ようこそ、片桐社長のまかないさん
6 片桐社長と甘い日々
目が覚めると、航さんが目の前で眠っていた。
(航さん、帰ってたんだ……。)
ぎゅっと心臓が苦しくなった。
やっと会えた。ずっと一緒にいたい。もうどこにも行かないでほしい。
私の中にある面倒な感情のほとんど全てが、わっと湧き上がって口から次々とこぼれそうになる。
深呼吸してそれらを呑み込むと、起こしてしまわないようにそっと航さんの胸に潜り込んだ。
航さんの心臓の音と静かな寝息が私の体を微かに揺らし、航さんの高い体温がひどく心地いい。
昨日は、どこまでが夢だったのだろう。
そっと顔をあげて航さんの美しい寝顔を見ながら考えたけれど良く分からない。
航さんは部屋着に着替えているし、ワックスもついていないからお風呂に入ったのだろう。
やっぱり昨日のことはすべて夢だったのかもしれない。
それにしても、なんで私のベッドで眠っているのだろう?
ベッドに潜り込んできている状況が可愛く思えて、なんとも言えずくすぐったい気分だった。
私がモゾモゾとしていたからか、航さんは顔を歪めて「んっ」と色っぽい声を出しながら目を擦りだした。しまった、起こしてしまった。
「凛? 今何時?」
航さんの掠れて殆ど出ない声が髪を撫でると、耳から首筋までがゾクゾクとした。
「5時。起こしちゃってごめんなさい」
もう私は仕事に行かなくてはいけない。
ぎゅっと航さんの体にしがみつく。
「なに、どうした?」
航さんは私の頭をゆったり撫でると、眠たげな口調で訊いた。
「おかえりなさい」
その言葉で、私はみっともない自分の面倒な言葉たちに蓋をする。
「なんだ、可愛いなお前。チューしてやろうか」
そう言って航さんは私の頭にキスをした。
チュッという優しい音が響いて、航さんはクテンと力を抜いて枕に頭を落とした。
「お前、もう台所行く時間?」
「うん。行かないと」
すると航さんは私の背中をぐっと引き寄せて抱きしめる。
「あと5分。このままいろよ」
「え? もう行かないと。女将さんより先に……」
「お前昨日寝ちゃうし。5分だけ触らせて」
触らせて? その言葉のパンチ力になんと答えればいいのかと戸惑っていると、航さんは私の服の裾から入れた手をゆっくりと這わせ背中を撫でた。
「ひゃあ?」と色気のない声が出た。
「ノーブラ」と呟かれたので、「ああ、寝るときは」とどうでもいい情報を伝えた。
「ほせーのに柔らかいな」
航さんがいちいち口に出すので、恥ずかしくて航さんの胸に顔を逃げ込ませる。
「でもここは固くなってるな。触って欲しい?」
「も……、変なこと言わないで」
航さんの長くて厚い指が私の胸をもてあそぶ。同時に耳をチロチロと舐められて、もう声が抑えられなかった。
「航さん、まって……。おねが……。あ……の、玲奈さんに聞こえちゃ……」
「叫びでもしない限り聞こえない距離だから大丈夫。声押さえるなよ」
「航さん、ねえ、航さん。あの……ね、航さん……」
あ、あ、と声を漏らしながら私は必死に航さんを呼んでいた。呼んでいないと怖いくらいに気持ち良くて頭がおかしくなりそうだった。
耳元で航さんがふっと笑って吐息が耳に掛かった。
「なんだよ。呼びすぎだろ。お前なんなの、その可愛さ」
「だって……あっ。航さん、やぁ。あっ。航さん、あの……ね。航さん……」
そう言われても、息も絶え絶えに航さんの名前を必死に呼んでしまう。
一昨日の夜からずっと呼びたかった。触れてほしかった。帰ってきてくれて嬉しい。どこにも行かないで。
言葉にできない想いが吐息になって航さんの肩越しに天井へ消えていく。
そんなことをしていると、一階から女将さんがバタバタと走る音が響き、私は航さんの腕からどうにか抜け出して支度をした。
航さんは昨日夢で見たのと同じ妖艶な瞳でベッドから私を眺めて、「行ってらっしゃい」と言って静かに目を閉じまた眠りに落ちていった。
「この紙袋って?」
その夜、部屋に戻るとソファーにどっさりとアパレルのショッパーが連なって置かれていた。
何だろうと思いつつ寝支度を整えていると、午後から仕事に出た航さんが戻ってきてすぐにお風呂に入ったので、出てきたところでそう訊ねた。
「ああ、お前の洋服」
航さんはまた上半身裸のまま髪を拭きながら、しれっと言った。
「洋服?」
「東京に出張だったから、可能ならお前の置いてきた洋服とか持ってきてやろうかと思ってたんだけど、実家に送ったって言うし取りに行くわけにもいかなかったからな。買ってきた」
「航さんが? 選んだの?」
「ああ。東京で働いてた時、初めて担当したのがレディース中心のアパレル会社で。かなり勉強したお陰で詳しくなってな。好みじゃなかったら悪いけど」
よく見ると百貨店ブランドのショッパーばかりだ。一番大きな袋は、私が着ているアウターのブランド、マリンピアのものだった。
「金額を……」
教えてください。とまでは恐ろしくて言えずうろたえてしまった。開けてもいないけれど、二十着くらいありそうだ。とても今払い切れる額ではないだろう。
「まー、今は甘えとけば」
航さんはそう言って意地悪に笑った。私がそうできないことも知っているくせに。
給料から天引きしてください。もしくは、少しずつお返しします……。
どちらでもいい、そう言うべきだ。でもそう言ってしまうと、航さんの厚意を「結構です」と突っ返すことになる気がした。
「そう気張るなよ。俺が好きで買って来ただけだし。お前が着てるところ見たいだけだから」
葛藤が顔に出ていたのか、航さんはこちらを見てそう言い笑った。
そして紙袋を次々と開け内包装もビリビリ豪快に破いて、取り出した服をソファーの背もたれに掛けていく。
動きやすそうなパンツやカットソーが多いけれど、清楚なワンピースとロングドレスもあったので目を見張った。
「ありがとう……ございます」
出張先で私のことを考えてくれていた。自分の時間を削って買い物をしてきてくれた。それがとても嬉しかった。
「でも、賄作ったり家事したりするならもっと安い服で十分なのよ? 勿体なくて着れない……」
「ダメ。俺が見たいんだって言っただろ。お前の金銭感覚はどうでもいい」
どうでもいいとは。と流石にムッときて、呟いた。
「金銭感覚マヒ社長……」
するとマヒ社長はブーっと噴き出して笑いだした。
「なんだよそれ……。服渡されて、そんなこと言う奴っているの?」
航さんは上半身裸のまま、お腹を抱えて笑う。なんだか間抜けな様だった。
「もう、お前ほんと、やめて。困る」
そうひとりごちるように言いながら、航さんは私の肩を引き寄せてぎゅっとした。
まだククククっと肩とお腹が揺れている。
「笑い過ぎでしょ」
「だって。想像を超えて来るから」
「はいはい、想像を絶するつまんない女ですよ、どうせ」
「つまんなかったらこんなに笑ってねーだろ。可愛くて困るって言ってんの」
可愛いと、航さんがそう言うたびに私の方こそ困る。
航さんにとって、私のようにただはっきりものを言う女は物珍しいのだろうか。
航さんがたくさんの高級な服をスマートに買って来てくれたら、きっとどんな子でももっと喜んではしゃいで、航さんを立てる。
そういうのに飽き飽きしているのだろうか。だから本来ならつまらない反応をしているだけの私を面白がるのだろうか。
だとしたら、いつか飽きられてしまうだろうか?
