繊細な早坂さんは楽しむことを知らない
***


 パソコンを落として、帰り支度を始める。今日も一日、ミスなく無事に終わった。

 普段は周囲に気を配りながら会社を出ているが、今日は秋也との約束があって、多少浮かれていたかもしれない。

 ロッカールームで着替えを済ませると、これから横前駅に向かう、と秋也にメールを送り、ちょうどやってきたエレベーターへ何気に乗り込んで、後輩の向井と目を合わせた途端、回れ右をしたくなったが、こらえた。

「早坂先輩、おつかれさまです。あがりですか?」

 制服を着ていないのだから、見ればわかるだろう。そう思いつつ、奈江は目を合わせずに、「おつかれさま」と小さな声で言う。

 嫌がっている。はためからはそう見えるはずなのに、向井はまったく気にしない。行先ボタンの前に立つ奈江の隣にやってくると、「いやー、今日は大変でしたよ」と、いつものように世間話を始める。

 奈江は上の空でうなずきながら、時々、大変だね、とあいづちを打つ。彼にとっては、奈江が聞いているかどうかより、話すことの方が大切で、話題に事欠かずに話し続けている。

 エレベーターを降りると、向井はぴたりとついてくる。

「向井くん、今日は残業ないの?」

 気になって尋ねると、向井はにんまりする。

「頑張って働きましたからね。久しぶりにはやく帰って、のんびりしますよ」

 およそ、のんびりという言葉が似合わない活動的な彼だが、連日の残業はこたえているのだろう。
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