Runaway Love
 部屋に入って、いつものルーティンを終えると、ラグに座ってスマホを持つ。
 時計を見やれば、八時にはなっていない。
 ひとまず、大家さんに連絡して、一か月ライフラインを停めてもらうのと、母さんか奈津美に、部屋の空気の入れ替えのお願いをしないと。
 大家さんには、すぐにつながり、事情を話せば、一か月くらいなら大丈夫との事で、出向の日程を伝えると、明日手続きをしてくれるとの事。
 入社してからの付き合いなので、向こうも気安くうなづいてくれたのは、ありがたかった。
 そして、実家に電話をかけると、母さんが出た。

『――大阪ぁ⁉』

 事情を話せば、開口一番、そう返された。
「……夜なんだから、大声出さないでよ」
『何言ってんのよ!これが驚かないでいられるかい!』
「あたしだって、驚いてるから」
『まあ、部屋の掃除くらい、アタシ達でどうにでもできるけど……』
 そこまで言うと、母さんは急に口ごもった。
「……何」

『……アンタ、そのまま、向こうに住むとか、言わないわよね?』

 出向が決まった時、ほんの一瞬だけ浮かんだ考えは、母さんにも思いつくような事だったようだ。
 あたしは、苦笑いで返す。
「異動じゃないわよ。教育係。……終わったら、また、本社で仕事だから」
『……そうかい。なら、良いんだけどさ……』
 少々弱気な声に、あたしは、いたたまれなくなる。
 ――あたしが年を取ると同じように、母さんも年を取るのだ。
 以前の母さんを思い出し、あたしは、少しだけ目を伏せた。

 来週以降、毎週土曜日に、母さんか奈津美が来てくれるとの事で、ずっとしまっていた、二つ目の家の鍵を棚の貴重品入れから取り出す。
 ――日曜日にでも、渡しに行かないといけない。
 そして、あたしは、大きく息を吐いた。

 ――……岡くんに、伝えた方が良いんだろうか……。

 どちらにしろ、奈津美経由で、伝わるような気もするけれど――。

 あたしは、スマホの電話帳を押し、彼の番号を出した。

 ……やっぱり、直接言わないといけない、わよね……。

 もし、歪曲(わいきょく)して伝わって、あたしが逃げたなんて思われたら、たまったもんじゃないし。
 それは、やっぱり、本意ではないのだ。
 あたしは、少しだけ緊張しながら、出してある番号にかける。
 すると、十コール目で留守電に変わった。
 もしかして、大学(がっこう)なのか、バイトなのか。
 ひとまず、履歴が残れば良いだろう。
 留守電に残すのも、何か違う気がした。
 それから、あたしは、引っ越しの時以来埋まり続けていた、大き目のスーツケースを、リビング側にある収納から取り出すと、息を吐く。

 ――もう、五年も使っていなかった。

 どこに旅行に行く訳でもなく、ひたすら、仕事とアパートの往復。
 淡々と過ごす日々が懐かしく――そして、あの頃の、今よりも頑なだった自分を思い出し、自嘲気味に笑みが浮かんだ。

 ……今のあたしを見たら、きっと、眉をひそめるんでしょうね……。

 昔では考えられない状況に、あたし自身が、一番驚いている。

 ――そして、そのきっかけは――。

 すると、思考を切るように、テーブルの上のスマホが振動する。
 あたしは、手に取ると、苦笑いを浮かべた。
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