サヨナラをいいにきたんだ。

プロローグ 「はじめまして」

 知り合いが居ないと身辺整理が楽だ。
 さよならを言う必要がないので、私は心置きなくこの世界と『さよなら』できる。

 ……はずだったのに。

 私は今、縁もゆかりもない雑居ビルの屋上で腰くらいまである柵を乗り越えたにも関わらず、未練たらしくも飛び込むべき方向に背中を向け、柵を握る手にこれでもかと力が入り、微笑を続ける膝をどうにも出来ないでいた。
 時折、振り返って下を見下ろしてみては深呼吸。これを何度繰り返した事か。
 情けない。今更、何をためらおうというのか。親兄弟も友達もいない、学校は随分前から行ってないし、もう住んでいた家も物も全て引き払ったのだ。戻る場所はないのだ。
 なのに、この柵を掴む手には今も思いっきり力が入り、離れる気配が微塵もないというのは一体どういう事だ。死ぬ、と決めてからは今の今まであんなにスムーズだったのに。
 もう一度、深呼吸。今度は空を見上げる。天気は快晴、障害が何一つない夏の青。
 もし今、世界が逆転してこの底が知れない紺青の彼方に飛び込むのだったら、体中に行き渡るこの余計な力も少しは抜けるのかな。なんて考えてしまうほど私はもうどうしたらいいのかわからなくなっていた。

