Runaway Love
 翌日、ようやく、通常に近いくらいに作業が落ち着いてきたので、あたしは、本社から来た便に入っていた請求書処理を始める。
 大野さんから、来週末の期限で送られてきたもの。
 十件ほどだが、今まであたしがやってきたものなので、何のマニュアルも必要無い。
 時折かかってくる電話を取ったり、他の作業をしながら、夕方までに送信完了した。
 すると、すぐに大野さんから折り返しの電話がかかってくる。
『おう、どうだ、そっちは』
「お疲れ様です。……昨日まで、お盆休みの後始末で大わらわでした」
 そう答えれば、中々、豪快な笑い声で返された。
『そうか、お疲れ。――請求書は、今までお前さんがやってたヤツだから、速攻返って来ると思ったぞ』
「データ、飛んだりしてませんか」
『大丈夫だ。心配しなくても、ダメなら、すぐに連絡入れる』
 あたしは、ほう、と、息を吐く。
 やはり、慣れない作業なので、心配なのだ。
 大野さんは、電話の向こうで苦笑いを浮かべているようで、少しの間があった。
『――まあ、そっちも大変だろうが……社長からだ。明日、先に本社に来い、だと』
 その言葉に、ドキリとする。
 ――退職の件だろう。
『工場長には、もう連絡入れておいたそうだ』
 そう言って、大野さんは電話を切る。
 あたしは、受話器を置きながら、息を吐いた。

 ――……このまま……ここにいても良いのなら――辞めないでいたい。

 ここは、思った以上に心地良くて、あたしの中のささくれ立ったものが、どんどん影を潜めていっているのがわかる。
 でも、人事の方で募集をかけているのだから、わがままも言えないだろう。
 あたしは、カゴに追加されていた書類を見やる。
 毎日バタバタと過ぎてはいるが、穏やかな毎日。
 ずっと求めていた日々が――今、ようやく、目の前にある。

 ――なのに……素直に喜べない。

 全部、納得のいく形にならない限り……本当に穏やかな日々は来ないのだと、もう、わかっているから。

 あたしは、書類の山に手を伸ばし、また、作業を再開した。


『――じゃあ、明日、こっちに来るんですね』

 アパートに帰ると、到着したかとメッセージが来たので、今着いたと返した途端、野口くんは電話をかけてきた。
 どうやら、大野さんが話していた内容が聞こえていたようだ。
「ええ。まあ、社長と面談だけでしょうけど」
『――……どうするつもり……ですか……』
 不安そうな声音に、あたしは口元を上げる。

「……ひとまず、交代人員が確保されるまでは、続けるわ。……いつになるか、わからないらしいけれど」

 逃げないと決めた以上、やるべき事は、果たす。

『――……そう、ですか……』

 野口くんは、そう言うと、ほう、と、息を吐いた。
「――……ありがとう。……心配してくれて……」
『当然です』
 キッパリと言い切る彼は、すぐに続けた。
『――でも、ウワサの方は……。あの、受付の女性(ひと)が、まだ、言ってきますから……』
「でしょうね。……まあ、そう簡単には消えないでしょ。……野口くんがフリーにならない限り、続くと思うわ」
 そのために広めているようなものだろうから。
『……なりたくないです……』
 一瞬、電話の向こうの野口くんの表情が浮かび、ギクリとしてしまう。
 けれど、あたしは、ハッキリと伝えた。
「――……ごめんなさい」
 すると、彼は、思った以上にしっかりと答えた。
『わかってます。――茉奈さんに、プレッシャーをかけたい訳じゃありません』
「……ありがとう」
『じゃあ、明日……できるなら、経理部(こっち)、顔出してください。大野さんも、外山さんも、心配してましたから』
「そうね。……わかったわ」
 あたしも、二人には、いろいろ負担をかけているから、会ってお礼は言いたいし。
 お互いに、おやすみ、と、言い合い、通話を終えようとすると、野口くんは、最後に思い出したように言った。
『茉奈さん』
「え?」
『――愛してます』
「……っ……!!」
 まるで、挨拶の延長のようなそれに、あたしが固まっていると、彼は耳元で低く囁いた。
『――時々は、デート、してくださいね?』
「……もうっ……!」
 その意味の中に、色っぽいものが含まれていると感じるのは、きっと、気のせいではないだろう。
 まだ、偽装の関係は続いているのだから、完全に拒否する訳にもいかない。
 それをわかっていて――野口くんは、そう言うのだ。

「――……ホント、ズルいわね……」

 自分の事を棚に上げているような気もするが、あたしは、彼にそうボヤく。
 すると、クスクス、と、笑い声。
『承知の上ですよ』
 そう言って、彼は通話を終えた。
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