恋愛下手の恋模様~あなたに、君に、恋する気持ちは止められない~
私は思わず体を引いた。こんなに近い距離で、そんな風に見ないでほしいと思った。せっかく落ち着いていた鼓動が、また暴れ出しそうになる。

「あの、何か……?」

「あぁ、いや。もしかして宍戸ってさ」

何かを口に出すことをためらっているような補佐の様子に、私は首を傾げた。どうして今、宍戸の名前が出てくるのか、不思議だと思った。

しかし補佐は私の怪訝な表情に気づき、話題を変えた。

「ところで今日の会議資料の準備、大変だっただろう?お疲れ様」

「いいえ、そんなことは……」

資料の依頼者は補佐ではなかったが、こんな風に労いの言葉をかけてもらえたことが嬉しかった。こういう一言があるのとないのとでは、やる気というものが違ってくる。仕事に厳しい人と言われているようだが、こういうところが補佐の慕われている理由の一つなのかもしれないと思った。

「あの、補佐も頑張ってください」

何か言いたくなって、ついそんな言葉を口にしてしまったが、すぐに後悔した。補佐は経営陣にも目をかけられているような会社のエースだ。そんな人に向かって、今の言い方は失礼だったかもしれないと思ったのだ。

しかし補佐は微笑んだ。

「岡野さんも、今日一日頑張ってね」

そう言われてほっとする。

「はい。ありがとうございます」

「それじゃあね」

補佐はそう言って背を向けようとしたが、動きを止めて私を見た。

見つめられて動揺する。

目を逸らせずにいる私に彼は言った。

「――またね」

補佐は振り返ることなく給湯室を出て行った。

彼の背中が視界から消えた途端、私は深いため息をついた。

朝から密度が濃すぎる――。

去り際の補佐の一言は、私の耳と心に甘い余韻として残った。胸が息苦しいほどに高鳴る。

またね、なんて言われると、期待しそうになる――。

補佐が私に与えて行った甘い動揺は、なかなか収まらない。表情を引き締めるのに手間取って、私は給湯室からなかなか出て行くことができなかった。
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