 彼らと出会ったのはそんな時だった――――。

「おーおー間に合ったようじゃぞ!」
 勢い良く開いた入り口のドアからセーラー服を着た中学生? くらいの女の子が飛び出し、真正面にいる私を指差す。
「ちょっと待て葵(あおい)。そんな登場の仕方したら驚いて飛び降りちゃうかも知れないだろ?」
 その後ろから茶色いスーツ姿の青年が申し訳なさそうな顔でスッと現れた。
「そんなわけないじゃろ? こういうのはそれくらいじゃ死なんよ。覚悟が決まるまで相当時間がかかるタイプじゃ。そんなのも見抜けんとは、千雨(ちさめ)もまだまだヒヨッ子じゃのう。よーく見ておれ」
 覚悟が決まるまで相当時間がかかるタイプ。という言葉が完全に的を得ていて、私の心のど真ん中にグサリと刺さった。少女はそれを見透かしているような顔で私と視線を交わらせた瞬間、少女と私の間にあったはずの十何メートルを一気に詰めた。
 その身のこなしの早さはまさに疾風そのもので、私は『来ないで!』なんて言う暇はもちろん、考える隙すら与えられず、正真正銘「あっという間」に私と少女は柵を挟んで向かい合う形になってしまった。
「ほほう。これはなかなか。恵まれた顔立ちをしておるではないか。これだけのアップにも耐えられる顔はそういないぞ?」
「な、なによあんた? ちょっとどっか行ってよ」
「ふん。調子に乗るな。それでもワシの美貌の千分の一にも満たぬわい」
 葵? と呼ばれていたか。その中学生のような風貌に似つかわしくない言葉遣いが違和感満載の少女は至近距離でフンと鼻で笑う。栗色のショートカットが風に揺れても尚、そのバカにしたような顔は崩れない。どうやら話が噛み合っていないらしかった。
「まぁまぁ葵。今は美人度対決をしている場合じゃないだろ?」
 パッと目線を上げると、スーツの男がいつの間にか少女の後ろに立っていた。私はその男と目が合ってしまい、心の奥底で何かが沸き立つ感覚を覚える。
 何だろう。この人達。
 特にこの人。年は二十、三十代? なのに白髪と言うよりは銀色の髪という奇抜な出で立ち。細身の体にクラシカルな雰囲気のスーツはよく似合っていて、何よりその愛らしく優しい笑顔は目が離せなくなる。
 ……かっこいい。かも。
 いや、何だろう。ちょっと違う。この感覚はイケメンに出会った時の得した気分と言うよりかはもっとこう普遍的な……
「……初めまして春乃ちゃん。僕の名前は千雨。千に雨でちさめって言うんだ」
 そしてこの子は葵。と千雨さんは少女の頭を撫でる。少女はその手を振り払って、子供扱いするなと今にも噛み付来そうな具合に歯をガチガチ言わせながら、後ろに振り向いた。
 何だろう。この状況……
 これは一体全体どうしちゃったのかな? 私はここで何をしているのだろうか?
 あれ? って言うか私、名乗ったっけ?
「おい。小娘」
 不意に少女が振り向く。歯はまだガチガチ言わせていた。
「とにかく柵の内側に入れ。でないと貴様をこちら側へ叩き付ける事になる」
 柵を握りしめていた私の腕を掴んでニヤッと笑った。どうやら今の所、私に選択肢はないらしい。
 気付けばあれだけガチガチに固まっていた体も、とうに力が抜けていた。
 ともあれ、私はこの葵という少女のおかげでめでたく現在も生きている。まぁ生きたくなったとかではないので、かろうじてって感じだが。
 それでも、こんな屋上の中央で隣同士に座る見知らぬ男と少女に向かい合って体育座りをしているようではまだまだ死ねそうにないだろう。下手すりゃ今日はこのまま中止だ。
「まぁそんなに畏まらないで。僕の事は千雨。この子も葵って呼び捨てで良いからさ。気軽に呼んでよ」
 私が、こうし外で体育座りをしていると何となく運動会を思い出すなぁなんて思っていたら千雨はどうでも良い事を言いだす。どうでも良いくせに頭の中では言う通りに呼び捨てにしてしまっているから少し悔しい。
「白いポロシャツにその灰色のプリーツスカートは制服だよね? テニス部だったりする?」
 千雨はさらにどうでも良い事を話し続けた。ちゃんとどうでも言いと伝えるべきなのか。私はこういう時、いつもどうしたらいいのか分からない。分からなくて返事の方向性を考えている内に大抵、勝手に他の話へ移られてしまうのだ。
「ふん。死のうとしている者が日曜に制服とはな。何とも滑稽じゃの。それに貴様、薄化粧までしておるではないか。もしかして本当は自殺ではなくそこら辺でスカウトでもされようと思っていたのではないか?」
 私が答える前に話を変えたのは葵だった。しかも何となく気にしていた事を気兼ねなく言って来る。いちいちグサッと来るのも腹が立つけど、何よりその見透かしておるぞと言った表情がイライラした。
「……制服は。別に死ぬのにお洒落するのもなって思ったらこれが一番無難だったのよ。あと化粧は習慣。あとは……自分でもおかしいとは思うんだけど、どうしてもスッピンで町を歩く気にはならなかっただけ。ここに来るまでの道のりですら人の目を気にしている自分が嫌になったけど、性格なのよ。仕方ないじゃない」
 一応、本心。こうしてド直球に核心めいた事を聞かれると何だか答えやすかった。不思議。
 雑居ビルは十階建て。
