繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
 康代はゆっくりと廊下を進み、台所に入っていく。奈江をもてなそうとしてくれているのだろう。彼女はグラスに冷たい麦茶を注ぎ、水ようかんを洒落たガラスの皿に乗せながら、ようやく返事をする。

「一週間ぐらい様子見てくれって」
「ねんざ?」
「玄関の段差でつまづいてね。もう歳だから」

 康代は奈江の実母と年が離れているが、老いるにはまだ早い。玄関の方へ顔を向ける彼女の視線を、奈江も無意識に追いかける。かつて、マメがいた玄関は、きれいに片付いている。マメがいなくなったのは、3年ほど前だったか。

 あのときは奈江がすぐに駆けつけ、ふたりで身を寄せ合うようにしてマメとの別れを惜しんだ。子どものいない彼女にとって、マメは娘のようなものだった。悲しげな康代の小さな背中はいまだに覚えている。

 マメの葬儀を終えたばかりの伯母に向かって、母が「新しい犬、飼ったら?」となんでもないように言ったとき、康代は「最後まで面倒見れるかわからないから」とやんわりと答えた。元気のない伯母を励まそうとしたのであっても、母の提案は無神経だと、腹立たしく思ったことを覚えている。

 あれから、新しい犬は飼っていない。康代はもう、マメ以外の動物を飼うことはないだろう。少しばかり老け込んだのは、マメのいないさみしさからだろうか。
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