繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
 向井は気まずそうな表情で、後ろ頭に手を置く。

「適職とは思ってないけど、辞める理由もなくてって感じかな」
「まあ、そうですよね。可もなく不可もなくって感じの会社ですし」
「仕事で何かあるの?」

 不満があるんだろうか。向井の口ぶりからそんなふうに感じて問うと、彼は周囲をサッとうかがって、声を押し殺す。

「転職しようかって思ってるんですよ」
「そうなの?」
「今すぐにって話じゃないですけどね。今の勤務形態なら、もっと条件のいい会社に行ける気がするんですよね」
「それはそうかも。向井くんは優秀だから」

 ようやく信号が青に変わって、奈江はホッとしながら歩き出す。

 悩み相談だったら、苦手だ。あたりさわりのない返事しかできない。自分の言葉が相手の人生を左右させてしまう責任は、自分には重たすぎる。

「人生の転機って、何回もあると思うんですよ」

 横断歩道を渡りながら、彼はなおも話しかけてくる。

「転職がいい転機になるならいいよね」
「ですよね。あ……、なんか、すみません。こんな話。当分まだいますから、全然大丈夫ですから」

 何が大丈夫なのかわからないが、彼なりに気をつかったのだろう。気まずそうに髪をかいて、口をつぐむ。
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