「俺、遊びに金使わないからさ。特に楽しみもなく働き詰めてる可哀想な馬車馬社長だろ? 俺の唯一の楽しみだと思って、観念して着て。な?」
耳元で、な? と少し掠れた声が私の髪を揺らす。
私は力なく小さく頷くと、航さんの胸にギュッとくっついた。
航さんの胸板は厚くて硬い。
航さんもたまに船に乗り網をあげることがあると富山さんが言っていたから、きっと航さんも多少は海の男の体をしているのだと思う。
その割に硬い腰は細くて、エロいという表現が良く似合う体をしていた。
「外で……」
私が言いかけて恥ずかしくなりやめると、航さんは「ん?」と続きを促す。
「外で、上脱いだりしちゃダメだよ」
言った後で、ああ……と、やはり後悔した。何を言っているのだろう。
「うん? 外で? 脱がねーよ」
「……もっと熱い時期、港で汗とか海水に濡れて脱いだり、海水浴で脱いだりするでしょ」
「ああ、そういうことなら。まあ、脱ぐだろ。上は」
「ダメ」
「なんで」
「エロい目で視られるよ」
すると、航さんはまたブーっと勢いよく噴き出して笑った。くっ付いている私までその豪快な笑い方に巻き込まれてもみくちゃになる。
「お前、ちょっ……。殺す気か」
航さんは笑った勢いでソファーへ腰を落とした。私は航さんの前に立ったまま、手を腰に当てた。
「そっちこそ、外でその顔でその体見せつけるとか、周りの女子を殺す気? って感じですけど」
「もうやめろって」
と航さんはソファーの背もたれに体を預けながら、子どもみたいな顔でケラケラと笑っている。
「笑い事じゃないんですけど」
私が真剣に言えば言うほど航さんは笑う。
甘い顔で笑いながら生乾きの髪を揺らし、がっちりとした胸板と細腰、太いけど長い首。筋張った腕で髪を掻き上げる。
こんなの、萌え殺されない女の子なんているの?
「分かった分かった。脱がない脱がない」
航さんは笑いを堪えながらそう言って降参とばかりに両手を軽く上げてひらひらさせる。
そのはにかんだ顔もまた甘くてかわいく、私は吸い寄せられるように航さんの膝の上に乗りかかる。
そして跨って座ると航さんの肩に顔を埋めて再びくっついた。
「なに、どうした? ずいぶん甘えただな」
「だって……」と私は小さく言いかけて、やめた。離れてた間が寂しくて。帰ってきてくれて嬉しくて。でも、そうはとても言えない。恥ずかしい。
航さんは私の腰に腕を回して、裾からゆっくりと手を入れる。
「あれ? 今はしてるんだな」
「まだ寝る前だから」とまたどうでもいいことを答えていると、航さんがいとも簡単に片手でブラのフォックを外した。
「ちょっとだけ体、離して。じゃないと触れない」
航さんが私の耳にキスをしながらそう言った。耳から肌が泡立ち、首筋に広がり全身が痺れるみたいになった。
言われるままに、ぴったりくっついていた体を離して、顔も上げる。
航さんの妖艶な瞳と目が合うと、金縛りにあったみたいに動けなくなる。
優しく包むようにして私の胸に触れると、航さんはとろんとした目をしながらいたずらに笑う。
これ以上、新たな顔を見せないでほしい。心臓がもちそうにない。
「凛から、キスして」
キス、と言われてぶわっと顔が熱くなった。私にとってはかなりハードルが高いけれど、航さんがいつもしてくれていることだ。
私は小さく震える手でなんとか航さんの肩に掴まって、硬い首筋にキスをした。
その間も航さんが私の胸をいじるので、腰をびくびくとさせながら必死になって、声を漏らしながらも唇を這わせた。
航さんの体も小さくビクリと反応する。それが嬉しくて、鎖骨から首筋、耳に掛けてキスをした。
航さんは「はぁ」と小さく息を吐いてから私の髪を撫で、
「なあ、ここにも」と言って、自分の唇を指さした。
あれ? これは夢で見たのと逆の展開? と、私は必死になり過ぎて朦朧としながら、航さんのいやらしい表情と、唇を指す大好きな長くて厚い指を見つめた。
「ほら、やっぱりエロいよ」
そう呟きながら、私は航さんの唇に吸い寄せられた。
自分の眉が下がり、情けない顔をしていそうで怖い。航さんは薄ら目を瞑り、私も目を閉じて航さんの柔らかな唇と舌が、私の唇を割り中まで優しく愛でてくれるに任せた。
夢の中みたいにまた酸欠になりながら、長いキスの後も航さんの膝の上から下りずに、ただくっついたり胸元にキスをしたりされたりした。
離れたくなかった。
「もう膝痛い?」
いい加減重いかなと思って訊くと、航さんはまた笑って首を横に振った。
「んな軟じゃねーよ」
「じゃあ、もうちょっとくっついててもいい?」
「いいけど。お前……」
「何?」と見つめると、航さんはフイっと顔を逸らした。
「あと三週間だからな。あんまり煽るなよ」
「え? なにが?」と訊いたけれど、もういい、と言って航さんはまた私の胸をいじりだし、ん、ん、と声を漏らす私をからかいながら愛でてくれた。
30分くらいくっ付いて、そのまま私は航さんの膝の上で寝てしまった……。
「はあ。やっぱりこいつこそ俺を殺す気としか思えねえ」
航さんが出張から帰ってきてから、そんな甘い夜が続いた。
航さんは殆ど休みを取らずに働き、たまの休みでも私服でブラッと事務所へ行ったり、漁港へ顔を出したり、一階の仕事部屋でパソコンに向かったりする。
私は段々と賄の仕事にも慣れ、女将さんにおかずの半分は任せてもらえるようになってきていた。
ご飯を食べにくる社員さんたちとも以前より打ち解けてきたように思う。
唯一の営業担当である山薙さんは響君より無口でほとんど喋ったことがなかったけれど、みんな気のいい人たちだった。
航さんは、夜ご飯は社員たちと一緒に食べたり食べなかったり。真夜中に帰ってきて、お台所に取り置いてあるものを立ったまま胃に流し込んでいるところも見たことがあった。
(この人、本当に大丈夫なんだろうか? こんな生活してて死んでしまわない?)
