Runaway Love

58

 今日は、定時に上がる事ができ、あたしはすれ違う社員達と挨拶を交わしながら、工場を出る。
 すると、門のところに、人影。

 ――もう、それだけで、彼だとわかる。

「――駆くん」

 声をかければ、彼は勢いよく振り返った。
「茉奈さん……」
 若干、戸惑いが入った声で、あたしを呼ぶ。

 ――……ああ、聞いたのか。

 あたしは、何とか笑顔を作り、野口くんの元に向かう。
 路駐していた車に、無言のまま乗せられると、あたしは口を開いた。

「――……おめでとう、主任に昇進ね」

「……茉奈さん」

 暗い空気を振り払いたかったけれど、それは失敗だった。
 野口くんは、言葉少なに返す。

「――……一か月は、長すぎます……」

「――そんな事無いわよ。あっという間でしょ」

 取り繕うようになってしまったけれど、実際、そう思う。
 年を重ねるごとに、時間の感覚が鈍っていくのだ。
 けれど、四、五歳違うと、やっぱり差があるのか。
 野口くんは、無言になると、そのまま車を走らせる。
 窓の外の景色は、明らかにあたしのアパート方面のものでは無かった。

「……ね、ねえ、駆くん、どこ行くの……?」

「――……どこにしましょうか」

「……え?」

 その答えに、あたしの頭の中は、警鐘を鳴らした。
 以前のように、思考がマイナス方向へ向かっているのなら、何とかしないといけない。
 明らかに表情を曇らせている彼を、このままにしておけるはずもないのだから。
 けれど、考えを巡らせてはみるものの、そう簡単に浮かぶはずもなく。

「――……二人だけでいられれば、どんなに良いでしょうかね……」

 野口くんは、ひとり言のように、真っ直ぐに前を見つめながらポツリとつぶやく。

「……駆くん……」

 それは、叶わぬ願いを口にしているようで、あたしは、胸が痛んだ。


 しばらく車は国道を進み、山の方へ向かう。
 このままだと、最終的には海に着くだろう。
 野口くんは、そのまま車を走らせ、大きな海浜公園の駐車場に到着すると、ようやく停車した。
 サイドブレーキを引き、エンジンを切る。
 そして、あたしを見た。
 もう、()の落ちた海は、真っ暗で、公園の街灯だけが、あたし達を照らしている。

「――……茉奈さん……仕事、辞めませんか」

「……え?」

 あたしは、その言葉に目を丸くして返す。
 今の今まで、辞めないために頑張ってきたのに。
「……か、駆くん、何言って……」
「――……辞めて……ずっと……オレの、そばにいてください」
「え?」

「茉奈さん――……オレと一緒に、暮らしましょう」

「――……え……」

 野口くんは、両手であたしの両手を取る。
 そして、真っ直ぐに見つめてきた。


「――……結婚してください」


「――……っ……!!」


 彼の視線から、逃げられない。

 ――あたしは、一体、何を言われてるの……?

 固まった身体は、動く事もかなわない。

「茉奈さん」
「えっ、ち、ちょっと待ってっ……!」
 あたしは、ようやく彼の手をそっと離す。
 言葉に細心の注意を払い、彼に伝えなければ。
「お、おちっ、落ち着きましょ、駆くん!」
「――落ち着くのは、あなたでしょう?」
 クスリ、と、口元を上げると、彼は座席に座り直し、背を預ける。
 そして、視線を落として、自嘲するように言った。

「――……わかってますよ。……言いたかっただけです」

「……駆くん……」

「でも、本心ですから」

 そう言って体勢を直し、あたしの左手を取る。
 そして、そっと口づけた。

 ――薬指に。

「……いつの日か、ここに指輪をはめるのが、オレであってほしい。……そう、思ってますから」

 ああ、もう、何でこのコは……。

 あたしは、浮かんできた涙を見せたくなくて、うつむいた。
 喜びよりも、戸惑いと罪悪感を感じてしまう自分が、嫌で――申し訳無くて。
 ――野口くんは、そんなあたしの、すべてを飲み込んでくれているのに。

「茉奈さん」

 名前を呼ばれ、反射で顔を上げれば、彼のキレイな顔は陰影を濃くして、いつもよりも色っぽかった。

「――愛してます」

「……駆くん……」

 熱を持った視線から逃げられず、そのまま、口づけられる。
 けれど、それはすぐに離され、彼はエンジンをかけた。

「――送ります」

 それだけ告げると、再び、車内は沈黙が流れ続けた。
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