繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
***


「ごめんなさいね。いま、店のものは留守で」

 吉沢らんぷを訪れた奈江を出迎えたのは、年輩の女の人だった。

 彼女はいきなりそう言うと、手に持っていたバインダーを作業台の上へ無造作に置く。

 そのバインダーにはさまれた用紙には、エミールガレの名や、美術品の値段と思われる数字がずらりと並んでいる。めくれ上がった一枚を、ぺらりと戻す彼女の指先に、不動産の文字が見える。これは、財産目録じゃないだろうか。

 見てはいけないものを見たような気がして目をそらすと、女の人はバインダーを伏せ、柔らかな笑顔のまま、観察するように見つめてくる。

「もしかして、早坂奈江さん?」
「そうですけど……」

 面食らいつつ、おずおずと言うと、彼女はうれしそうに手を合わせる。

「やっぱり、奈江さん。環生からお話は聞いてます」

 秋也ではなく、環生から?

「あっ、もしかして……」
「そうなの。遥希と環生の母の、吉沢みどりです。どちらかというと、奈江さんは遥希の知り合いなのよね? 生前は遥希がお世話になったそうで」

 みどりと名乗る遥希の母は、丁寧に頭をさげる。奈江もつられておじきをすると、彼女はどことなく満足したような表情をする。環生の知り合いとして、合格点をもらえたような気分だ。

 しかし、彼女はなぜ、名前を知っていたのだろう。戸惑う奈江に気づいて、みどりが思い出したように言う。
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