 回りにも色んな建物が建っているけど、大体ここと同じくらいの高さか、それより低いので何となく見晴らしは良い。そして風が強い。こうして向かい合う私たちの間にもビュウビュウ吹き荒ぶ。おかげで三ヶ月前に前に切ったきりなだけのなんちゃってショートボブもボッサボサになっている。気がする。少なくとも目の前にいる二人の髪の毛を見る限り。
 葵の髪はなびいているだけだけど、千雨は風向きが変わると一気にオールバックみたいになる。みたいに、と言うのは若干眺めの髪の毛が災いしているのか、まるでどっかのおばちゃんみたいだった。
 そうなると少しだけ笑いが込み上げて来る。
 でも、笑わない。ぐっと押し殺す。習慣で髪を治そうとする手を意識的にじっと動かさないように無理矢理留める。
 気にしないフリは昔から得意だった。
「まあどうでも良いがの」
 葵は私のセリフを先に述べた後、隣の千雨に目で合図を送る。すると、またオールバックおばちゃん状態になった千雨が真剣な表情で口を開く。
「実は俺達。人間じゃないんだ」
「ぶはっ!」
 吹き出す。これでもかってくらいの瞬発力で吹き出してしまった。
 面白すぎた。久しぶりに笑わされた気がするってくらいにストライク。
 そんな姿で「人間じゃない」なんて言われたらきっと誰だって笑うと思う。なんちゃってオールバックおばちゃんはこれでもかってくらいに真剣な顔で言うもんだから更に面白い。
「うーん。どうしたらいいのかな?」
「ほっとけ。多分、千雨の髪型が間抜けなのじゃろ。どっかのババアみたくなっておるぞ」
「え? 本当か?」
 千雨はワシャワシャと髪の毛をかき分けて押さえた。それを笑いながら見ていた私はようやく心を落ち着かせ、頬を二回叩き居直る。と言っても、あれだけ爆笑してしまった後なのだから急に真剣な表情をする訳にもいかず、上手く表情を浮かべられない。
 何だかぎこちない事この上なかった。
「あー。もう大丈夫かな? えっと何て言おうか?」
「もう良い。ワシが説明する。よいか小娘。わしらは人間ではない。しかし、元々人間ではあった。そして今は仕事でここに来ておる」
 葵の説明はことの外、手短だった。説明のおかげで更にややこしくなると言うのは教えるのが苦手な証拠だ。この子はきっとそこまで頭が良い訳ではないのだろう。
「あ、あの。いくつか質問……いいですか?」
「申せ」
 フンと腕組みをしながらふんぞり返る。どうして初対面の相手にここまで偉そうに出来るのだろうか。明らかに年下のくせに。いや、こういうのは年齢関係なく初対面なら誰に対しても礼儀正しくいくものではないのだろうか?
「ははは……はい」
 イライラを押し殺すようにして空笑い混じりの返事が精一杯。ここまで癇に障る女の子も初めてだった。しかし、それでは話が進まないのでそのまま質問へと移った。
「まず、あなた達は一体何で私の所へ来たの?」
「……まぁ。そうじゃの。ここは職業病とでも言っておこうかの」
「はぁ。じゃあその仕事って何?」
「弁離人じゃ」
「べんりにん?」
 聞き慣れない職業だ。私は首を傾げて腕を組む。頭の中には便利屋さんしか浮かんで来ない。その事だろうか?
「ちなみに正式名称は弁離士だよ。弁護士は分かるよね? それの護るを離れるに変えた字を書くんだ」
 弁離士。か。何それ?
 千雨の説明で字はわかったけど増々聞き馴染みがない。どころか全く知らない。国家資格とかあるのかな?
「弁を以て離を成す者。と言う意味じゃよ。高校生には早いかの」
 葵の態度は増々、ふてぶてしくなる。意味ぐらいはわかるっつーの。
 いや、良く分からないけど。
「ようするに何をするのよ。あんた達は。もっと具体的に言いなさいよ」
 私も少し上から目線で話してみる。こんな中学生にムキになるのも大人気ないが、このままやられっぱなしも女子高生の名が廃る。
 でも、千雨はそんな私を微笑ましいといった大人の表情で見つめると、右手の人差し指をピンと立てた。
「別れの言葉を言わせてあげる仕事だよ。それも色んなパターンがあるからこういうざっくりとした言い方しか出来ないんだけどね。でもその相手は死ぬ、もしくは死んだ人間ってのだけは決まっているかな」
「ざっくり……って言うか。やっぱり良く分からないんだけど」
「うーん。だから、死ぬ時にお別れが言えなかったら未練が残るだろ? そうするとその死んだ人はどうなると思う?」
「成仏……できない?」
「正解。もっと言うと地縛霊になる。僕らはそうなる前にしっかり未練を無くしてあげたり、もちろん地縛霊の未練も無くしてあげたりして、この世界と霊を切り離しバランスを安定させるお仕事をしているのさ」
「さながら世界の掃除屋さんじゃな」
 二人はとても満足気に胸を張った。全く、荒唐無稽な話ではあるけれど、まぁおかげで弁離士の仕事内容は分かった。要は地縛霊を消したり、地縛霊になるのを防いだりする陰陽師みたいなものだろう。使う術が『別れの言葉を言わせる』という現実じみたものであるだけで、やっている事は全く持ってファンタジーだ。
 私は髪の毛をグシグシと治して千雨に視線を向けた。
「じゃ次ね。あなたは……あなた達は幽霊なの?」
 私の質問に千雨は首を振る。
「僕たちの存在はもう少し複雑なんだ。物事って言うのはそんな単純に出来ていないんだよ」
 千雨は笑っているけど、私は確信した。

 ……うん。こいつもムカつく奴だ。

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