Runaway Love
 岩泉さんの傷害事件の件は、結局、事故という形で処理された。
 事情を知っている人間は、揃って、不服そうな顔をしていたけれど――あたしは、これ以上、面倒な事にはしたくなかったのだ。

「杉崎主任、いらっしゃいますか」

 経理部のドアを開けて入って来たのは、総務部の高岡さん。
「ハイ」
 あたしは、データの保存をすると、入り口で待っていた彼女の元へ向かった。
「お仕事中、すみません。労災の手続きの書類、持ってきました」
「そう。ありがとう」
 高岡さんから書類を受け取ると、さっと目を通す。
「付箋が貼ってあるところだけ、記入をお願いします」
「わかりました」
「不明な点は、総務に聞いてください。大体、誰でも知ってますから」
 あたしがうなづくと、高岡さんは、部屋をさっと見回す。
「……どうかしたの?」
「あっ……その……この部屋に入るの、初めてで。ちょっと、物珍しくて」
 アハハ、と、笑う彼女は、何かをごまかしているように思え、あたしは眉を寄せた。
「……何か、あった?」
 そう、あたしが尋ねると、高岡さんは、一瞬、気まずそうに目を逸らし――そして、頭を下げた。
「すみません!……ちょっと、野口さん、見たかっただけです」
「え」
 野口くんは、今、大野さんと税務署へ行っている。
 部屋には、外山さんだけ。
 あたしは、目を丸くする。
「高岡さん……?」
 ――それは、野口くんに、好意があるという事……?
 すると、彼女は、慌てて首を振る。
「ち、違います、違います!あたし、彼氏いますし!」
「え、じ、じゃあ……」
「えっと、その……ミーハー的な……。あたし、結構、男性アイドルとか好きなんで」
 申し訳なさそうに言う彼女に、内心、ホッとしてしまった。
「前に、目の保養、って言ってた……あれ?」
「ハイ!まさか、同じ会社に、あんなレベルの人がいるなんて、思ってもみなかったんで」
 ニコニコと、悪びれもせずに言う彼女に、下心など無いようだ。
「高岡さん、杉崎主任に失礼じゃない?」
 すると、やり取りを聞いていた外山さんが、眉を寄せて、あたし達を見やった。
「ええー、でも、毎日仕事大変だし、ちょっとくらい、癒しがあってもいいでしょー?」
「でも、野口さんは、そういうの苦手だよ。見てればわかるでしょ」
「そっかぁ、残念ー。じゃあ、やめとこうっと」
 あっさりと引き下がる彼女に、あたしは聞き返してしまう。
「え、い、良いの……?」
「だって、本人が嫌っていうなら、ダメでしょう?」
「そ、そうね……」
 あまりにストレートな返しに、あたしはたじろぐ。
「人が嫌だという事はしない。――幼児だって、理解できる事ですよね?」
 その言葉に、深い意味があるのかどうかは、わからない。
 高岡さんは、ニコリと笑うと、部屋を後にした。
「杉崎主任、気にしないでくださいね」
 席に着くと、外山さんが眉を下げて言う。
「大丈夫よ。――ああいう、ストレートなコは、嫌いじゃないし」
「なら、良かった。……高岡さん、結構、敵多いんで」
「――好き嫌い、分かれそうなタイプよね」
 すると、外山さんは思い切り首を縦に振る。
「そうなんです!あたし、同期なんですけど……レクリエーションの時から、真っ二つで。まあ、本人は気にしてないみたいですけど」
「――強いコね」
 あたしは苦笑いしながら、受け取った書類を引き出しに入れた。

 ――……ほんの少しだけ、その強さが、うらやましいと思う。

 ……そして、それは、奈津美も持っている強さ。


 ――……どんなに望んでも――あたしには、手に入らないものだ。
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