Runaway Love

74

「ビールでも飲む?」

 部屋の冷蔵庫から、缶ビールを二本取り出すと、山本先輩はそう言ってあたしに一本差し出してきた。
 あたしは、無言で首を振る。
「立ってないで座りなよ。――まあ、イス一個しか無いけど」
 言いながら、先輩はネクタイを外し、ベッドに放り投げる。
 ワイシャツのボタンを二個ほど外すと、あたしの両肩を押して、イスに無理矢理座らせた。
「――お疲れ様。大阪(こっち)に来てるのにはビックリしたけど、仕事頑張ってるってコトなのかな」
 そう言って、ニッコリと笑い、一瞬戸惑うくらい優しい言葉をかけてきた先輩は、そばのテーブルに缶ビールを置いた。
 あたしは、持っていたカバンをヒザの上に置き、持ち手を両手で握りしめた。
 その手が震えているのは、とっくにバレているだろう。
「――……帰してください」
「何で?」
「……あたしは、ここに来る事を同意していません」
「僕が会いたかったってだけじゃ、ダメなの?」
 あたしは、うつむいたまま唇を噛みしめる。
 ――胸の中の棘は、どんどん形をあらわにし、深く突き刺さる。
 けれど――もう、逃げないと決めたんだ。
 なら、もう、いい機会だ。

 ――ここで、決別してしまおう。

「――……あ……あたしは、もう、先輩に会いたくありません」

 顔を上げ、震える声で、そう言い切る。
 すると、先輩は目を丸くしてあたしを見た。

「……へえ……。何か、キミ、変わった?」

 その言葉には、反応しない。

 ――変わったと言うなら――みんなのおかげだ。

 この数か月の出来事が――これまでの二十九年をひっくり返してくれた。

 あたしが、自分自身と向き合うきっかけを作ってくれたのだ。
 目の前のこの男の言葉で、決定的に頑なになった心を、少しずつ溶かしてくれた。

 でも、きっかけ、なのだ。

 ――変わるのは、あたし自身の力だ。

「――……先輩」
「ん?」

「――……あたしは、高校の時、先輩が好きでした」

「――……へえ……」

 あたしは、気を良くした先輩を見上げる。

「でも、それは、作られた先輩です。――本当のあなたじゃない」

 もう、顔は伏せない。

「あなたが、遊びであたしに近づいたのも、奈津美目当てであたしの相手をしていたのもわかってます。――そんな男に、あたしは屈しない」

 先輩は、一瞬目を見開く。
 けれど、次にはあたしの腕を力任せに引き上げ、そのまま、ベッドに投げ込むように放った。
「――……っ……!」
 あたしは、ベッドのスプリングの反動で、身体をうまく起こせず、体勢を直す間にあっさりと組み伏せられた。

「随分な言いぐさだね。――まったく、いつまで経っても頑固な女」

 言いながら、あたしの唇に自分のそれを重ねる。
 あたしは、真一文字に引いた口に力を入れた。
 その気持ち悪さに、顔をしかめる。
「でも、うん、悪くないな」
 もう一度触れた唇は、無理矢理口内に割り込もうとするが、あたしは顔を背けて逃げる。
 すると、先輩は楽しそうに言った。
「僕、結構、従順な女しか抱いてないからさぁ、キミみたいなタイプ、逆に新鮮で良いかも」
 そう言って身体を離した先輩は、そのままシャツを脱ぐ。
「あ、シャワーは後にしよっか」
 あたしは、吐き気を覚えそうになる。
 上半身裸になった彼を見上げ、あたしはベッドから急いで下り、イスに投げられたカバンに手を伸ばそうとした。
 けれど、それはあっさりと掴まれる。
「残念。――今日は寝かせてあげないから」
「……っ……」
 覆い被さるように抱きしめられる。
 それは、もう、逃げさせないという意思表示に思えた。

 ――どうにかして、逃げなきゃ……。

 何か方法は――。
 そう思考を巡らせるが、すでにカットソーの中に滑り込んだ手に、身体が硬直してしまう。
「ホラ、いい加減――」
 頭が真っ白になりかけたその時、不意に部屋のチャイムが鳴った。
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