Runaway Love
 医務室に向かって、バタバタと足音が聞こえたと思ったら、ドアが勢いよく開けられた。

「杉崎っ……!!」

「――早川」

 中山先生の応急処置も終わり、念の為、と、病院に行くように勧められた。
 それにうなづき、先生が早退の手続きをしていると、早川が飛び込んできて、あたしは目を丸くした。
「……アンタ、外回りの途中じゃないの」
「バカやろ!――こんな目に遭ったって聞いて、営業どころじゃねぇだろうが!」
「……誰が連絡したのよ」
 不服そうに、あたしは眉を寄せた。
「――榎本部長からだ」
「――……そう」
 大きく息を吐くと、腕の痛みが全身を駆け巡る。
 顔をしかめると、早川は心配そうにのぞき込んだ。
「おい、痛むのか」
「――……放っておいてくれないかしら」
「バカ言うな」
 そう言うと、早川は、中山先生を見やる。
 すると、先生は、わかったようにうなづいた。
「一応、傷口は応急手当したからね。ただ、病院でちゃんと治療してもらわないと、痕が残るかもしれないから」
 そう言って、書類を出しに、医務室を出て行った。
 それを見送ると、早川は再びあたしに視線を戻す。
「――……詳しい事情、聞いて良いか」
「放っておいてってば」

「――俺が原因なんだろ。聞かせろ」

 さっきとは、うって変わった強い口調に、あたしは、渋々事情を話した。

 いつまで経っても社食に来ないので、野口くんが心配して、外山さんに一緒に様子を見に来てもらったそうだ。
 万が一、何かあっても、野口くんが女性用ロッカールームに入るのは、はばかられる。
 そして――左腕が、血まみれのあたしが座り込んでいるのを見て、すぐに、医務室に抱きかかえて向かってくれたのだった。
 中山先生や、報告を受けて急いで来てくれた大野さんに、詳しい事情を訊かれたが、あたし自身、あんまり良くわかっていないのだ。

 ――わかっているのは、あたしが、早川をもてあそんでいると勘違いされたせいで、こうなったという事だけ。

 けれど、そんな騒ぎは、この平穏な会社でスルーされるはずもなく。

 そして、あたしの治療が終わる頃には、本人が上司に付き添われ謝罪にやって来たのだ。
 その上司とは、榎本営業部長。
 彼女は、営業三課――岩泉(いわいずみ)さんといって、以前、早川の直属の部下だったそうだ。

 あたしの傷は、見た目ほど重傷ではなかったようで、腕からの血は、すぐに止まっていた。
 頬は――まあ、結構な力だったので腫れていたけれど、湿布を貼ってもらっているので、今の状態はわからない。

『この件は、一旦、持ち帰らせてくれ。社長に直接判断を仰ぐ。傷害事件として被害届を出すにしても、会社内の事だからな……』

 榎本部長は、申し訳なさそうに頭を下げる。
 岩泉さんは、終始無言で、うつむいていた。

 ――早川の事を、こんなになるまで、好きだったんだ。

 そう思うと、声を上げて責める気にはなれなかった。

 そりゃあ、切り付けられて、仕方ないとは思えないし、言いがかりのような理由も許せる訳は無い。
 けれど、彼女の気持ちを考えると――訴えようとだけは、思えなかったのだ。

『まあ、自主退職処分になるとは思うが……できれば、穏便に済ませてほしい』

 榎本部長は、そう言って、もう一度頭を下げて医務室を出て行った。
 岩泉さんは――涙目になってあたしを見ると、無言のまま、深々と頭を下げて、部長の後に続いて出て行った。


「――まあ、そういう訳で――……」

 そう説明し終える前に、不意に、早川に抱きしめられた。
 無言のまま、痛いくらいに、きつく。

「――……ごめん」

 耳元で、かすれた声で謝られ、あたしは顔だけを向ける。
「ど、どうしたのよ。……何、しおらしく……」
「ごめん。――俺のせいで、ごめん。――……こんなに傷ついて……痛い思いさせて……怖い思いさせて――……」
「……何、謝ってんのよ。……ごめん、なんて、アンタらしくない。それに、別に謝ってもらわなくても――」
 あたしは、大丈夫。
 そう続けようとしたが、更に腕に力を込められ、言葉は切れる。
「――……バカやろっ……こんな時……まで、強……がるなっ……」
 あたしの肩に顔をうずめた早川は、声を震わせて言った。

 ――……え。

「……早川……?」

 無理矢理に早川の腕から逃れ、その整った顔を右手で包んで持ち上げた。
 その両目からは、きれいな涙がこぼれている。
「――何で、アンタが泣いてるのよ……」
「……見るなよ。……情けねぇのは、わかってるんだから……」
 バツが悪そうに、早川は顔を背けた。

 ――……ああ、あたし、結構、大事に想われてたんだね……。

 そう、素直に思えた。
< 104 / 382 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop