Runaway Love
 午前中は、自分のできる範囲で仕事を進める事にした。
 いつもの速さは期待できないと、みんなわかっている分、気は楽だった。
「ああ、そうだ、杉崎」
「はい」
 伝票をファイリングしている最中、大野さんから声がかかり、あたしは顔を上げる。
「午後から部長が、昨日の件で帰って来るから、お前、一緒に社長室行ってくれ」
「――……はい」
 覚悟はしていたけれど、どう説明したものか。
 あたしは、電卓をいつもの半分の速さでたたきながら、考え続けていた。

 お昼のベルが鳴り、一旦、作業は終了。
 あたしは、社食へ向かおうとする大野さんに声をかけた。
「大野さん、あたし、しばらく部屋(ここ)で食べても良いでしょうか」
 すると、大野さんは苦笑いでうなづいた。
「ああ、まあ、ほとぼりが冷めるまで、避難してろ」
「ありがとうございます」
 あたしは、頭を下げ、ロッカー代わりに置いていた後ろの棚から、バッグを持って来る。
 そして、自分の席で、朝詰め込んだゼリー飲料を取り出そうとして、視線を感じ、顔を上げる。
「――……野口くん?」
 大野さんと外山さんが社食へ向かったので、てっきり彼も行ったものだと思っていたら、自分の席から動かずにいた。
「――……オレも、ここにいます」
「え、大丈夫よ」
「でも……」
 あたしは、首を振る。
「――大丈夫だから。……ちゃんと、栄養あるもの、食べてきなさい」
 まるで、母親のように言うと、野口くんは立ち上がって、あたしの隣に来た。
「野口くん?」
「――……心配、ですから」
 あたしは、眉を下げる彼に、笑って答えた。
「……ありがとう。でも、本当に平気よ。――行ってらっしゃい」

 完全な、拒絶。

 そして、野口くんは、それをちゃんと汲んでくれる。

 少しだけ止まったけれど、彼は、かすかにうなづき、部屋を出て行った。

 あたしは、それを見送り、大きく息を吐いた。
 野口くんにも、悪い事したわ……。
 あの時、あたしを抱え上げて医務室まで連れて行ってくれたのだ。
 きっと、服は血がついてしまっただろう。
 それに――残った仕事も、引き受けてくれていた。
 ――感謝しても、しきれない。

 でも――やっぱり、必要以上に、心配をかけたくないのだ。

 一人きりになった部屋で、あたしは、手元に置いていたゼリー飲料をマスクの下から口に含む。
 殴られた時に口の中を切っていたらしく、沁みてしまったけれど、無理矢理飲み込んだ。
 空いた袋をゴミ箱に入れ、あたしはそのまま机に突っ伏す。
 少しでも寝ておきたい。
 そう思ったけれど、飛んでしまった意識は、みんなが戻って来るまで、戻る事は無かった。

 ――寝ている間、夢を見る事は無かった。
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