完璧主義な貴方の恋のお相手は、世話が焼けるくらいがちょうどいいでしょう?
"シェリー・コールドウェルは、黙っていれば妖精のように可憐で美しい。"
最初にそんなことを言い出したのは一体誰だったのだろうか、それはもしかしたら彼女の祖母だったような気がする。
"明日は新しいドレスを仕立てに行く"
夕食後にそのことを聞かされたシェリーはすっかり意気消沈していた。
シェリーは幼い頃から生傷の絶えない子どもだった。年頃の女の子たちが好みそうな刺繍や人形遊びよりも、近所に住む幼馴染たちと森へ入って駆け回るのが大好きで、流行りのドレスにはまるで無頓着。
よく言えば天真爛漫、悪く言ってしまえばお転婆。幼い頃は父も『元気なことが一番だ』と言っていたが、コールドウェル家にとって、その概念を覆すようなことが起こってしまう。
それがオリビアの婚約だった。ある舞踏会で美しく聡明なアーチボルト伯爵に見染められたオリビアは、女の子なら誰もが一度は憧れるような熱烈で夢のようなアプローチを受け、結婚の約束を交わした。
両親は妹のシェリーにも、同じように素敵な男性と出会って幸せな家庭を築いて欲しいと願っているし、それが叶うと信じている。
その為にも、社交界デビューまでに立派なレディとしての振る舞いをシェリーに叩き込もうと張り切っているのだ。選ばれる女性になるために。
本当は社交界に参加することが楽しみだった。姉のオリビアの着飾った姿を見て誇らしい気持ちで見送った。しかし、いざ自分の順番が回ってくると憂鬱な気持ちになった。
「ねぇ、リチャード。ドレスなんてこの前着たものと同じではだめなの?」
この前、と言うのは数ヶ月前に開かれた正式なデビュー前の小さな晩餐会のことだろう。
「いけません。これは"本番"ですから」
ぴしゃり、と言い返すとシェリーは口を尖らせた。
「だって、あのドレスを仕立てるのだって何回採寸してもらったことか……貴方にはわからないでしょうけど、結構辛いのよ」
ドレスの仕立てはマダム・ジュリアが行うことになっている。
彼女は町一番の仕立て屋で、王族御用達でもある。ただし、腕は確かだが完璧主義が過ぎるのだ。
それが世の女性たちから絶大な支持を受けている所以でもある。令嬢たちのオーダーを聞きながらも、本人にそれが似合うかどうかを厳しくチェックをする。似合わない場合はマダム・ジュリアの助言に従うか、化粧や体型、合わせられるところを合わせていく。
忖度なしで歯に着せぬ言動は側から見ていると痛快なのだが、実際助言を受けている本人はたまったものではない。ドレスが完成すれば全員が満足して帰るのだが、そこに辿り着くまでの過程は過酷だ。
シェリーももちろん例外ではない。リチャードも何度も付き添っているので、シェリーの気持ちは痛いほど理解できるし、同情もしていた。
「……面倒なことは聞き流してしまってもいいのです。マダム・ジュリアも意地悪で言っているわけではありません。舞踏会を最高の状態で迎えてほしいのでしょう。今は聞き入れられなくても、いずれ役立つことがあるかもしれませんよ」
リチャードはそう言ってシェリーを励ました。
そう、マダム・ジュリアは決して若い女性たちに意地悪をしたく嫌味を言うのではない。彼女たちの魅力を最大限に引き出そうとしてくれているのだ。自身が仕立てた最高の自信作を、一番美しい状態で着てほしいと思っている。
リチャードは彼女の辛辣な意見に辟易しながらも、美容に関する助言は参考にしていた。素肌が美しいことが一番だということ、手袋を外しても美しいように指先まで手を抜かないこと、白目や歯を白く美しく保つことが一番上品だということ。
リチャードはマダム・ジュリアの小言を大人しく聞いているシェリーの横で丁寧にメモを取っていた。
(コールドウェル家の皆様……マックス様を失望させてはならない。なんとしてでも、お嬢様を立派なレディにしてみせる。それから必ず良家の御子息……または容姿端麗で紳士的な男性を引き合わせてみせる)
リチャードはやる気に満ち溢れていた。マックスはリチャードを信頼して大切な愛娘を任せてくれたのだから、その気持ちに応えなくてはならない。
「マダム・ジュリアのことは好きよ。ただ、人形みたいにじっとしているのが辛いの。ウェストをぎゅっと絞ったり、首元にレースを何枚も当ててどれが似合うか見るの……その間は少しも動かないように言われるのよ。ねぇ、ほら見て。こうやって手袋だけ新しくしたら、この前のドレスってわからないんじゃないかしら?」
シェリーはそう言うと、さっきまで着けていた黒いレースの手袋を外すと近くにあった白いサテンの手袋に付け替えた。
「わかりますよ。まったく……とにかく、明日は午後からドレスを仕立てる予定ですからね」
今日はもうゆっくり休んでください、リチャードはそう言って部屋を出ようとした。
「眠れないから刺繍をしようかしら」
シェリーはそう言って置きっぱなしにしていた裁縫箱を取り出した。リチャードは慌てて制した。
「いけません、貴方はすぐに自分の手まで縫ってしまうでしょう。この前刺した傷もせっかく治り掛けているのですから……」
手袋を外した指先まで美しく、マダム・ジュリアの言葉に感銘を受けたリチャードはこれを実践していた。それまで裁縫は花嫁として必須だと思ってシェリーに(無理矢理)勧めていたのだが、今は遠ざけている。
