繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
 国立大学へ進学した優秀な兄と違って、進学校へ進学しなかった奈江に母の風当たりは強く、伯母の骨折を理由に外泊できたあの夏は、奈江にとってもっとも特別な夏だった。

「1時間ぐらいで着けると思う」

 伯母が怪我したと聞いては黙っていられない。奈江はすぐにバッグをつかむと、ティーシャツにジーンズという普段着のまま、アパートを出た。

 奈江はあまりおしゃれをしない方だ。最低限のお化粧と、肩より少し伸びた髪を一つに結ぶぐらい。これでは恋人もできないはずだと内心わかってはいるが、恋人がほしい気持ちも今のところはなく、改善する気持ちがないのも実情だ。

 アパートのある佐羽(さわ)から、伯母の暮らす大野(おおの)へは、電車で二駅。伯母にはああ言ったが、1時間とかからず着くだろう。

 案の定、奈江が伯母である前橋(まえはし)康代(やすよ)の自宅に到着したのは、電話をもらってから30分後だった。「早かったね」と笑顔を見せてくれた康代には白髪が生えており、奈江の記憶にある彼女よりも歳を重ねていたが、元気そうに見えた。

「病院は行ったの?」

 杖をつきながら足を引きずって歩く康代の背中に声をかける。
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