そんな私の心配をよそに、航さんは夜中に帰ってきても私が起きている限りは私の体をいじり倒し、何度も何度もキスをしてから同じベッドで眠った。
そんな生活が続いて二週間、玲奈さんと私の関係も変化してきた。
「凛さんってさ、なんで化粧しないの?」
土曜日の午前。朝食の片づけを終えて居間の円卓を拭いていると、珍しく居間に残ってみかんを食べていた玲奈さんが突然言った。
「化粧品、持ってないから……」
すると玲奈さんは、大人なのに信じられない、という顔で私をマジマジと見た。
「あ、待って待って。こっちに来るときに荷物になるから持ってこなかっただけなの。都内で働いてた時はもちろんちゃんとしてたよ?」
なんとか大人の面目を保とうと必死にそう言った。けれど「ふーん」と疑いの目で見られるだけだった。
「ほら、今の生活には特に必要ないし」
フォローするも玲奈さんの顔は私を軽蔑していた。
「ああ、そっか。玲奈さんは美容の専門学校生だったよね」
すると「え。なんで知ってるのよ。怖い」と悪態をついて来る。可愛いものだ。
見ると、玲奈さんは家にいるだけなのにうっすらと、けれどしっかりとお化粧をしていた。そういえばずっとそうだったかもしれない。
目鼻立ちが美しすぎて化粧をしていることに意識がいかないけれど、すっぴんは見たことがない気がする。
(ああ、航さんもいるし響君も朝からやってくるし、気が抜けないのかな?)
今日も土曜なのに富山さんと響君たちは仕事があるらしく、夜は八人分用意する予定だ。日ごろから男の人が出入りする環境なら、なかなかすっぴんで気軽にいられないのが女心なのかもしれない。
そう言えば玲奈さんの航さんに対する気持ちはどうなったのだろう。最近は航さんも忙しくしているのであまり二人が接しているところを見かけないけれど、平日の朝は必ず航さんが玲奈さんを送り届けていた。
「手入れはちゃんとしてるの?」
「手入れ? 適当に化粧水つけるくらいかな……」
考え事の片手間にそう答えると、「はあ?」と怖い声が飛んできた。
「化粧水だけ?」
玲奈さんの迫力に気圧されながら「はい」と答える。
「それでそんなにきめ細かくて透き通ってるの?」
「え? 私の肌が? ……うーん昔から私、肌強いんだよね。繊細さの欠片もないというか」
すると玲奈さんは私の頬の辺りをマジマジと見て何やらため息をついた。
「……髪の毛は? ずいぶん長いけど、どうやってケアしてるの?」
「ああ、これ? もう一年以上切りそびれてて。ケアっていうのは……今はリンスインシャンプーを……」
恐る恐る言うと、「はあ?」とまた玲奈さんは目を血走らせた。怖い。
「……そんな何もしないで綺麗でいられるのなんて今だけよ。あと少しして30になったら髪もパサパサ。シミだらけでガサガサの皺くちゃになるから」
玲奈さんはそうブツブツと言いながら二つ目のみかんを剥く。
私より若くて断然美しい子が何を言ってるんだ。
「いい加減ちゃんとしないとね。髪も切りたいんだけど、この辺に美容サロンって……」
そう言いかけたところで、玲奈さんが円卓にバッと手をついた。
「切ってあげようか? 私が」
玲奈さんのそんなキラキラした目、初めて見た。
玲奈さんは部屋からはさみなど一式と新聞紙と椅子を持ってきて、瞬く間にカットが始まった。
「まだ勉強初めて一年だから期待しないでね」と言いながら、覚束ない手つきで、けれど丁寧におそらく基本に忠実に切っていく。
真剣な眼差しが、余計に玲奈さんを美しく見せた。
「できた」と、玲奈さんが呟いて、手鏡を渡してくれる。
ズルズルと長かった髪はすっきりと肩の上で切りそろえられ、前髪はワンレンのまま流行のパッツンとしたボブになっていた。
「わーかわいい。この髪型してみたかったの」
「ちゃんと毎朝今みたいにオイルつけてね。凛さんの髪真っ直ぐだけどこの長さだと跳ねちゃうし広がっちゃうから」
オイル……。そんな素敵なもの持っていないとは言い出せず愛想笑いを浮かべるにとどめた。
「航さんに見せるの、なんかちょっと照れるな……」
と鏡を見ながら心の声が漏れた。おっと、と思いチラリと玲奈さんを見ると、詰まらなそうな顔をしていた。
「残念だけど、航ちゃんはボブよりロングの方が好きらしいよ」
「ええ?!」
私が驚愕の表情を浮かべると、玲奈さんがいたずらに笑った。その顔が航さんとよく似ていて、私も思わず笑ってしまった。
「ほんとに残念。捨てられたりして、凛さん」
新聞紙と切った髪の毛を片付けながら玲奈さんがそう言うので、
「別に付き合ってるわけでもないので……」と一応事実を伝える。
「そうなの? ふーん」
と言いながら玲奈さんはごみを捨てにお台所に行ってしまった。
そして戻ってくると、また目をキラキラとさせていた。今度は何だろう、怖い。
「ねえ、メイクもしてもいい?」
今日はどうやら玲奈さんのカット&メイクモデルをする一日になりそうだ。
「あ、お疲れ様です」
と、仕事上がりの社員さんたちを居間で迎えると、「わあ!」と富山さんが声をあげた。
「凛ちゃん? 誰かと思った! 髪切ったんだね。なんかいつもと雰囲気全然違う」
