ご迷惑』じゃないと思います」
私は正座をしたまま背筋を伸ばして玲奈さんに言った。
怪訝な顔で玲奈さんは私を見たけれど、私は構わず続けた。
「『ご心配』ですよ。航さんが、女将さんが、響君が。どれだけ玲奈さんを心配していたか分かっていますか?」
余所者で、今回の家出の原因を作った私が言えた立場ではないことは重々承知だった。
けれど言わずにいられない。
こんなにも玲奈さんを大切にしている人たちを、昨日の行動で裏切ったことを理解してほしかった。
ただ俯いていた玲奈さんは段々と肩を震わせ、ひくっとしゃくり上げた。
(ああ、泣かせてしまった。)
こういう時に場を荒らさず波風を立てない態度をとるのが正解だということは知っている。
だけど、何も言わないであろう響君の気持ちを思うと、黙っていることの方が罪深いとさえ思えた。
あの響君の震える手をなかったことにはさせたくなかった。
「……響。昨日ずっと連絡くれてたのに、無視してごめんね」
玲奈さんは鼻をすすりながら懸命にそう言った。
(ああ、ちゃんと素直ないい子だ。)
そう思った。みんながあんなに心配する子が悪い子なはずがないと思っていた。
私には悪態をついてばかりだったけれど、本質はそこにはない。
響君は表情を変えないまま玲奈さんを見つめ、首を横に振った。
「俺こそ、なにもしてやれなくてごめん」
それは昨日の家出のことだろうか。それとも、高校時代の事件のことを言っているのだろうか。
響君が息が詰まりそうな声でやっと応えたので、そんなことを思ってしまった。
(……切ないな。)
響君の玲奈さんを想う気持ちを考えるとどうしても切なく思えてしまう。
「玲奈、凛にまで怒られたな」
航さんは状況を楽しんでいるのか、みんなの顔を一通りうかがうとそう言って笑った。
「他人さんではっきりものを言ってくれる人は大事にしなさいね」
前掛けを外しながら台所からやって来た女将さんが玲奈さんにそう言って円卓につき、いただきます、と食べ始めた。
玲奈さんは響君に渡されたポケットティッシュで涙を拭きながら、私が作った卵焼きを一生懸命口に運びだした。
「お前さ、荷物少なすぎないか?」
私が朝食と片づけを終えて部屋に戻ると、シャワーを浴びていたらしき航さんが洗面所から出てきた。
上半身は裸である。
「服を。服を着てください」
焦ってそう言うと、航さんはしれっと「ああ」と言ってタオルで頭を拭く。
……「ああ」じゃない。
あまり生娘みたいな反応を続けるのも恥ずかしいので、私もしれっと自分のキャンプ用のリュックから荷物を出すふりをして背を向けた。
「ほんとに数日のキャンプくらいの荷物しかねーよな」
キャンプは、趣味だった。
最近のキャンプブームもあって、大学の友達と一昨年から始めた。
今この部屋にある私の荷物はキャンプ道具一式と、着替えが三組。
洗面具とスマホと充電器、財布に防寒着。
それだけだ。
「服とか、どうした。置いてきたのか?」
「実家に送って……」
「送った? なんで」
「私、独り暮らししてたアパートから夜逃げしてきたから」
夜逃げ? と航さんは声を大きくして言って、髪を拭く手を止めた。
「あ、家賃はちゃんと払ってたし、退去手続きもしてきたけどね」
振り返って必死にそう言ったけれど、航さんは難しい顔をして私を射るように見る。
「お前、誰から逃げてきた?」
目の前に立ち、航さんはいつもよりも低い声でそう私に訊いた。
夕食を終えても、従業員の皆さんは帰るに帰れずに居間で腕組みをしてソワソワとしていた。
私も同じくソワソワとしながら円卓を台拭きで拭いているところだった。
そんな中に息を切らして飛び込んできた航さんに居間にいた全員が注目する。
「まだ連絡ないです」
そう答えたのは、いつものように冷静なままの響君だった。
「困ったねえ。あと何時間かしても連絡もつかないようだったら警察に行かないとかしらね……」
前掛けで手を拭きながら女将さんがお台所から顔を出して言った。
警察、という物々しい言葉に航さんも流石に目を泳がせた。
「……響、高校の同級生はどうだった?」
「誰も会ってないし見てないそうです」
「幼馴染の奴らもダメか?」
