Runaway Love
 お昼のベルが鳴り、あたしは、社食に向かう大野さんと外山さんを見送る。
 けれど、座ったままの野口くんは、微動だにしない。
 あたしは、彼に、できるだけ優しく声をかけた。
「――野口くんも、行ってらっしゃい」
「……茉奈さん」
 呼び方が変わるのは、プライベートだから。
「……どうかした?」
 気持ち柔らかい口調で、あたしは聞き返す。
 すると、野口くんは、立ち上がると、あたしの隣にやってきた。

「――……辞表、撤回する気、ありませんか」

 元々、それが理由で、偽装の関係を始めたのだ。
 あたしは、苦笑いを浮かべる。
「――……ごめんなさい……」
「まだ、何かあるんですか。……オレ、人事に訴えます。ここまで来ると、完全にイジメですよ」
 憤る彼に、あたしは、なだめるように続けた。
「……平気だから。――……ただ、みんな、興味本位なだけ。……いちいち本気にしてたら、こっちが疲れるだけよ」
「だったら……辞めなくても……」
 あたしは、野口くんを見上げる。
「――……ごめんなさい。……せっかく、守ってくれてたのに……」
「当然ですよ。……彼氏なんですから」
 その言葉に、首を振る。
「……本当に、感謝してるわ」
 すると、野口くんは、ヒザをつき、あたしと視線を合わせると、ギュッと、あたしの右手を握った。
「……駆くん?」
「――……でも、オレ、別れませんから」
 あたしは、視線を落とす。
 今は、まだ、言わない方が良いだろう。
 仕事中だし、あたしの身の振り方も、まだ決まってない。
 逃げる先が見えなければ、聡い彼に、道はすぐにふさがれてしまう。
「茉奈さん」
 不安そうにしている野口くんを見やると、あたしは笑った。

「ありがと。……ホラ、お昼休み、無くなるわよ」

「――……ハイ……」

 作り笑いに、不安を拭い去る力などあるはずが無かった。

 不本意な顔をしながらも、野口くんは社食へ向かう。
 あたしは、ため息をつくと、机に突っ伏した。
 寝不足のせいか、一瞬で意識は飛び、次に目が覚めると、全員が席に着いていて仕事を始めていた。
「すっ……すみません!」
 飛び起きて見回すと、大野さんが苦笑いで手を振った。
「いい、いい。大して過ぎてもいないしな。――それより、今さっき、部長から電話があったぞ。社長室に行け、だと」
「――え」
 あたしは、一瞬戸惑うが、たぶん、呼び出しなのだろうと解釈する。
 立ち上がり、大野さんにうなづいた。
「……じゃあ、行ってきます」
「おう」
 何でもない事のように送り出してくれるのが、今はありがたかった。

 社長室まで、エレベーターで一瞬。
 あたしは、緊張気味に、自動で開いた扉から箱を出た。
 ここ最近、社長室に来すぎじゃない……。
 そんな事を思いながら、あたしが、社長室の扉をノックすると、すぐに開かれた。
 恐る恐る入ると、ドアのそばにいた住吉さんが、そのまま、視線で中へと促す。
「――……し、失礼します」
 だが、何回も来ているからといって、慣れている訳ではない。
 毎回緊張するのは、当たり前だろう。
「ああ、わざわざ済まないねぇ、杉崎さん」
「いえ。――……あの……」
 あたしは、目の前で、にこやかに微笑んでいる社長に頭を下げると、視線を隣に移した。
 部長も、同席するらしい。
「井本部長にも、一緒にいてもらった方が良いかと思ってねぇ」
 そう言うと、社長は、ソファに、あたし達を座らせた。
 社長も、定位置の上座に座ると、こちらを見やる。

「――で、呼ばれた理由は、わかるかな?」

 あたしは、一瞬、息をのむ。
 けれど、ゆっくりと首を振った。
 すると、社長は、困ったように笑う。
「いや、キミ、辞表出してるでしょ。井本部長のところで止まってるけれど、報告は来ているからね」
「――……申し訳、ありません」
 あたしが頭を下げると、社長は困ったように言った。
「別に、謝るような事、してないでしょ?」
「――ですが」
 一旦、入った会社を辞めるのだから、申し訳無いとは思うのだ。
「まあ、まだ、保留だから。一身上の都合だけで、簡単に辞めさせられる訳ないからね」
「え、で、でも……」
「理由、ちゃんと聞かないと。これまでも、ボクは、辞めていく人たちの話は聞いているんだから。いろいろ問題抱えたまま、はい、さようなら、なんて、できないでしょ」
 あたしは、視線を下げる。
 ――何だか、全てお見通しのような気がした。
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