それはそうだろう。髪をバッサリ切った上にしっかり今時なお化粧もしてもらった。そして極めつけに、航さんが先日買って来てくれたワンピースを玲奈さんの命により着用している。
折角可愛くしたんだからスカートはいてくれなきゃヤダ。とのこと。
居候宅で家事を手伝ってるだけの日に……何をやっているんだろう。と自分の姿が窓ガラスに映る度にため息が出そうだったけれど、玲奈さんのご要望とあらば。
「玲奈がしたんですか?」
と響君が珍しく人の顔をマジマジと眺める。
「そうそう。素敵?」とからかい半分で訊ねると、真剣に「はい」と返されて面食らった。
響君は本当に玲奈さんが好きなのだな、と思った。
けれどその後ろでお茶を人数分のコップに注いでいる玲奈さんがギロリとこちらを睨んだ。怖い。
(……響君、褒め方を間違えているよ。)
「いやー。凛ちゃん、めっちゃ可愛いね。いや普段も可愛いんだけど。ねえ、明日デートしない? デート。車で市内に連れてってあげるよ」
「いやいや、デートだなんてまた富山さんったら」
適当に流そうとするも、富山さんも食い下がる。
「凛ちゃん昨日、買い物に行きたいって言ってたよね? お兄さんが連れてってあげよう」
そう言いながら妙に上機嫌の富山さんが私の頭に触れようとした。
冗談やめてくださいとかわそうとした時、後ろからヌッと手が伸びてきて富山さんの腕を捻り上げた。
「社長んちでナンパすんなよ」
年長の根岸さんだった。
「すんません、調子乗りました」と、富山さんは笑いながら腕を引っ込めちょっと痛そうにさすっていた。
「悪いね」と根岸さんが言ったので、
「ありがとうございます。富山さんのいつものセクハラから守っていただき……」
うんたらかんたら、と口が動くに任せて気まずい雰囲気をどうにかしようと軽口を叩く。
根岸さんはいつも優しい。その優しさをどう取るべきかたまに測りかねる時がある。
「ただいま」
そんなことをしていると、突然航さんの声がして戸口を見た。航さんは柱に寄り掛かり腕を組んでいた。今のやり取りをそこから傍観していたよう。
「あ、おかえりなさい……」
航さんは私の姿をじっと見る。
ああ、忘れていたけれど、私は今気合いを入れた化粧をして髪型を変え、航さんがくれた清楚でふんわりとしたワンピースを着ているのだった。
恥ずかしくなってきて、でもなにか航さんがどう思うのかと変な期待なんかも湧いてきて、いっぱいいっぱいになって航さんの反応待ちをしていると、航さんはフイっと目を逸らした。
「腹減った。お前らちゃんと手洗って来い」
航さんはそう言っていつもの場所にどかりと座った。
ズコッと、コントだったなら転んだだろう。反応待ちをしたことが恐ろしく恥ずかしくなり、私は慌ててお台所に引っ込んだ。
「あらあら、凛ちゃん顔が真っ赤よ?」と女将さんが心配してくれる。
「私、とても恥ずかしい勘違いを……」
「んん? ああ、航が帰ってきたの。ふふ。若いっていいわよねー」
そう言いながら女将さんは前掛けを外して居間へ行ってしまった。
戻りたくないくらい恥ずかしかった。
夕食の片づけを手伝って部屋へ戻ると、今すぐにでもワンピースを脱いでお風呂に入って化粧を落としたい気分になった。
けれど、ああ、クレンジングがない。玲奈さんに借りにいかなくては。とがっくりと来た時、航さんが部屋の戸を開けた。
「あ、今日は仕事しないの? もう終わり?」
すると航さんは固めている髪を掻き上げて「ああ、うん」と生返事を残して洗面所に入って行ってしまった。
ああ。航さんが出てくるまでこのままでいないといけないのか。
せめてワンピースを脱ごうか迷う。いや、玲奈さんにクレンジングを借りてくるのが先か。
結局先にクレンジングを借りに行き、お風呂に入る準備をし今のうちに部屋着に着替えようとしたところで航さんが風呂から上がる音が聞こえた。
(ぐ……着替えられず。)
でもそんなことより今日はまだ時間が早いから、二人でゆっくりできそうで嬉しかった。
だからこそ、一刻も早くお風呂に入って化粧を落として着替えたい。
洗面所から航さんが出てきたので、クレンジングと着替えと……とベッドで慌てていると、髪を拭きながら航さんが近づいてきた。
湯上がりの航さんの色気が好きだった。私は目の置き所に困りつつ、されるだろうキスとやっと触れてもらえることへの期待に、顔が緩みそうになるのを必死で堪えた。
「おやすみ」と、軽いキスをされた。
おやすみ? と、ぽかんとして航さんを見上げる。航さんは大人な顔をして私の頭を撫でると自分の部屋に入って行ってしまった。
……え?
航さんが自分の部屋に入って行く姿なんて久しぶりに見た。
ぴしゃりと合わせ扉が閉まる。
私は玲奈さんから借りたクレンジングオイルのボトルを握ったまま固まった。
そのまま10分くらい呆然としていたけれど、航さんは戻ってこなかった。
それはそうだ。おやすみのキスをされたのだから。
『凛さん、捨てられたりして』
玲奈さんの昼間の言葉が耳の奥で再生される。
(……髪の毛を切っただけで?)