「はい。五人とグループLINEでずっと呼びかけてます。既読にはなります」
「……分かった。ありがとう。みんなはもう帰って大丈夫だから。今日も疲れてるだろうし、帰って休んでほしい」
「いや、玲奈ちゃんが心配で帰れねっすよ」
富山さんがそう言うと、航さんはため息をついた。
「ほんとにな。でも、もう玲奈も成人だしな」
「いや、高校生の時のこと考えるとな……そうも言ってられないよ」
と年長の根岸さんが口を挿んだ。
「まあ……そうですよね」と航さんは珍しく俯いた。
先ほど、富山さんから聞いた。
玲奈さんは高校生の時、下校時にクラスの男子二人に無理やり廃墟に連れ込まれそうになったそうだ。
通りかかった町民に助けられたものの、ショックは大きくしばらく学校に行けなくなった。
加害者の男子は退学になり、玲奈さんは友人の支えもあって徐々に通学するようになったけれど、卒業までの半年間ずっと航さんが仕事の合間を縫って車で送り迎えをしていたとのことだった。
「同級生の話だと、高校の時の加害者はもうこの町にはいません。退学後すぐに二人とも親に家を追い出されて、今は大阪と宮城にいます」
響君が言うと、根岸さんが頷いた。
「まあ、そうだわな。こんな狭い田舎であんなことしちまったら平気な顔して住み続けられないわな」
「でも、他にも玲奈ちゃんを狙う輩がいたとしてもおかしくないでしょう。あれだけの美人、この町にいたら嫌でも目立つし」
富山さんが言うと、みんな黙ってしまった。
重苦しい空気の中、航さんは「とにかく」と努めて明るい声で言う。
「ここでこの人数で暗くなってても仕方ない。見つかったら連絡入れるから。ひとまず解散しよう」
「探さなくていいんすか」
と、根岸さんが言った。
「帰り際にもし見かけたら帰るように伝えてください。大丈夫、玲奈はもう子供じゃない」
航さんに促されて、それぞれが重い腰を上げて居間を出て行った。
航さんはお台所へ行き女将さんと何やら話をしている。
響君だけはその場に残り、どうしたらいいのか分からず台拭きに手を掛けたままの私と目が合った。
「……心配だね」
「はい」
響君はいつも通りに見えるけれど、先ほどから微動だにしていないことに気が付いた。
瞬きもほとんどしない。響君は動揺するとこうなるのだろう。
「響、凛。俺はもう一度車で玲奈の学校まで行ってみるから。響は悪いけどこのままここに居てくれ」
「はい」
また響君は微動だにせずそう返事をした。
「凛は先に寝てろ」
そう言い捨てると、航さんは居間を出て行った。
私はそれを慌てて追いかけた。
「航さん、ごめんなさい」
靴を履く航さんに駆け寄った。
「昨日の夜中、階段のところで玲奈さんと話をしたの」
「話?」
「出て行ってほしいって言われたの。もしかしたら私がいるから玲奈さん戻ってこないのかな」
すると航さんは私の頭に手を乗せてポンポンとした。
「お前のせいじゃねーよ」
航さんはどこからか余裕の笑顔を取り戻してそう言った。
「今朝駅まで車で送ってる時に玲奈と揉めたんだ。まあ、その。お前のことで。俺が引かなかったからあいつも意地になってるだけだと思う。今日中には帰って来るだろ」
「やっぱり私のことで……」
「俺と玲奈の問題だから。お前は気にするな」
「……私も一緒に探しに行っていい?」
「いや、明日の仕込みも終わってねーだろ。ばーちゃんも不安になってるから、一緒に居てやって。ばーちゃんが寝たらお前も寝ろ」
分かった……。と返事をする間に航さんは出て行った。
(俺と玲奈の問題……)
その言葉が喉元で引っ掛かる。
玲奈さんは航さんが探しに来るのを待ってるのだろうか。
それか帰りたくなくて学校の友達といるのだろうか。
それなら事件に巻き込まれた可能性は低くなるけれど、こんな夜更けにあんな若くて綺麗な子が出歩いているのはどっちにしろ心配だ。
もう11時だ。この辺だとやっている店も少ないだろう。
居間に戻ると、響君が固まったままだった。
お台所に顔を出すと、女将さんが朝ご飯の仕込みを終わらせたところだった。
「明日はお弁当はないから。もう大丈夫だよ。私はちょっと部屋に居るよ。ここに居ても落ち着かないから」
「はい、お役にたてずすみません」
「何言ってるの。こっちこそ玲奈のことで迷惑かけてごめんなさいね」
