繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
「あっ、秋也くんと約束よね? 彼、仕事で近くに出かけてるんだけど、もうそろそろ戻ると思うわ。奈江さんが来たら、奥に案内するようにって言われていて……って、言ってる先から帰ってきたみたい」

 店の裏から自動車のエンジン音が聞こえたあと、程なくして、作業着姿の秋也が生成りのカーテンの奥から現れる。裏口から帰ってきたようだ。

「秋也くん、たったいま、奈江さんがいらしたわ」

 秋也はみどりに礼を言うと、奈江に向かって経緯を手短に話す。修理見積もりの依頼が入り、しばらく店を留守にするからと、奈江に連絡を入れようとしていたところにみどりが訪れ、店番を頼んだのだと。

「みどりさんも何か用事でしたか? 話も聞けずに出かけたので、申し訳なかったです」
「ああ、私? 気にしないで、目録作りにきただけだから」

 みどりはふたたび、バインダーを手に取ると、秋也の方へよく見えるように差し出す。

「目録って、遺言書でも作るんですか?」

 やはり、さっき目にしたのは、財産目録だったようだ。

 冗談まじりに秋也は軽口をきくが、わりと真面目な表情でみどりが言う。

「贈与よ。秋也くんに譲り渡すもの、全部。なかなか、うんと言ってくれないから困ってるんだけど」
「みどりさん、早坂さんがいるから」
「特別な関係だって、環生から聞いてるわよ?」

 意味ありげな目を向けられて、奈江が困惑していると、秋也が苦笑いする。
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