流石にそんな訳ないとは思う。思うけれど、あまりのことに呼吸が浅くなって胸が苦しくなるのを感じた。
お風呂に入っても、寝支度を整えても胸のゴロゴロが取れない。
ベッドに入るとひんやり冷たかった。航さんの部屋からは物音一つしない。
一人で寝るのなんて、航さんの出張以来二週間ぶりだった。
「ふえ……」
なんだか、涙が出た。
航さんに触れてほしい。くっついて安心したい。抱きしめてほしい。
(……捨てないで。)
(航さん、帰ってたんだ……。)
ぎゅっと心臓が苦しくなった。
やっと会えた。ずっと一緒にいたい。もうどこにも行かないでほしい。
私の中にある面倒な感情のほとんど全てが、わっと湧き上がって口から次々とこぼれそうになる。
深呼吸してそれらを呑み込むと、起こしてしまわないようにそっと航さんの胸に潜り込んだ。
航さんの心臓の音と静かな寝息が私の体を微かに揺らし、航さんの高い体温がひどく心地いい。
昨日は、どこまでが夢だったのだろう。
そっと顔をあげて航さんの美しい寝顔を見ながら考えたけれど良く分からない。
航さんは部屋着に着替えているし、ワックスもついていないからお風呂に入ったのだろう。
やっぱり昨日のことはすべて夢だったのかもしれない。
それにしても、なんで私のベッドで眠っているのだろう?
ベッドに潜り込んできている状況が可愛く思えて、なんとも言えずくすぐったい気分だった。
私がモゾモゾとしていたからか、航さんは顔を歪めて「んっ」と色っぽい声を出しながら目を擦りだした。しまった、起こしてしまった。
「凛? 今何時?」
航さんの掠れて殆ど出ない声が髪を撫でると、耳から首筋までがゾクゾクとした。
「5時。起こしちゃってごめんなさい」
もう私は仕事に行かなくてはいけない。
ぎゅっと航さんの体にしがみつく。
「なに、どうした?」
航さんは私の頭をゆったり撫でると、眠たげな口調で訊いた。
「おかえりなさい」
その言葉で、私はみっともない自分の面倒な言葉たちに蓋をする。
「なんだ、可愛いなお前。チューしてやろうか」
そう言って航さんは私の頭にキスをした。
チュッという優しい音が響いて、航さんはクテンと力を抜いて枕に頭を落とした。
「お前、もう台所行く時間?」
「うん。行かないと」
すると航さんは私の背中をぐっと引き寄せて抱きしめる。
「あと5分。このままいろよ」
「え? もう行かないと。女将さんより先に……」
「お前昨日寝ちゃうし。5分だけ触らせて」
触らせて? その言葉のパンチ力になんと答えればいいのかと戸惑っていると、航さんは私の服の裾から入れた手をゆっくりと這わせ背中を撫でた。
「ひゃあ?」と色気のない声が出た。
「ノーブラ」と呟かれたので、「ああ、寝るときは」とどうでもいい情報を伝えた。
「ほせーのに柔らかいな」
航さんがいちいち口に出すので、恥ずかしくて航さんの胸に顔を逃げ込ませる。
「でもここは固くなってるな。触って欲しい?」
「も……、変なこと言わないで」
航さんの長くて厚い指が私の胸をもてあそぶ。同時に耳をチロチロと舐められて、もう声が抑えられなかった。
「航さん、まって……。おねが……。あ……の、玲奈さんに聞こえちゃ……」
「叫びでもしない限り聞こえない距離だから大丈夫。声押さえるなよ」
「航さん、ねえ、航さん。あの……ね、航さん……」
あ、あ、と声を漏らしながら私は必死に航さんを呼んでいた。呼んでいないと怖いくらいに気持ち良くて頭がおかしくなりそうだった。
耳元で航さんがふっと笑って吐息が耳に掛かった。
「なんだよ。呼びすぎだろ。お前なんなの、その可愛さ」
「だって……あっ。航さん、やぁ。あっ。航さん、あの……ね。航さん……」
そう言われても、息も絶え絶えに航さんの名前を必死に呼んでしまう。
一昨日の夜からずっと呼びたかった。触れてほしかった。帰ってきてくれて嬉しい。どこにも行かないで。
言葉にできない想いが吐息になって航さんの肩越しに天井へ消えていく。
そんなことをしていると、一階から女将さんがバタバタと走る音が響き、私は航さんの腕からどうにか抜け出して支度をした。
航さんは昨日夢で見たのと同じ妖艶な瞳でベッドから私を眺めて、「行ってらっしゃい」と言って静かに目を閉じまた眠りに落ちていった。
「この紙袋って?」
その夜、部屋に戻るとソファーにどっさりとアパレルのショッパーが連なって置かれていた。
何だろうと思いつつ寝支度を整えていると、午後から仕事に出た航さんが戻ってきてすぐにお風呂に入ったので、出てきたところでそう訊ねた。
「ああ、お前の洋服」
航さんはまた上半身裸のまま髪を拭きながら、しれっと言った。
「洋服?」
「東京に出張だったから、可能ならお前の置いてきた洋服とか持ってきてやろうかと思ってたんだけど、実家に送ったって言うし取りに行くわけにもいかなかったからな。買ってきた」
「航さんが? 選んだの?」
「ああ。東京で働いてた時、初めて担当したのがレディース中心のアパレル会社で。かなり勉強したお陰で詳しくなってな。好みじゃなかったら悪いけど」
よく見ると百貨店ブランドのショッパーばかりだ。一番大きな袋は、私が着ているアウターのブランド、マリンピアのものだった。
「金額を……」
教えてください。とまでは恐ろしくて言えずうろたえてしまった。開けてもいないけれど、二十着くらいありそうだ。とても今払い切れる額ではないだろう。
「まー、今は甘えとけば」
航さんはそう言って意地悪に笑った。私がそうできないことも知っているくせに。
給料から天引きしてください。もしくは、少しずつお返しします……。
どちらでもいい、そう言うべきだ。でもそう言ってしまうと、航さんの厚意を「結構です」と突っ返すことになる気がした。
「そう気張るなよ。俺が好きで買って来ただけだし。お前が着てるところ見たいだけだから」
葛藤が顔に出ていたのか、航さんはこちらを見てそう言い笑った。
そして紙袋を次々と開け内包装もビリビリ豪快に破いて、取り出した服をソファーの背もたれに掛けていく。
動きやすそうなパンツやカットソーが多いけれど、清楚なワンピースとロングドレスもあったので目を見張った。
「ありがとう……ございます」
出張先で私のことを考えてくれていた。自分の時間を削って買い物をしてきてくれた。それがとても嬉しかった。
「でも、賄作ったり家事したりするならもっと安い服で十分なのよ? 勿体なくて着れない……」
「ダメ。俺が見たいんだって言っただろ。お前の金銭感覚はどうでもいい」
どうでもいいとは。と流石にムッときて、呟いた。
「金銭感覚マヒ社長……」
するとマヒ社長はブーっと噴き出して笑いだした。
「なんだよそれ……。服渡されて、そんなこと言う奴っているの?」
航さんは上半身裸のまま、お腹を抱えて笑う。なんだか間抜けな様だった。
「もう、お前ほんと、やめて。困る」
そうひとりごちるように言いながら、航さんは私の肩を引き寄せてぎゅっとした。
まだククククっと肩とお腹が揺れている。
「笑い過ぎでしょ」
「だって。想像を超えて来るから」
「はいはい、想像を絶するつまんない女ですよ、どうせ」
「つまんなかったらこんなに笑ってねーだろ。可愛くて困るって言ってんの」
可愛いと、航さんがそう言うたびに私の方こそ困る。
航さんにとって、私のようにただはっきりものを言う女は物珍しいのだろうか。
航さんがたくさんの高級な服をスマートに買って来てくれたら、きっとどんな子でももっと喜んではしゃいで、航さんを立てる。
そういうのに飽き飽きしているのだろうか。だから本来ならつまらない反応をしているだけの私を面白がるのだろうか。
だとしたら、いつか飽きられてしまうだろうか?