「いえ……」
「玲奈の両親は今海外なのよ。父親が画家でね。玲奈が高校に入るタイミングでフランスに移り住んだの。玲奈も連れて行くつもりだったみたいだけど、あの子はこの町に残るって言い張ってね。それでもともと近所に住んでたんだけど、ここに住むことになったのよ」
「そうだったんですか……」
「だからなおさらね、高校生の時のことは……私は責任を感じてるの。保護者は私だったから」
私は何と答えたらいいのか分からず、女将さんの肩にそっと触れた。
「航がいてくれて本当に良かったと思ってるの。玲奈は航がいたから立ち直れたんだと思うわ」
女将さんは「ありがとね、凛ちゃん」と言って部屋へ戻っていった。
「玲奈は、ずっと昔から航さんが好きなんです」
女将さんがお台所を後にしてすぐ、居間から響君がやってきて唐突にそう言った。
心労からなのか、言動に脈略がない響君。少し心配になった。
「……なんとなくそうかなって思ってたよ」
「航さんはどうなんでしょうね」
そう言って響君は水切りカゴに残っていた食器を布巾で拭き始めた。
「どうなんだろうね。私は二人のこと全然知らないから分からない」
あまりしたくない話だった。けれど響君は誰かと話していないと不安なのだろう。
……航さんの気持ちがどうであれ、二人が従兄妹同士で他人には知りえない絆があることは確かだろうなと思った。
「響君にはどう見えるの?」
つい訊いてしまったけれど、本当は知りたくない。
「まあ……航さんは大人ですしね。驚くほどモテるし。玲奈がいくらあの見た目でも七つ年下の従妹に手を出したりはしないと思いますけど。あの二人、なんとなく顔も似てるし」
「そっか……」
どこかホッとして、そんな自分に嫌悪した。
どちらにしても玲奈さんにとって私が邪魔であることに変わりはない。
「でも、航さんがきっと見つけて連れて帰ってきてくれると思います。恋愛感情があるかは別として、航さんにとっても玲奈は特別な存在だと思うので」
「響君は?」
「なにがですか?」
「響君は玲奈さんのこと、好きでしょう? 見てるだけで、いいの?」
すると響君は皿を拭く手を止めて正面を見据えたまま固まった。
「ごめん、余計なこと訊いたかな」
航さんにとっても玲奈は特別な存在だなんて、聞きたくもない言葉につい意地の悪いことを響君にぶつけてしまった。
大人げない自分に驚く。
「いえ……。もう、片思いでいることに慣れ過ぎていて。近くに居られるだけでいいんです。どうせ、玲奈は航さん以外の男なんて目に入らないので」
(ああ、切ないな。)
幼馴染と聞いただけで、安直に甘酸っぱい関係を想像してしまった自分を叱りたい。
「近くで玲奈さんと航さんを見てるの、辛くない?」
「辛くはないです。子供の時から玲奈と航さんはあんな感じだったし」
「そう」と応えつつ、それもあまり知りたくはなかったなあと思った。
「玲奈が同級生に襲われた時、俺は何もできなかったから。ちょうど航さんが戻ってきた後だったので、本当に良かったと思ってるんです」
今日の響君はいつもよりおしゃべりだった。
でも、喋れば喋るだけ私の気持ちは重く沈んでいくようだった。
「凛さんは?」
響君はようやく皿を拭く手を動かしだしてそう訊いた。
「凛さんは航さんのこと、好きなんですか?」
私が先に響君に訊いたんだ。答えない訳にはいかない。
「分からない。まだ知り合ったばっかりだから。でも二人が特別な関係なら、私は邪魔者でしかないとは思う」
響君は悲しい顔をして私を見た。
その時、響君のスマホが調理台の上で鳴り響いた。
「凛さん、玲奈見つかったそうです。最寄駅が閉まって締め出されたところを捕まえたって。無事だそうです」
響君はスマホを見ながらそう言うとその場に座り込んだ。
「良かった……無事でね」
「はい」
「響は?」
私の部屋に入って来るなり、航さんはそう訊いた。
「航さんから連絡もらってすぐに女将さんに報告してそのまま帰ったよ」
「そうか。淡泊だな、相変わらず」
淡泊ではない響君の姿を見たことは航さんには黙っておくことにした。
調理台の前でしゃがみ込んだ響君の手は震えていた。
「玲奈さんは……?」
