恋愛下手の恋模様~あなたに、君に、恋する気持ちは止められない~
うん、お疲れ様――。

補佐からそんな言葉が返ってくるだろうと思っていた。ところが彼は言ったのだ。

「この後、約束とかある?」

予想していなかった言葉に驚いて、私は思わず補佐の顔を凝視してしまった。

「え?」

彼は頬を指先で軽く掻くような仕草をして、こう続けた。

「もし何もなければだけど、晩飯に付き合わない?」

「でも……」

その誘いは飛び上がりたくなるほど嬉しいのに、即答できない。

私の困惑を察した彼は、その言葉をすぐに撤回した。

「急に迷惑だったよね。ごめん、今の忘れて」

「いえ、そうじゃないんです」

私は首を大きく横に振った。

「迷惑なのではなくて……」

この誘いに頷いてしまったら、補佐に対して期待が生まれてしまうと不安になった。彼にとっては部下あるいは後輩とのただの食事に過ぎなくても、私にとっては特別な出来事だ。

補佐は私の返事を待っている。

こういう場合、何も考えずに素直に喜びを表した方がきっと可愛いし、相手も嬉しいと思う。頭では分かっているがそういう反応ができない。早く早く、と思っているうちに余計に焦って言葉が出てこなくなる。

だからその音が鳴ったのは、絶妙なタイミングだった。ぐるぐると考えこんでいた私を止めるかのように、それは盛大に鳴った。

キュルキュルキュル――。

私は瞬く間に赤面した。そんなことをしても意味がないのに、補佐の目から隠すように自分のお腹に手を当てる。

恥ずかしすぎるでしょ……。 

私の様子に補佐は目を瞬かせたが、笑いたいのを堪えるように口元に手を当てた。

「お店、どこでもいい?」

私は耳まで熱くなりながら、今度こそ素直に頷いた。

補佐が連れて行ってくれたのは、私自身も以前から気になっていた居酒屋だった。

元々は旅館を経営していたという夫妻が諸々の事情でその旅館を畳み、心機一転始めた居酒屋だと聞いたことがある。何と言っても女将が作る料理がおいしいとの評判だった。

店内にはテーブル席が四つと、四人も座ればいっぱいになるカウンター席があった。女性好みの雑貨が飾られた清潔感ある店内の様子に加えて、夫妻が醸し出している雰囲気が好ましい。
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