「俺、遊びに金使わないからさ。特に楽しみもなく働き詰めてる可哀想な馬車馬社長だろ? 俺の唯一の楽しみだと思って、観念して着て。な?」
耳元で、な? と少し掠れた声が私の髪を揺らす。
私は力なく小さく頷くと、航さんの胸にギュッとくっついた。
航さんの胸板は厚くて硬い。
航さんもたまに船に乗り網をあげることがあると富山さんが言っていたから、きっと航さんも多少は海の男の体をしているのだと思う。
その割に硬い腰は細くて、エロいという表現が良く似合う体をしていた。
「外で……」
私が言いかけて恥ずかしくなりやめると、航さんは「ん?」と続きを促す。
「外で、上脱いだりしちゃダメだよ」
言った後で、ああ……と、やはり後悔した。何を言っているのだろう。
「うん? 外で? 脱がねーよ」
「……もっと熱い時期、港で汗とか海水に濡れて脱いだり、海水浴で脱いだりするでしょ」
「ああ、そういうことなら。まあ、脱ぐだろ。上は」
「ダメ」
「なんで」
「エロい目で視られるよ」
すると、航さんはまたブーっと勢いよく噴き出して笑った。くっ付いている私までその豪快な笑い方に巻き込まれてもみくちゃになる。
「お前、ちょっ……。殺す気か」
航さんは笑った勢いでソファーへ腰を落とした。私は航さんの前に立ったまま、手を腰に当てた。
「そっちこそ、外でその顔でその体見せつけるとか、周りの女子を殺す気? って感じですけど」
「もうやめろって」
と航さんはソファーの背もたれに体を預けながら、子どもみたいな顔でケラケラと笑っている。
「笑い事じゃないんですけど」
私が真剣に言えば言うほど航さんは笑う。
甘い顔で笑いながら生乾きの髪を揺らし、がっちりとした胸板と細腰、太いけど長い首。筋張った腕で髪を掻き上げる。
こんなの、萌え殺されない女の子なんているの?
「分かった分かった。脱がない脱がない」
航さんは笑いを堪えながらそう言って降参とばかりに両手を軽く上げてひらひらさせる。
そのはにかんだ顔もまた甘くてかわいく、私は吸い寄せられるように航さんの膝の上に乗りかかる。
そして跨って座ると航さんの肩に顔を埋めて再びくっついた。
「なに、どうした? ずいぶん甘えただな」
「だって……」と私は小さく言いかけて、やめた。離れてた間が寂しくて。帰ってきてくれて嬉しくて。でも、そうはとても言えない。恥ずかしい。
航さんは私の腰に腕を回して、裾からゆっくりと手を入れる。
「あれ? 今はしてるんだな」
「まだ寝る前だから」とまたどうでもいいことを答えていると、航さんがいとも簡単に片手でブラのフォックを外した。
「ちょっとだけ体、離して。じゃないと触れない」
航さんが私の耳にキスをしながらそう言った。耳から肌が泡立ち、首筋に広がり全身が痺れるみたいになった。
言われるままに、ぴったりくっついていた体を離して、顔も上げる。
航さんの妖艶な瞳と目が合うと、金縛りにあったみたいに動けなくなる。
優しく包むようにして私の胸に触れると、航さんはとろんとした目をしながらいたずらに笑う。
これ以上、新たな顔を見せないでほしい。心臓がもちそうにない。
「凛から、キスして」
キス、と言われてぶわっと顔が熱くなった。私にとってはかなりハードルが高いけれど、航さんがいつもしてくれていることだ。
私は小さく震える手でなんとか航さんの肩に掴まって、硬い首筋にキスをした。
その間も航さんが私の胸をいじるので、腰をびくびくとさせながら必死になって、声を漏らしながらも唇を這わせた。
航さんの体も小さくビクリと反応する。それが嬉しくて、鎖骨から首筋、耳に掛けてキスをした。
航さんは「はぁ」と小さく息を吐いてから私の髪を撫で、
「なあ、ここにも」と言って、自分の唇を指さした。
あれ? これは夢で見たのと逆の展開? と、私は必死になり過ぎて朦朧としながら、航さんのいやらしい表情と、唇を指す大好きな長くて厚い指を見つめた。
「ほら、やっぱりエロいよ」
そう呟きながら、私は航さんの唇に吸い寄せられた。
自分の眉が下がり、情けない顔をしていそうで怖い。航さんは薄ら目を瞑り、私も目を閉じて航さんの柔らかな唇と舌が、私の唇を割り中まで優しく愛でてくれるに任せた。
夢の中みたいにまた酸欠になりながら、長いキスの後も航さんの膝の上から下りずに、ただくっついたり胸元にキスをしたりされたりした。
離れたくなかった。
「もう膝痛い?」
いい加減重いかなと思って訊くと、航さんはまた笑って首を横に振った。
「んな軟じゃねーよ」
「じゃあ、もうちょっとくっついててもいい?」
「いいけど。お前……」
「何?」と見つめると、航さんはフイっと顔を逸らした。
「あと三週間だからな。あんまり煽るなよ」
「え? なにが?」と訊いたけれど、もういい、と言って航さんはまた私の胸をいじりだし、ん、ん、と声を漏らす私をからかいながら愛でてくれた。
30分くらいくっ付いて、そのまま私は航さんの膝の上で寝てしまった……。
「はあ。やっぱりこいつこそ俺を殺す気としか思えねえ」
航さんが出張から帰ってきてから、そんな甘い夜が続いた。
航さんは殆ど休みを取らずに働き、たまの休みでも私服でブラッと事務所へ行ったり、漁港へ顔を出したり、一階の仕事部屋でパソコンに向かったりする。
私は段々と賄の仕事にも慣れ、女将さんにおかずの半分は任せてもらえるようになってきていた。
ご飯を食べにくる社員さんたちとも以前より打ち解けてきたように思う。
唯一の営業担当である山薙さんは響君より無口でほとんど喋ったことがなかったけれど、みんな気のいい人たちだった。
航さんは、夜ご飯は社員たちと一緒に食べたり食べなかったり。真夜中に帰ってきて、お台所に取り置いてあるものを立ったまま胃に流し込んでいるところも見たことがあった。
(この人、本当に大丈夫なんだろうか? こんな生活してて死んでしまわない?)