「ああ、俺に説教されて、ばーちゃんからも説教されて萎れて部屋に入ってったよ。ずっと駅に居たらしい」
「やっぱり私のことで……?」
「いや、お前と言うより俺だな」
なにか、それ以上訊いてはいけない気がして私は黙り込んだ。
「悪かったな、心配かけて。明日玲奈からも謝らせる」
私は首を横に振るしかできなかった。
『ここに私が居てもいいのだろうか』
……きっと、玲奈さんは私にそう思わせたくて今回のプチ家出をしでかしたのだと私は思っている。
周りを巻き込むとても間違ったやり方だ。
無事だったと知り、私は玲奈さんに対して怒っている。
「なんだ、元気ねーな。明日の土曜はお前も仕事は一切しなくていいからな。ゆっくり休めよ」
「はい……」
煮え切らないものが沸々と頭の中で浮き沈みしている。
「昨日は悪かったな。せっかく水取りに行ってもらったのに」
「……覚えてるの?」
航さんがベッドに腰掛けるとそんなことを言うので、玲奈さんに対する沸々が吹っ飛んだ。
今朝私は先に起きて仕事をしていたのだけれど、朝食ができた頃に航さんは少し二日酔いな様子で下りてきたので、昨夜のことは覚えていないのかと思った。
「全部覚えてるけど。俺、記憶失くさないタチ」
(……なんか、ズルい。)
「昨日の続き、する?」
航さんはそう言うとポロシャツのボタンを外しながらあっという間に私を押し倒した。
「しません!」
そう言うも、航さんはお構いなしにニヤニヤしながら私の手首にキスをする。
まだ着替えてもいなかった私の胸元のボタンも器用に外して、胸のふくらみに沿って唇を寄せる。
「ふあ、待って、航さん。私、まだお風呂入ってない……」
入っていたらいいという訳でもないけれど、必死に抵抗する。
匂いが、まずい。恥ずかしい。
「風呂? 俺もまだ入ってねーな」
と言いながら構わず胸に手を掛ける。
ふにゃりと私の胸が歪んで、航さんの綺麗な形の指が沈む。
顔が熱くて、胸が敏感に航さんの指に反応して腰が疼く。
こんなの、ダメだ。
「こうやって、遊ぶの?」
航さんの唇が敏感なところに触れそうになった時、そう訊いた。
これを言ったらおしまいな気がしたけれど。
訊かずにはいられなかった。
「遊ぶ? なにが?」
「いろんな、女の子と……」
私は息も絶え絶えにそう言って、航さんから顔をそむけた。
すると意外なことに航さんは吹き出して笑いだした。
「なに? 遊ばれてるのかと思ってんの? お前」
そう言っていつもの優しい顔でおでこにおでこをくっつけられた。
「……だって」
「それでそんな涙目になってんの? 可愛すぎだろ」
目元にキスをされる。
涙目になっている自覚なんてなかった。
ただただ必死で。
怒らせてしまうかと思ったのに。
「遊ばれてると、本気で思ってる?」
航さんはそう言って真っ直ぐに私の目を見る。
「だって……。知り合ったばっかりだし……」
「知り合ったばっかり、ねぇ」
そう言って楽しそうに笑う。
「航さん……モテるだろうし」
「見えない誰かさんに嫉妬してんの?」
「そうじゃなくて、相手なんていくらでもいるだろうなって」
私は目を泳がせながら、航さんの真っ直ぐな視線から逃げる。
視線は逃げられても、ベッドの上で手をぎゅっと握られて、航さんからはとても逃げられそうにない。
「そんな相手いねーよ」
「……やっぱり田舎だからこの辺は若い女の子がいない……とか?」
「舐めてんな。いくら田舎でも若い女くらいいるだろ」
「じゃあ、なんで……私なんて相手にしてるの」
「お前、自己評価低いな、ずいぶん」
そう言って航さんは私の頬と首筋に唇を這わせた。
今日はお酒の匂いがしない分、航さんの甘い香りが強く感じられる。
とても好きで落ち着く香りだった。
「じゃあ、一ヶ月経ったらいい訳?」
航さんは私の胸にキスをしながらそう訊いた。
「え? なにが?」
「抱いても」
抱く?! と、今まで誰からも一度も言われたことの無いフワフワとしたセリフに、体中が熱くなった。
航さんの口から聞くと、なにか優しく響いて余計にいやらしく感じられる。
「なんで一ヶ月?」
「知り合ったばっかりだから、遊ばてれるんじゃないかと思うんだろ?」
確かにそうは言ったけれど。
そういうことだろうか?