元々裁縫は好きでははずなのに、どうして心変わりしてしまったのだろう。リチャードは再びシェリーの気が変わる前に置いてあった裁縫箱をできるだけ遠くへ片付ける。
「……全部ダメっていうのね」
「そうですよ。お嬢様が一度も指を針で突き刺さないとお約束できるのでしたら構いません。一度でも『痛っ』と言う声が聞こえたら、生涯針を持つことを禁止しますよ」
本来ならば、刺繍などの針仕事も花嫁修行としては大切なことであるのは確かだ。
数ヶ月前にあのシェリーが刺繍をしたいと言い出した、コールドウェル家が騒然としたものだった。マックスは娘の思いがけない成長に涙を浮かべて喜んでいた程だ。
しかし、みんな失念していたのだ。彼女の不器用さを……。
リチャードもはじめた頃は微笑ましく見守っていたのだが、あまりにもシェリーが指を怪我するのでとうとう取り上げることになったのだ。
(放っておいたらきっと指を縫い付けていただろう)
今思い出すと、少し可笑しくなった。
ふっと小さく思い出し笑いをするリチャードだったが、シェリーは機嫌を損ねたのかとふいっと窓の方を向いてしまった。
「……しばらくの我慢です」
「本当の私を好きになってもらわなきゃ、きっと意味なんてないのにね」
シェリーは溜息混じりにそう言って笑った。その横顔は少し寂しげに見えた。
「……最初は肝心ですから」
ダイヤモンドと同じだ。価値がどんなに素晴らしくとも、光り輝かなければただの石と変わらない。
ーー本当の貴方を知ったら、きっとみんな好きになる。
それをうまく伝えられずに、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「……それは?」
「私も自分のイニシャルを刺繍してみようと思って。お守り代わりにね」
シェリーはそう言って白いレースのハンカチを広げてみせた。どうやらこのハンカチに自分のイニシャルを縫い付けたかったらしい。そういえば、この頃女性たちの間でハンカチのついたイニシャルを持つとお守りになると聞いたことがある。
「貸してください」
リチャードはハンカチを受け取ると、胸元のポケットから細い銀縁の眼鏡を取り出した。
「……なかなか上手に縫えていますね」
それは、まるで子どものイタズラ書きのようなガタガタの線で、リチャードは思わず吹き出した。
「今それを見て笑ったじゃない、知ってるのよ」
「いつも微笑みを絶やさないのが紳士ですから」
「なにが紳士よ、返して」
リチャードはまだ笑みを浮かべばがら、シェリーにハンカチを取られまいと腕を高く掲げた。
その仕草が自分でも子供っぽく思えて、リチャードは小さく咳払いをした。
裁縫箱を取り出すと、リチャードはいつになく優しい声で囁くように言った。
「お嬢様は少しせっかちなのかもしれませんね。こうして、ゆったりと針を進めるのです」
リチャードはシェリーの縫い跡を解くことなく、沿わせるように修正していく。
最初から解いて縫い直した方が楽だっただろうに、そうしなかったことがシェリーは嬉しかった。
ほんの数分であんなにスカスカだった"S"が形になってくる。
「すごいわ……貴方って何でも出来るのね」
そう言うと、リチャードはまったく謙遜する風でもなく、当然ですと言って自慢げに笑った。
「慣れですよ、色々なものを試しに作ってみればいいんです。完璧じゃなくてもね」
完璧じゃなくてもいい、彼がそう口にしたのが意外だった。神経質なくらいの完璧主義者だと思っていたから。
眼鏡を掛けたリチャードを見慣れないせいだろうか、まるで知らない人と話しているような気持ちになる。
彼の長い睫毛が頬に影を落としている、こんなに近くで彼を見たのは始めてだった。
「……ですが、今はいけませんよ。これは私が仕上げます」
「そんな、貴方だって忙しいでしょう」
「針仕事は好きですから、大丈夫です」
思いがけない申し出にシェリーが戸惑っていると、リチャードは優しく微笑んだ。
「舞踏会が成功するように、私が気持ちを込めて縫います。それもお守りになるでしょう」
「リチャード……ありがとう。貴方には迷惑ばかり掛けているわ」
「なんです、急にらしくない」
リチャードは心の底から驚いたようで、心配そうにシェリーを見つめた。
「もし……もしもね、舞踏会でうまくいかなくても、」
「何をおっしゃいますか……!」
リチャードは、声を荒げて眉を顰めた。
(あら、いつものリチャードに戻ってしまったわ)
貴方の所為じゃないからね、と言いたかったのに。彼は一切聞く耳をもったいないようだった。
(それもそうよね、もしも舞踏会が上手くいかなくて結婚相手に押し付けられた嫌ですものね)
「……お嬢様は何も心配しないで、ゆっくりお休みになってください。寝不足はお肌に良くない」
下がったままの眼鏡から視線だけを上げると、すっかりいつも通りの真面目な顔で言い聞かせるように言った。
「ええ、そうするわ。おやすみなさい、リチャード」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
部屋を出る前に、そっと彼の真剣な横顔を盗み見た。蝋燭の灯りがゆらゆらと優しく揺れている。
「ありがとうね」
シェリーはその横顔に向かって小さな声で呟くと、静かに部屋を後にした。きっとリチャードには聞こえていないだろう。
「……どういたしまして」