そんな私の心配をよそに、航さんは夜中に帰ってきても私が起きている限りは私の体をいじり倒し、何度も何度もキスをしてから同じベッドで眠った。
そんな生活が続いて二週間、玲奈さんと私の関係も変化してきた。
「凛さんってさ、なんで化粧しないの?」
土曜日の午前。朝食の片づけを終えて居間の円卓を拭いていると、珍しく居間に残ってみかんを食べていた玲奈さんが突然言った。
「化粧品、持ってないから……」
すると玲奈さんは、大人なのに信じられない、という顔で私をマジマジと見た。
「あ、待って待って。こっちに来るときに荷物になるから持ってこなかっただけなの。都内で働いてた時はもちろんちゃんとしてたよ?」
なんとか大人の面目を保とうと必死にそう言った。けれど「ふーん」と疑いの目で見られるだけだった。
「ほら、今の生活には特に必要ないし」
フォローするも玲奈さんの顔は私を軽蔑していた。
「ああ、そっか。玲奈さんは美容の専門学校生だったよね」
すると「え。なんで知ってるのよ。怖い」と悪態をついて来る。可愛いものだ。
見ると、玲奈さんは家にいるだけなのにうっすらと、けれどしっかりとお化粧をしていた。そういえばずっとそうだったかもしれない。
目鼻立ちが美しすぎて化粧をしていることに意識がいかないけれど、すっぴんは見たことがない気がする。
(ああ、航さんもいるし響君も朝からやってくるし、気が抜けないのかな?)
今日も土曜なのに富山さんと響君たちは仕事があるらしく、夜は八人分用意する予定だ。日ごろから男の人が出入りする環境なら、なかなかすっぴんで気軽にいられないのが女心なのかもしれない。
そう言えば玲奈さんの航さんに対する気持ちはどうなったのだろう。最近は航さんも忙しくしているのであまり二人が接しているところを見かけないけれど、平日の朝は必ず航さんが玲奈さんを送り届けていた。
「手入れはちゃんとしてるの?」
「手入れ? 適当に化粧水つけるくらいかな……」
考え事の片手間にそう答えると、「はあ?」と怖い声が飛んできた。
「化粧水だけ?」
玲奈さんの迫力に気圧されながら「はい」と答える。
「それでそんなにきめ細かくて透き通ってるの?」
「え? 私の肌が? ……うーん昔から私、肌強いんだよね。繊細さの欠片もないというか」
すると玲奈さんは私の頬の辺りをマジマジと見て何やらため息をついた。
「……髪の毛は? ずいぶん長いけど、どうやってケアしてるの?」
「ああ、これ? もう一年以上切りそびれてて。ケアっていうのは……今はリンスインシャンプーを……」
恐る恐る言うと、「はあ?」とまた玲奈さんは目を血走らせた。怖い。
「……そんな何もしないで綺麗でいられるのなんて今だけよ。あと少しして30になったら髪もパサパサ。シミだらけでガサガサの皺くちゃになるから」
玲奈さんはそうブツブツと言いながら二つ目のみかんを剥く。
私より若くて断然美しい子が何を言ってるんだ。
「いい加減ちゃんとしないとね。髪も切りたいんだけど、この辺に美容サロンって……」
そう言いかけたところで、玲奈さんが円卓にバッと手をついた。
「切ってあげようか? 私が」
玲奈さんのそんなキラキラした目、初めて見た。
玲奈さんは部屋からはさみなど一式と新聞紙と椅子を持ってきて、瞬く間にカットが始まった。
「まだ勉強初めて一年だから期待しないでね」と言いながら、覚束ない手つきで、けれど丁寧におそらく基本に忠実に切っていく。
真剣な眼差しが、余計に玲奈さんを美しく見せた。
「できた」と、玲奈さんが呟いて、手鏡を渡してくれる。
ズルズルと長かった髪はすっきりと肩の上で切りそろえられ、前髪はワンレンのまま流行のパッツンとしたボブになっていた。
「わーかわいい。この髪型してみたかったの」
「ちゃんと毎朝今みたいにオイルつけてね。凛さんの髪真っ直ぐだけどこの長さだと跳ねちゃうし広がっちゃうから」
オイル……。そんな素敵なもの持っていないとは言い出せず愛想笑いを浮かべるにとどめた。
「航さんに見せるの、なんかちょっと照れるな……」
と鏡を見ながら心の声が漏れた。おっと、と思いチラリと玲奈さんを見ると、詰まらなそうな顔をしていた。
「残念だけど、航ちゃんはボブよりロングの方が好きらしいよ」
「ええ?!」
私が驚愕の表情を浮かべると、玲奈さんがいたずらに笑った。その顔が航さんとよく似ていて、私も思わず笑ってしまった。
「ほんとに残念。捨てられたりして、凛さん」
新聞紙と切った髪の毛を片付けながら玲奈さんがそう言うので、
「別に付き合ってるわけでもないので……」と一応事実を伝える。
「そうなの? ふーん」
と言いながら玲奈さんはごみを捨てにお台所に行ってしまった。
そして戻ってくると、また目をキラキラとさせていた。今度は何だろう、怖い。
「ねえ、メイクもしてもいい?」
今日はどうやら玲奈さんのカット&メイクモデルをする一日になりそうだ。
「あ、お疲れ様です」
と、仕事上がりの社員さんたちを居間で迎えると、「わあ!」と富山さんが声をあげた。
「凛ちゃん? 誰かと思った! 髪切ったんだね。なんかいつもと雰囲気全然違う」
それはそうだろう。髪をバッサリ切った上にしっかり今時なお化粧もしてもらった。そして極めつけに、航さんが先日買って来てくれたワンピースを玲奈さんの命により着用している。