「じゃあ、一ヶ月後な。それまでは可愛がるだけな」
航さんは八重歯を覗かせたやんちゃな笑い方をして、おでこにキスをした。
もう何度体中にキスをされているだろう。
最初は触れられるだけで心臓が壊れそうだったのに、少しずつ心地よく感じるようになってきていた。
口には一度もしてくれないけど……。
「一ヶ月後、どうしても嫌なら逃げろよ」
翌日の朝食が出来上がり居間に運び終えたところで、航さんに連れられて玲奈さんが俯き加減にやって来た。
私と響君は円卓に座り、玲奈さんの謝り待ちをする。
「……昨日はご迷惑をお掛けしました」
航さんに促され、玲奈さんは私の顔も響君の顔も見ずにそう言った。
響君は何も言わない。
何も言わずに玲奈さんの身勝手をこれからもずっと許すのだろう。
「『ご迷惑』じゃないと思います」
私は正座をしたまま背筋を伸ばして玲奈さんに言った。
怪訝な顔で玲奈さんは私を見たけれど、私は構わず続けた。
「『ご心配』ですよ。航さんが、女将さんが、響君が。どれだけ玲奈さんを心配していたか分かっていますか?」
余所者で、今回の家出の原因を作った私が言えた立場ではないことは重々承知だった。
けれど言わずにいられない。
こんなにも玲奈さんを大切にしている人たちを、昨日の行動で裏切ったことを理解してほしかった。
ただ俯いていた玲奈さんは段々と肩を震わせ、ひくっとしゃくり上げた。
(ああ、泣かせてしまった。)
こういう時に場を荒らさず波風を立てない態度をとるのが正解だということは知っている。
だけど、何も言わないであろう響君の気持ちを思うと、黙っていることの方が罪深いとさえ思えた。
あの響君の震える手をなかったことにはさせたくなかった。
「……響。昨日ずっと連絡くれてたのに、無視してごめんね」
玲奈さんは鼻をすすりながら懸命にそう言った。
(ああ、ちゃんと素直ないい子だ。)
そう思った。みんながあんなに心配する子が悪い子なはずがないと思っていた。
私には悪態をついてばかりだったけれど、本質はそこにはない。
響君は表情を変えないまま玲奈さんを見つめ、首を横に振った。
「俺こそ、なにもしてやれなくてごめん」
それは昨日の家出のことだろうか。それとも、高校時代の事件のことを言っているのだろうか。
響君が息が詰まりそうな声でやっと応えたので、そんなことを思ってしまった。
(……切ないな。)
響君の玲奈さんを想う気持ちを考えるとどうしても切なく思えてしまう。
「玲奈、凛にまで怒られたな」
航さんは状況を楽しんでいるのか、みんなの顔を一通りうかがうとそう言って笑った。
「他人さんではっきりものを言ってくれる人は大事にしなさいね」
前掛けを外しながら台所からやって来た女将さんが玲奈さんにそう言って円卓につき、いただきます、と食べ始めた。
玲奈さんは響君に渡されたポケットティッシュで涙を拭きながら、私が作った卵焼きを一生懸命口に運びだした。
「お前さ、荷物少なすぎないか?」
私が朝食と片づけを終えて部屋に戻ると、シャワーを浴びていたらしき航さんが洗面所から出てきた。
上半身は裸である。
「服を。服を着てください」
焦ってそう言うと、航さんはしれっと「ああ」と言ってタオルで頭を拭く。
……「ああ」じゃない。
あまり生娘みたいな反応を続けるのも恥ずかしいので、私もしれっと自分のキャンプ用のリュックから荷物を出すふりをして背を向けた。
「ほんとに数日のキャンプくらいの荷物しかねーよな」
キャンプは、趣味だった。
最近のキャンプブームもあって、大学の友達と一昨年から始めた。
今この部屋にある私の荷物はキャンプ道具一式と、着替えが三組。
洗面具とスマホと充電器、財布に防寒着。
それだけだ。
「服とか、どうした。置いてきたのか?」
「実家に送って……」
「送った? なんで」
「私、独り暮らししてたアパートから夜逃げしてきたから」
夜逃げ? と航さんは声を大きくして言って、髪を拭く手を止めた。
「あ、家賃はちゃんと払ってたし、退去手続きもしてきたけどね」
振り返って必死にそう言ったけれど、航さんは難しい顔をして私を射るように見る。
「お前、誰から逃げてきた?」
目の前に立ち、航さんはいつもよりも低い声でそう私に訊いた。