折角可愛くしたんだからスカートはいてくれなきゃヤダ。とのこと。
居候宅で家事を手伝ってるだけの日に……何をやっているんだろう。と自分の姿が窓ガラスに映る度にため息が出そうだったけれど、玲奈さんのご要望とあらば。
「玲奈がしたんですか?」
と響君が珍しく人の顔をマジマジと眺める。
「そうそう。素敵?」とからかい半分で訊ねると、真剣に「はい」と返されて面食らった。
響君は本当に玲奈さんが好きなのだな、と思った。
けれどその後ろでお茶を人数分のコップに注いでいる玲奈さんがギロリとこちらを睨んだ。怖い。
(……響君、褒め方を間違えているよ。)
「いやー。凛ちゃん、めっちゃ可愛いね。いや普段も可愛いんだけど。ねえ、明日デートしない? デート。車で市内に連れてってあげるよ」
「いやいや、デートだなんてまた富山さんったら」
適当に流そうとするも、富山さんも食い下がる。
「凛ちゃん昨日、買い物に行きたいって言ってたよね? お兄さんが連れてってあげよう」
そう言いながら妙に上機嫌の富山さんが私の頭に触れようとした。
冗談やめてくださいとかわそうとした時、後ろからヌッと手が伸びてきて富山さんの腕を捻り上げた。
「社長んちでナンパすんなよ」
年長の根岸さんだった。
「すんません、調子乗りました」と、富山さんは笑いながら腕を引っ込めちょっと痛そうにさすっていた。
「悪いね」と根岸さんが言ったので、
「ありがとうございます。富山さんのいつものセクハラから守っていただき……」
うんたらかんたら、と口が動くに任せて気まずい雰囲気をどうにかしようと軽口を叩く。
根岸さんはいつも優しい。その優しさをどう取るべきかたまに測りかねる時がある。
「ただいま」
そんなことをしていると、突然航さんの声がして戸口を見た。航さんは柱に寄り掛かり腕を組んでいた。今のやり取りをそこから傍観していたよう。
「あ、おかえりなさい……」
航さんは私の姿をじっと見る。
ああ、忘れていたけれど、私は今気合いを入れた化粧をして髪型を変え、航さんがくれた清楚でふんわりとしたワンピースを着ているのだった。
恥ずかしくなってきて、でもなにか航さんがどう思うのかと変な期待なんかも湧いてきて、いっぱいいっぱいになって航さんの反応待ちをしていると、航さんはフイっと目を逸らした。
「腹減った。お前らちゃんと手洗って来い」
航さんはそう言っていつもの場所にどかりと座った。
ズコッと、コントだったなら転んだだろう。反応待ちをしたことが恐ろしく恥ずかしくなり、私は慌ててお台所に引っ込んだ。
「あらあら、凛ちゃん顔が真っ赤よ?」と女将さんが心配してくれる。
「私、とても恥ずかしい勘違いを……」
「んん? ああ、航が帰ってきたの。ふふ。若いっていいわよねー」
そう言いながら女将さんは前掛けを外して居間へ行ってしまった。
戻りたくないくらい恥ずかしかった。
夕食の片づけを手伝って部屋へ戻ると、今すぐにでもワンピースを脱いでお風呂に入って化粧を落としたい気分になった。
けれど、ああ、クレンジングがない。玲奈さんに借りにいかなくては。とがっくりと来た時、航さんが部屋の戸を開けた。
「あ、今日は仕事しないの? もう終わり?」
すると航さんは固めている髪を掻き上げて「ああ、うん」と生返事を残して洗面所に入って行ってしまった。
ああ。航さんが出てくるまでこのままでいないといけないのか。
せめてワンピースを脱ごうか迷う。いや、玲奈さんにクレンジングを借りてくるのが先か。
結局先にクレンジングを借りに行き、お風呂に入る準備をし今のうちに部屋着に着替えようとしたところで航さんが風呂から上がる音が聞こえた。
(ぐ……着替えられず。)
でもそんなことより今日はまだ時間が早いから、二人でゆっくりできそうで嬉しかった。
だからこそ、一刻も早くお風呂に入って化粧を落として着替えたい。
洗面所から航さんが出てきたので、クレンジングと着替えと……とベッドで慌てていると、髪を拭きながら航さんが近づいてきた。
湯上がりの航さんの色気が好きだった。私は目の置き所に困りつつ、されるだろうキスとやっと触れてもらえることへの期待に、顔が緩みそうになるのを必死で堪えた。
「おやすみ」と、軽いキスをされた。
おやすみ? と、ぽかんとして航さんを見上げる。航さんは大人な顔をして私の頭を撫でると自分の部屋に入って行ってしまった。
……え?
航さんが自分の部屋に入って行く姿なんて久しぶりに見た。
ぴしゃりと合わせ扉が閉まる。
私は玲奈さんから借りたクレンジングオイルのボトルを握ったまま固まった。
そのまま10分くらい呆然としていたけれど、航さんは戻ってこなかった。
それはそうだ。おやすみのキスをされたのだから。
『凛さん、捨てられたりして』
玲奈さんの昼間の言葉が耳の奥で再生される。
(……髪の毛を切っただけで?)
流石にそんな訳ないとは思う。思うけれど、あまりのことに呼吸が浅くなって胸が苦しくなるのを感じた。
お風呂に入っても、寝支度を整えても胸のゴロゴロが取れない。
ベッドに入るとひんやり冷たかった。航さんの部屋からは物音一つしない。
一人で寝るのなんて、航さんの出張以来二週間ぶりだった。
「ふえ……」
なんだか、涙が出た。
航さんに触れてほしい。くっついて安心したい。抱きしめてほしい。
(……捨てないで。)